第6話 元カノの防犯ブザー(五日目)

 夜のバスではモネさんと会えなかった。退屈な1日はあっという間に過ぎ、翌朝を迎える。

 今日の講義は2限目から。3回生のゼミがある。

 ゼミは昨年、抽選で決められた。俺が最初に志望したゼミたちは悉く、定員超過。成績不振が影響し、見事に落選した。なんとか第5希望のゼミが当選したものの、実際に受けてみれば大外れ。名の知らぬ文学小説をひたすら研究するという開始1分で眠くなりそうな講義内容だった。ゼミの教授曰く、前期の最後には発表があるらしい。ちなみに配点は出席点が二十点、発表が八十点。第一回目のゼミで発表は厳し目に採点すると忠告された。外れ過ぎる。

 「ふぁ~あ……」

 公衆の場で大きな欠伸。最近、寝不足だ。講義の時間で中途半端に寝すぎて夜、眠れなくなる現象が起きている。直ちに規則正しい生活に戻さなければ、体がおかしくなる。

 「——多っ‼」

 バスに乗車すると、目の前には人、人、人、人——。例えるなら、インドの満員電車。尋常ではない人の多さに気圧される。ゼミがある日は、いつもこうだ。

 「すみません、すみません、すみません——」

 ペコペコと謝りつつ、つり革のある場所まで移動する。

 今朝の気温が高めというのもあって、車内が異常に暑い。体が沸騰しそう。

 俺のすぐ後ろでは涼しい顔でスマホをいじる女子大学生の姿。チラッとスマホ画面を見ると、吞気にインスタを更新中。幼い頃から都会に住んでいる人達にとって、これぐらいの混雑は普通なのだろう。堂々としたものだ。羨ましい。

