第3話
ぼくはポケットから端末を取り出し、地図を表示させた。画面に指を走らせて表示範囲を拡大したり縮小したり移動したりしながら眺める。どこかにゾウかクジラに関係しそうなものはないだろうか。それが名前なのか、形なのか、あるいはなにかシンボルのようなものなのか、わからない。なにを探しているかわからないまま探しているような状態だった。
それなのに思ったよりも早くそれは見つかった。ゾウの鼻防波堤。ゾウの鼻のような形をした防波堤だ。地図で見るとその防波堤は桟橋の根元あたりにある。ゾウの鼻の向こうに大きな桟橋があるようだ。ぼくはそこへ向けて歩くことにした。
建物を出て周りを見回すと、防波堤のそばにあるという桟橋はすぐにわかった。それは桟橋という言葉から想像されるものよりもはるかに大きかった。確かにクジラと言われればクジラに見えないこともない。ただ、どちらかというと水面に背中を見せているクジラではなく、座礁して浜辺に転がっているクジラだ。体のほとんどが水面の上に出ている、そんな印象だった。どんなクジラであれ、ゾウと出会ったクジラはあの桟橋に違いない。
小走りにクジラの正面に回ってみると、道路がそのままクジラに飲み込まれていた。ぼくはうっすらと口をあけたクジラに向かって歩いた。近づいてみるとクジラは建物になっていて口の扉から中へ入れるようだった。口の両側には頭へ上る坂があった。ぼくはその坂を登ることにした。坂からクジラの頭の上へ出る。坂の部分も含めてクジラの頭の上は板張りだった。歩くと足音が心地よい。歩きながらぼくは、クジラはどこまでが頭でどこからが背中だろうかと考えた。頭と背中の境界は、あまり明瞭なものではない気がした。
建物は桟橋の客船ターミナルで、いまぼくがいるここは言わばその屋上だ。ここは板張りで、しかも全体が曲面状で波打っている。こんな形に作るのがどの程度難しいのか詳しいことはわからないけれど、手の込んだものだという印象は受けた。この奇妙な屋上を訪れている人はぼくのほかにもいた。制服を着た高校生、自転車競技に出るような服装の西洋人、ギターケースを持ったおじさん、紫色の髪をしたおばあさん。クジラの背は広い。広い背中のどこに行けば良いのだろうか。ここに集まっている人たちの誰かが会うべき相手なのだろうか。周囲を見回しては端末の画面に目を落とす。ぼくはそんなことを何度か繰り返した。
夕焼け色の波がクジラの背中を撫でていく。遠くに見えるみらいの町にもぽつりぽつりと灯りがともり始めた。手すりにもたれて町を眺めるぼくを海風が撫でて通り過ぎる。気持ちがいい。
「大きな町だろう」
ぼくの隣にやってきた年配の人が腰の後ろに手を組んで町を眺めながら言った。ぼくはその横顔を見た。その老人は町を眺めたまま続けた。
「絵のような、景色でしょう。日が落ちて建物は空と陸の間に黒い海苔のように貼り付く。そこへ塩でも振ったみたいに光の粒がまかれていく。昼が夜になるだけなのに、町がまるで違うものに変化するようだろう。その変化の様子を見られるこの時間にここにいるのがわたしは好きだよ」
ぼくは老人の視線を追うように町を見た。太陽はどんどん沈み、空はグラデーションで塗られたカーテンを引くように色を変え、それにつれて町の灯りはどんどん増えていく。太陽が町の灯りを引っ張って移動しているみたいだった。
「あの光が塩だとしたら、ちょっとかけすぎですね」
ぼくがそう言うと老人は「ふぉあっふぉあっふぉあ」というような不思議な笑い方をした。ぼくはもう一度その横顔をじっくり見たけれど、たくさんの深いしわを刻まれたその顔からも、年齢を感じさせながらも潤いをたたえたその声からも、その人が男性なのか女性なのかわからなかった。話しぶりは男性のようだったけれど、この老人をおじいさんと称して良いものかという判断がつかなかった。
