茄子の音

岸正真宙

茄子の音

 ◆◆◆




 雲のない真っ青な空が、宇宙の際を映す。

 誰かが言っていた、冬の蒼空は一番高いと。

 私は蒼空に右手をかざした。

 太陽のプリズムが私の右手をすり抜ける。

 光の粒が、私の右手を通り抜けているのにも関わらず、私の右手の創痕は消えはしない。


 伸ばした右手を仕方なく下した私は、前を向いて歩き始めた。

 私が吐く息は白くて、私の早歩きのリズムにあわせて、ほっほ、ほっほと汽車のように吐き出ては空気中に溶けていった。

 そうして、川の河口の一番近くに架かる長い橋を渡っていく。

 渡った向こう側は都市部がある。

 この橋を人が渡ることが少なく、荷物を積んだトラックたちだけが早朝から朝にかけて行き来する。


 橋から望むことができる灰色の海から、風が吹き、私の頬を刺して、会社に着くころにはリンゴみたいな色になっていて、寒さに負けた肌が少しの痛みを生み出すのであろう。

 今朝の風や寒さは一段と厳しく、これと同じ地平に生まれなかったかのように、私のイヤホンから流れるLisztの『Liebestraum No.3』は穏やかなドナウ川の景色の一部のようだった。

 どこか、私の心はこの曲と一緒に並走しているようだった。

 そのせいか逸る足の速度や時間がもつ期限たちとは別に、ほんとうのところ私は全く逆を向いていたのだった。

 奏でられたピアノの旋律は私を自由へと開放してくれる。


 橋の真ん中あたりで、海の方を見ると遠くで飛んでいたカモメが目に入る。

 私は会社に行こうと足を動かしていたのに、どうしてか、そのカモメから目が離せない。

 カモメは海風の強いあおりを受けて、後方へと流されてしまった。

 私の目では、とらえることのできない風がカモメを一瞬で吹きとばすのだった。


 そのはずなのに——


 カモメは羽や身体をバタバタとして、決して美しくないのだがそれに負けないように全身をひねり上げた。

 そうすると、さきほどまで自分を脅かしていたはずの風のしっぽを捕まえてカモメは一気に上空へと上がっていった。

 その見事な飛空と重なるように、曲の重厚感が増していく。

 ピアニストは右手を高い打点から舞い降りては、踊り、また舞い、そして躍る。

 右手が主旋律を奏でていく。

 その力強さに引きずられていくかのように左手の伴奏が寄り添い始める。

 突如、右手だけが孤独になる。

 すぐさま左手の伴奏が後を追う。


 さまよう音に、一瞬、カモメは上を向いた。

 そのあとは、もう向こうの空へと超えていく。


 そして、ピアノも気づけば両手で奏でた音と一緒に落ち込んでいった。

 その旋律たちは私の耳の奥以上を揺さぶった。


 この光景があまりに美しいせいで、私にはこの世界のものかどうかが分からないでいた。






 ◆◆◆






「次は〇〇駅」

 満員電車に揺られながら、私はボーッと目線を泳がす。

 電車の車内の走行音はとても大きく、イヤホンから流れるメロディーはいつもかき消される。

 人が作り出した音は、仕事の為のものか、そうでないものかで全くもってその様相を変えるものだ。

 だけれども、私はどちらの音も同じようにも聴こえる時がある。

 そこには人の言葉が無く、人の気持ちが消えているようにも思えるからだ。


 ふと目に入る電車の中吊り広告。

 色んなゴシップが飛び散らかる。

 文字の情報は配置によって人の目に飛び込む順番を作り手たちは恣意的に行う。

 御多分に漏れず、私もその操作の通りに読ませたい順番で読み進めたら、目が止まってしまう。

「新しい癌の治療法」

 どんなものか、今更読んでも仕方ないのかもしれないが、やはり目が止まってしまう。

 私の手元に届いた一年前の大腸癌検査結果通知書は、陽性の文字だけが薄く書かれていた。

 そこに恣意性は無いのに。

 広告のようにそこに求められる事はないのに。

 私はそこを見ないでと受け止めてしまった。


 あれから。

 いや、別に。


「次は××駅、〇〇線を利用の方はお乗り換えになります」


 すっと開いた扉に吸い込まれた。






 ◆◆◆






 会社について、体に纏っていた冬の防具を脱ぎ捨てて、ロッカーに入れた。自分の席に着きPCの電源を入れた。

 会社の共有スペースにあるコーヒーメーカーにスイッチを入れてお湯を継ぎ足していつでも淹れられるように準備をしておいた。

 私は先輩たちよりも早く出社しているので、皆のデスクを拭いてまわった。

 東側の窓は大きくなっていて、そこから朝の純白な光が差し込んで会議用のテーブルや椅子を温めていた。

 近くに置いてある観葉植物の葉がてらてらと朝光を反射していた。

 私はそこに水を差したり、霧吹きで水をかけてあげたりした。

 植物たちの命の香りがする。


「おはよう、あーちゃん」


 席に戻ったら、隣のあずながちょうど出社したところだったから、声をかけた。

 あずなは耳に大きめのヘッドフォンをつけていたので、声に気づかなかったと思うが、私があげた左手に気づいてヘッドフォンを片耳だけ外してあいさつを返した。

 アジアンカンフージェネレーションの曲が漏れ出ていた。


「おっす、ほっぺ真っ赤じゃん、美琴っちゃん」


 そう言ってリュックを降ろして自分の席の後ろにかけて、PCを立ち上げた。

 横でMacBookを立ち上げて、早速ネットを見ていた。


「昨日いい題材見つけたのだよ。見てみて」


 見せてもらったのは、Gif画像で、とてもいい動きをしていて笑ってしまった。


「ふふ、美琴っちゃん可愛いの好きだな。ほらこの絵の配色かわいいとおもって。これ今回のに使えそうなんだよね。美琴っちゃん、背景をさ、描くときに合わせてもらえない?私が濃いめに使うからなるべく薄目で合わせて」