 「すみません。そこ退いてください‼」

 乗車口の階段を荒々しく登る足音。お馴染みの声が耳に入る。

 「きゃっ⁉」

 突然、背中に強い衝撃。衝撃のあまり前のめりに倒れそうになるが、間一髪で踏みとどまる。

 「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ——。ゴメン、優クン」

 後ろを振り向くと、息を切らしたモネさんがいた。

 今日の服装は黒のトップスにホットパンツと薄着。真っ白な額に玉の汗を浮かべて、目が虚ろ。俺の体にしがみつき、今にも倒れそうだ。

 「大丈夫?」

 「うん、ダイジョーブ。ヘーキヘーキ」

 涼しそうな顔で汗を拭うが、無理しているのがバレバレだ。口角が痙攣している。

 「自分で立てそう?」

 「うん。ほら——」

 「危なっ⁉」

 俺の体から手を離そうとするが、足がぷるぷると振るえて後ろに倒れそうになる。

 俺は慌ててモネさんの手を掴み、彼女が倒れるのを阻止した。

 「うぅ……」

 「一人で我慢しないで。しんどかったら、ちゃんと言って欲しい。もっと俺に頼って」

 「——分かった。そうする」

 ムッと口を尖らせたあと、ギュッと俺の背中にしがみついてきた。モネさんの耳が薄っすらと赤く染まる。

 『——××大学行き、××大学行き~。まもなく、発車します。揺れにご注意ください』

 暫くしがみついたまま動かない。彼女の暖かい体温が直接背中に伝わる。

 「——ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ」

 息遣いがまだ荒い。激しく肩が上下に揺れている。汗の量もじわじわと増えている

 「しんどい?」

 「え、いや、別に……」

 「正直に言って」

 「——」

 下腹部を抑え始めた。表情が歪み、悲痛を訴える。見せかけの笑顔は完全に潰えた。

 「こりゃあ、途中で降りた方が良さそうだな」

 このまま彼女をほっとけば、一大事になりかねない。俺は咄嗟に降車ボタンを押す。

 「優クン、何してんの⁉ ゼミは——?」

 「今はモネさんの体調が最優先。一回休んだって、落単にはならないよ」

 「ダメだよ。私のせいで”また”迷惑かけたくない」

 「そんなこと気にするな。むしろ、車内で倒れられた方が迷惑だ」

 「それはそうだけど。でも——」

 モネさんは焦った表情で頭を抱える。悪いことをしたと慌てている様子だ。

 『——次は△△町、△△町~。次、止まります。停車してからお立ちください』

 駅前を発車してからまだ五分程度。そこまで駅から離れていない。バスを降りたらまず、モネさんの様子を見て病院に行くかどうか判断しよう。

 「ゴメンなさい、ゴメンなさい、ゴメンなさい、ゴメンなさい……」

 モネさんが何かブツブツと呟いている。声量が小さくて内容はよく聞こえない。

 「モネさん、降りるよ」

 「う、うん」

 バスが停車。人混みをかき分け、彼女の手を引っ張る。

 無事、バスから降りることに成功した。俺も軽く人酔いし、頭がクラクラする。

 「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ——」

 モネさんは荒い息遣いのまま、地べたにへたり込んでしまった。

 俺も彼女と向かい合わせになるように地べたにしゃがむ。

 「ちょっと、失礼」

 「ふぇっ……」

 綺麗に揃えられた前髪を上げ、額に手を当てる。熱を測るためだ。

 俺の行動に驚いてか、モネさんは可愛らしい声を漏らす。

 「——う~ん」

 熱はなさそうだ。ついでに扁桃腺の腫れも確認したが、特に異常なし。風邪の可能性は薄れた。もしかしたら、モネさんも人酔いで三半規管が狂ったのかもしれない。

 「痛っ!」

 モネさんの悲痛の声。火照った顔で下腹を抑え続ける。

 人酔いではなく、薄着でお腹を壊したのか。

「ズキズキとハァ、ハァ、ハァ、ハァ、お腹がハァ、ハァ、ハァ、ハァ、痛む」

 口を開くのがやっと。過呼吸のような症状に陥る。原因は腹痛にあったようだ。

 「じゃあ、早く病院に行った方が——」

 「いや、そこまでしなくてもいい‼」

 モネさんを背負うとするが、全力で止められる。結構な力で背中を叩かれた。

 「今日は女の子の日、だから」

 「あ」

 そういうことね。

 モネさんは再度地べたに座り込み、呼吸を整える。

 元々体調がよろしくなかった上に予想外の混みようで急激に体調が悪化したという。

 「トイレって近くにあるかな?」

 「えっと——」

 急いで周辺を見渡す。道を挟んで向かい側にスーパーを見つける。朝早くから開店しているようだ。

 「おぶった方がいい?」

 「ううん。1人で行ける。そこで待ってて」

 その場にゆっくりと立ち上がったモネさんは、千鳥足でスーパーの方へ向かった。

 「——ん?」

 カシャン、と物が地面に落ちた音。音の発信源はモネさん。ポケットから何か飛び出したようだ。

 「あの、なんか落ちたよ」

 「——ハァ、ハァ、ハァ」

 俺の声は彼女の耳に届かなかった。落とし物を残したまま、横断歩道を渡って行ってしまった。

 「なんだろう、これ」

 仕方なく、俺は落ちた物を拾い上げる。

 ちょうど手のひらサイズ。黄色くて丸い形状に赤いボタン。裏にはクマさんのシール——って、これは⁉

 「元カノの防犯ブザー……?」

 この防犯ブザーに見覚えがある。いや、これは確かな記憶だ。見間違うはずがない。これは絶対、俺が高校時代にプレゼントしたものだ。心配性だった俺が元カノのストーカー被害を聞いて、慌てて買ったヤツ。クマさんのシールが何よりの証拠。少し色褪せているが当時、俺が貼ったシールで間違いない。元カノはクマさんが異常に好きだったからな。

 「でもどうして、この防犯ブザーをモネさんが——?」

 そう云えば、昨日見たあのクマさんのキーホルダーも俺がプレゼントしたもの——?

 情報処理が追いつかず、頭がパンク。白い煙が上がりそうだ。

 「モネさんが実は元カノ——とかは絶対、有り得ない」

 なぜなら、元カノは数年前にこの世を去っているからだ。

 「もしかして、モネさんは俺の幻覚。それとも、元カノの幽霊——」

 いくら考えても、オカルトチックな答えしか出てこない。やはり、俺の見間違いなのか。

 眉間にしわができ、険しい顔になる。

 「お待たせ~」

 ここでモネさんがトイレから帰ってきた。どこか、スッキリとした表情になっていて安堵する——じゃなくて、今は安堵しているところかではない。

 「モネさん。この防犯ブザー落としたよ」

 「あっ!」

 「これって、確か——」

 「メ○カリで買ったヤツだよ」

 モネさんは俺の言葉を遮り、そう答える。防犯ブザーを目の前にしても笑顔は崩さず、至って落ち着いた様子だ。

 「私の両親って、すごい心配性だからこういうのを娘に持たせたがるの」

 「へ、へぇ~、じゃ、これはモネさんのご両親がメ○カリで買ったヤツなんだ」

 「そう」

 「カバンについてるキーホルダーも?」

 「そうそう。あれも防犯ブザーとセット」

 俺の元カノは死ぬ直前に元カレから貰ったものを全てメ○カリに売ってしまったのか。にわかに信じ難い。

 でもモネさんの顔を見る限り、噓はついていないようだ。謎が残る。

 「ん~」

 「どした⁉」

 「いや、よく見ればモネさんって俺の元カノとそっくりだなと思って」

 「他人の空似でしょ?」

 「そうかな——」

 一瞬、モネさんの笑った姿が元カノの笑った姿と重なって見えた。考えすぎかも。

 元カノが死んだ事実は変わらない。死んだはずの人が生き返るなんて有り得ない。未だに初恋を引きずっている自分が腹立たしい。

 俺に顔をマジマジと見られたモネさんは少し照れた感じで毛先を弄り、身をよじる。目が忙しなく泳ぐ。

 「ほら、ちょうどバス来たよ。早く、乗ろ!」

 「あ、ああ」

 モネさんに防犯ブザーを返し、バスへ乗り込む。車内はそこまで混んでなかった。ピークが過ぎたのだろう。楽々と席に座れた。

 「「——」」

 無言。何か喋るわけでもなく、2人して窓の外を眺め続ける。

 結局、大学に到着するまで、モネさんと言葉を交わさなかった——。

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