横顔がこちらを向いてまともに目が合った。ぼくは思わず大きく目をそらしてしまってから、特にやましいことはないような気がしてゆっくりと視線を戻した。でもまともに目を見るのは難しくて、首の辺りに視線を据えた。老人はぞろっとしていろいろな種類の布を張り合わせたパッチワークのような服を着ていて、胴と腕の境界も、上半身と下半身の境界も曖昧だった。
「きみはなにか大きな決断をしたのだろう」
「決断?」
「そう。決断の多くは選択。やるか、やらないか。行くか、行かないか。言うか、言わないか。引き受けるか、断るか」
そう言われて、ついさっきこのゲームを進めるという選択をしたのを思い出した。
「ある選択をするのは他の選択肢を選択しないのと等しい」
「でも」
その言葉に異論があって「でも」と口に出してしまったけれど、よく知らない相手にそんな異論を唱える必要はないような気がしてぼくは黙った。
「でも、なんだい? 思っていることを言ってごらん」
ぼくは「でも」を声に出してしまったことを悔いながら口を開いた。
「たとえば朝ごはんをごはんにするかパンにするかというとき、両方食べるという選択もあります」
老人はゆっくりと頷きながらぼくの聞いて、それから言った。
「それは朝食に何を食べるかという選択なんだよ。ごはんかパンという二つに絞った時点で他の選択肢を捨てている。そして両方食べるという選択は、片方だけ食べるという選択を捨てているんだよ」
「なるほど。おっしゃる意味はわかります」
「多くの選択は因果につながる。つまり選択したことによってなんらかの帰結が導かれる。われわれはしばしば、選択によってもたらされる因果を引き受けることになる」
「それは、自分の選択の責任は自分で取る必要があるということですか?」
「必要の有無ではない。引き受けざるを得ない、無かったことにはできない、という意味だよ」
「でも同時に」
老人の話を聞きながら、ぼくの中で日頃から感じていた形のわからないなにかがたしかなものになった。
「責任を取りたくないからなにも選択しないという生き方もできません」
ぼくはそう言って老人の顔を見た。ここがゲームの中だということがぼくに大きな勇気をくれていた。ゲームの中でなら堂々としていられる。誰にも気にかけられないぼくみたいなやつだって、世界を救う英雄になれる。
老人はぼくの顔を眺めまわしてから言った。
「うむ。それがわかっているのなら、きみは大丈夫だろう。先へ進み、その目で自分が選ぶべきものを選びとりなさい」
「あなたは何者です?」
「ただのお節介なおいぼれだよ」
老人はそう言ってまた「ふぉあっふぉあっふぉあ」と笑った。ひとしきり笑うと老人はぼくから離れ、ぼくの顔を見ながら何度か頷いて背を向けた。
「待って」
ぼくが去ろうとする背中を呼び止めると老人は立ち止まって振り返った。
「なんだい?」
「どうやってここから出るんですか?」
「ここからとは?」
「この世界ですよ。あなたはこのゲームの世界の人でしょう? ぼくは外の世界へ帰りたいんです。その方法がわからない」
「帰りたければ家へ帰ればいいだろう」
「いや、ぼくの身体は家にあるんですよ。ここへはゴーグルのイマースモードで来てるんです。どうやって元の世界へ帰るんですか?」
「きみには身体があるよ。わたしには見えている。違うかね。わたしにも身体がある。ほら、この通り」
そういって老人は腕を広げて足踏みをしながら自分の体を見た。
「あ、いえ、そうなんですけど。ここはゲームの中ですよね。だからぼくのこの身体はデータなんだ」
「それが何か問題かね。その身体がデータだとなにか問題があるのかね。きみはここにいてわたしと話している。きみもわたしもデータなのかね。あの町も。ここから見えるものぜんぶが。データ?」
老人はそう言うときらめく未来の町の夜景を指さした。
「そうですよ。これはゲームですからね」
「風も吹いているし人も大勢暮らしている。わたしがいてきみもいる。なにも問題ない。きみは帰りたいなら家へ帰ればいい。中だ外だといったことはどうでもいいじゃないか」
