第26話 のんびり
描くと決めたら早速描いてみよう、と日輪先輩が言うので、俺は文芸部の部室で漫画を描くことになった。
文芸部なら文芸部の活動をした方が良いのでは? とも思ったが、花村先輩も許可したので問題ない。それもいい経験だよ、なんて。
そもそも、うちの部は小説の執筆に全力を注ぐことを是としているわけではない。近々体力づくりを始めようなんて話もするし、また旅行に行こうという話もしている。
全ての経験が創作の上達に繋がるというスタンスなので、何をしたっていいのだ。
「とりあえずね、夜野君。漫画の初心者が、いきなりプロみたいなものを描こうとしちゃダメ。そんなのは絶対無理。素人漫画だけを掲載してるウェブサイトを見ればわかるけど、最初は誰が描いても酷いもんだよ。その自分のダメさと向き合うのが、最初の一歩」
日輪先輩のありがたいお言葉を胸に、俺はとにかく描き始めることにした。小説を書いているときも自分のダメさとは向き合っているので、きっと俺は大丈夫。
なお、漫画の元になる小説については、日輪先輩から短編を提供してもらっている。漫画にしやすい小説を作ってくれているので、そこはありがたい。
漫画を描くにあたって席順が少し変わり、俺の右隣に雨宮さんで、左隣に日輪先輩。いきなりハーレム系主人公になった気分だが、なんか浮気っぽいのでその考えはすぐに捨てた。俺と雨宮さんは恋人同士でもないけれど、俺は雨宮さんを裏切るような真似はしたくない。
さておき、ひとまず日輪先輩のタブレットPCを借りて漫画を描いていく。正確には、きちんとした漫画原稿ではなく、かなり大雑把に描いたネーム段階のもの。
描いてはみたが、全く勝手がわからなくて、目を覆いたくなるほど酷いものができた。
自分には漫画を描く才能が皆無なのだな、と確信するレベルだったのだが、日輪先輩は言う。
「始めはこんなもんだよ。漫画を描くっていうのは想像以上に高度な技術が必要だから、上手くできなくて当たり前。でも、たくさん悩んで、たくさん試行錯誤して、ずっと描き続けていけば、ちゃんと形になってくる。まだまだ諦める段階じゃないよ」
「そうですか……? まぁ、今は日輪先輩を信じます」
「うんうん。迷える子羊よ、私を信じなさい。そうすれば、地獄のより深い場所に到達できるよー」
「いや、それはむしろ信じたくなくなるのでは?」
「そう? でもさ、私、人間って本質的にマゾだと思うんだよね」
「ま、マゾ、ですか。急に変なこと言いますね」
「変じゃないよー。人間にはさ、楽をしたいとかのんびりしたいとかいう願望ももちろんあると思う。でも、だらだらー、のびのびー、ってしてるだけだと、なんか虚しくなっちゃうじゃない? 本当の気持ち良さとか充実感を味わえるのはさ、何かに打ち込んで、大変な思いをしながら何かを成し遂げたとき。そうでしょ?」
「……まぁ、そうかもしれません」
「だからね、人間は皆、マゾなんだよ。自分好みの苦痛を乗り越えるのが、人間の喜びなの。それを理解すると……地獄もそう悪くないって、思えるんだよ?」
日輪先輩のうっとりした微笑みが怖い。
言っていることは理解できるが、俺は日輪先輩の領域にたどり着ける気がしない。
「……日輪先輩、本当に発想がマッチョですね」
「ふっふー。脳筋先輩って呼んでくれてもいいよー」
「それ、呼んでる俺が周りから非難される奴ですよ。やめておきます」
「じゃあ、夜野君が筋肉の喜びに目覚めたら、脳筋君って呼んであげるね?」
「日輪先輩。女子だったら男子に何を言ってもいい時代は終わったんですよ。解雇案件ですよ」
「あらあら。残念」
日輪先輩の極度な脳筋理論は、きっと俺には合わないだろう。
でも、何か苦難を乗り越えた先に、俺の求める自信があるようにも思う。だから、自分の思う限界まで頑張ってみるのは有りだ。
それから、部活時間の終了まで、俺は漫画を描き続けた。
一日ではろくな成長もなかったが、日輪先輩の話を聞いていると、素人なりに漫画を描けるような気がした。気持ちの変化だけでも、成長と呼べるのかもしれない。
部活終了後、俺はいつも雨宮さんと二人で下校するのだが、今日は日輪先輩も一緒だった。電車通学で、同じ駅に向かうらしい。
「雨宮ちゃん。そんなに警戒しなくても、私が夜野君を盗ることはないよー」
三人で並んで歩きながら、日輪先輩が言った。雨宮さんは、俺と日輪先輩を近づけまいとしているのか、真ん中を歩いている。
「でも……その……」
「まぁ、気持ちはわかるよー。嫉妬しちゃうんだよね。いやぁ、可愛いなぁ、雨宮ちゃん」
日輪先輩は慈しむように微笑みながら、続ける。
「うーん……雨宮ちゃんはちゃんと自分の気持ちを伝えてくれたから、私も二人には言っておこうおかな。あのね……私、花ちゃんのことが好きなの。だから、私が雨宮ちゃんから夜野君を盗ることなんてないんだよ」
ん? 花ちゃんって言った? 岩辺先輩ではなく、花ちゃん?