「よくありませんよ」
ぼくは反論したものの、なぜよくないのか、この老人を説得できるほどに説明できる気がしなかった。自分でも、なにも問題ないんじゃないかと思い始めていた。
「いいかい。家に、帰りなさい」
老人はそう繰り返して踝を返すと、ぼくに背を向けて去って行った。あの老人と話すことがこのミッションの目的だったのだろうか。指示通りクジラの背に乗ったら話しかけてきたのだからきっとそうなのだろう。でもあの老人と会うことにどんな意味があったのか、ぼくにはよくわからなかった。なにか先へ進むヒントのようなことを聞いたのかもしれないと思って思い出してみたけれど、老人は家に帰れと言っていたぐらいだ。それだって帰ろうとした老人を呼び止めてした質問への答えだから、ぼくが黙っていれば出なかったはずだ。
「家ったって。この世界にぼくの家はないんだよ」
他にあてもないぼくは、自宅のあるあたりへ行ってみることにした。ぼくの家は鉄道の線路を挟んで港湾部と反対側にある。住宅街になっている小高い丘の、その中腹あたりだ。丘を登り切ったあたりに学校があって、ぼくは普段そこへ通っている。でも住宅地も学校もぼくが小学部の頃に再開発されたもので、港湾部がこんな風ににぎわっていた時代にはまったくちがう様子だったはずだ。学校もいろいろな統廃合があって、今では大半が義務教育学校として小学部と中学部を併せ持つものになっている。
歩いて住宅街まで行ってみると、意外なことにぼくの知っている景色だった。見覚えのある建物が並んでいた。ぼくの家もよく知った姿のままそこにあった。振り返ると斜面から見下ろす港湾部のビル街はビーズをまき散らしたみたいに光の粒で満たされていた。巨大なホイールは明滅していて、ここからでもわずかに時を刻むリズムが感じられた。外の世界ではひっそりと寝静まっているような街並みがここでは脈動していた。住宅街は外の世界と同じようだったけれど、ここから見える景色はやはりこの世界のものだった。
家に入ると母さんは夕飯の支度をしていて、あたりまえのように「おかえり」と言った。自分の部屋で仕事をしている父さんも夕食の時間には出てきた。いつものように三人で食事をし、いつものように会話をし、いつものように入浴した。母さんは父さんとぼくを見比べながら話し、父さんは「そうか」と相槌を打つ。母さんと父さんは箸の持ち方がわずかにちがう。母さんは父さんよりも少し熱い風呂を好む。父さんはぼくに「一緒に入るか」と誘うけれどぼくは「いいよぼくはあとで」と断る。なにもかもいつもと同じだった。ぼくはときどき窓から街並みを眺めた。そこに光が溢れていることだけが、ぼくの世界と違っていた。
たしかにぼくはこのゲームをスタートするとき、個人情報の使用に同意した。でもその個人情報に母さんや父さんのこんなにも細かい特徴が含まれるのだろうか。母さんも父さんも、どう見ても本人にしか見えなかった。ぼくは二人に「おやすみ」と言って自室へ引き上げた。部屋に入るといつもの癖でゴーグルを外そうとした。でもゴーグルは無かった。それはそうだ。ぼくはこの世界へゴーグルのイマースモードで入ってきたのだもの。いつもゴーグルを置く机の表面を撫でてみた。細かい傷までが外の世界のものと一致しているように思えた。慣れ親しんだキューブ型パズルもある。ぼくはそれを手に取っていつものように崩し、数分かけてまた元のように揃えた。キューブの手触りも感じる重さも表面の傷も、何もかもが現実そのもののようだった。この「シオンズゲイト」というゲームはただのゲームではない。思えば最初からそう書いてあったような気がする。ぼくはなにかややこしいことに首を突っ込んだのかもしれないと思いながらベッドに横になった。
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