聞き間違いではないと思う。雨宮さんも驚いた顔をしている。
日輪先輩に冗談を言っている雰囲気はなくて、今の言葉は真実なのだとわかる。
「日輪先輩って、女性が恋愛対象、なんてすか?」
「んーん。そういうわけじゃないんだ。男の子を好きになったこともあるんだけど、今はさ、花ちゃんのことが好きなの。他の人なんて、全く目に入らないくらい」
「そう、ですか……。それなら、もっと文芸部に顔を出しては?」
「……複雑なんだよね。できるだけ一緒にいたいとは思うよ。でも、どうせ叶わない恋ってわかっていながら、花ちゃんの側にいるのはすごく辛いの。一緒にいられるのは幸せなのに、泣きたくなるくらい切ないの」
日輪先輩の切なさが、言葉に乗って俺の胸を鋭く突き刺す。
俺が失恋しているわけでもないのに、日輪先輩の切なさが、痛い。
俺には、日輪先輩を慰める言葉など思いつけない。
反応に困っていると、日輪先輩が続ける。
「それにね。私は小説を書くより絵とか漫画を描くことの方が好きだから、そっちをちゃんとやるべきだとも思う。自分の好きなことに一生懸命な花ちゃんの隣に立ちたいなら、私だって、ちゃんと自分の好きなことやらなきゃー、って」
「……それは、少し、わかるかもしれません」
俺も、雨宮さんの隣に立つに相応しい人間になりたいと思っているから。
何かに一生懸命な人の隣に立ちたければ、自分も何かに一生懸命であるべきだと思ってしまう。
「私はね、思うんだ。恋のことだけ考えてても、恋は上手くいかないの。自分の成長もすごく大事。……ストーリー作りと似てるよね。小説を書くだけとか、漫画を描くだけじゃ、本当に面白い話は作れない。色んな経験をして、自分を成長させることが、すごく大事」
「……そうかもしれません」
「理解が早くていいね、夜野君。それでね、雨宮ちゃん。こういうわけだからさ、雨宮ちゃんは何も心配しなくていいんだよ? 私は花ちゃんしか見てないから、夜野君を恋愛対象としては見てない。友達としては大事にしたいけど、恋人同士になろうとは思わない」
「……はい」
「二人の関係がどういうものかは、私はよく知らない。きっと二人で考えるべき問題なんだろうから、あとは二人で頑張ってね? 夜野君も!」
「……はい」
「はい」
俺と雨宮さんが頷いて、日輪先輩は満足げに頷いた。
駅に到着して、俺と雨宮さんは日輪先輩と連絡先を交換した。
それから、日輪先輩は俺たちとは逆方向の電車に乗って帰っていった。
俺と雨宮さんは、二人きりでホームに立ち、電車を待つ。
「……夜野、君」
雨宮さんが、俺の服の袖をちょこんと摘んだ。
「ん?」
「……日輪先輩は、素敵な人、だけど……」
「うん?」
「……わ、わたしも、負けないくらい、素敵な人に、なるよ。頑張る……っ」
「……うん」
「日輪先輩じゃなくて……花村先輩でもなくて……わたしと一緒にいて、良かったって、思ってもらえるように、頑張るから……」
「……うん。ありがとう」
そんなに頑張らなくても、雨宮さんは俺にとって十分素敵な人だと思うけれど。
なんてことは言わず、俺も負けてらんないな、と思うだけにした。
それと。
「……ねぇ、雨宮さん。持久走は、始めに気合いを入れすぎると、後でばてちゃうじゃない? 先は長いんだし、のんびり行こう」
「……うん。そう、だね」
雨宮さんはふわりと微笑む。
俺も、あまり似合わないと思いながら、微笑みを返した。
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