 私たちはイラストレーターで今回は一緒のジョブを任されている。

 あずなはキャラクター担当で、私は背景を担当しているが、設定はアートディレクターの人から頂いていた。

 既に数案だしていたが、まだ納得してもらえてない。


「よし、今日も描くかー」


 そう言って、あずなはまたヘッドフォンを耳に当てた。私も淹れたてのコーヒーのマグを左手で持った。鼻腔にコーヒーの香りが抜けていくのを感じてから、ひと口含んで同じく仕事に取り掛かった。

 左手で持つペンのタッチが今日は軽い。

 良い絵になればと願った。






 ◆◆◆






「そろそろ帰ろうかな……美琴っちゃんどうする?」

「うーん、これでやめておく、一緒に帰るよ」


 夕食を済ませてしまいたかったので、二人で駅前のラーメン屋で食べることにした。

 夜も更けてしまい、遅い時間だと選択肢があまりないのでいつもそこになる。


「今回、ヤマケンさんすっごい気合入ってるね。なかなか納得してもらえないなぁ」


 今日仕上げた、私たちのラフをアートディレクターのヤマケンさんに見せたら、まだ思っているモノとは違うということで、二人して撃沈をした。


「あと少しって言ってたよね。配色は褒めてたような気がするよ」

「うぎゃー……あれだって思いつきというか、なんというか。出会いだしな。キャラを配色から起こすとか高度なこと普通できんし、キャラのあとに配色だし。美琴ちゃんごめんね、今回は私が足をひっぱってるだろうな」


 目的のラーメン屋まで、二人で歩きながら色々と今日の仕事の話をした。

 あずなは根っからのイラストレーターだが、キャラクターを作ることはあまりしない。

 あずなは慣れないキャラクター書き起こしのジョブなので、力をほぼキャラデザに振ってしまいたかったから、私が背景で入ることになった。

 案出しの時にあまり分業をすることはしないのだが、今回のキャンペーンは今後の展開が多くある為、早くからイラストレーターを二人体制にして分業化を想定したかったとヤマケンさんも言っていた。


「うーん。うまい」

「あーちゃん、汁飛んだよ。焦りすぎだよ」


 慌てて、あずながテーブルを拭いて、笑って謝っていた。

 九州の豚骨ラーメンで麺が細く、箸で掬い上げた十数本の麺と麺の間に美味しい汁が絡まりついてくる。

 硬さもお好みで選べて、私はバリカタが好みである。

 歯ごたえが満腹中枢を刺激する気がする。

 毎日食べるとさすがに太るなと私は気にしていたのだが、あずなは今は糖質を摂らないとダメだと言い切る。

 減量よりもアイディアが欲しいとのことだ。

 私も横で同じように勢いよく啜って糖質を頭に叩き込んだ。

 美味しさに脳みそがふやけていた時に、あずなが此方を覗き込んでいた。


「美琴っちゃんはさ、本当は左利きじゃないのよね?」


 突然言われたので、何のことか一瞬さっぱり分からなかった。


「え、何で?」

「だって、線の描き方が細すぎる。力を込めないんじゃなくて、込めれないんだなって思ったんだ。まあ、逆にその細い線が魅力的なんだけども。確か、前なんかの時に、右手でハサミを持って切っていたよ」


 あずながそう言うとすぐに、店員が替え玉をあずなのお椀に入れたので、彼女はそのあとすぐにラーメンを啜り出した。

 店員の入れかたに勢いがあったせいか、ラーメンの汁が少しだけ溢れ出てしまった。

 赤いテーブルの上に白濁色の水分が、この世界にない島を地図のように描かれていて、中にある油がいくつもの円を描いて蠢いていた。


「……うん」

「やっぱりそうなんだ。あたし結構すごい? いい観察眼だよね」


 当てたことであずなは自分の観察眼を讃え、私は私でその話題を広げてしまった。だから、私の利き手の話はスープの中にかき混ぜられていった。


 改札口で明日の朝にはキャラのラフデザインを出すよと言って、あずなは元気よく階段へ駆けていった。

 私はその電車じゃないのでそこでお別れだったが、あずながホームに消える前に振り返って手を大きく振ったので、私も思わず手を振った。

 思わず右手がネオンの中で大きく弧を描いた。






 ◆◆◆






 私が小さい頃、親が知育玩具の一環でピアノのおもちゃを買ってくれた。

 KAWAIのミニピアノで木製のものであった。

 母は私にドレミファの音階名では教えずに鍵盤に野菜のシールを貼って教えてくれた。

 ドの音からトマト、大根、カリフラワー、ピーマン、とうもろこし、さやえんどう、人参、茄子。

 どの野菜たちもこっちを見て笑っている顔をしているキャラクターであった。

 まだ2歳になって間もなかった私は、猛烈に鍵盤をいじっていたそうだ。

 私が音を出すたびに母は喜んでくれたそうで、それが嬉しかった私はキッチンの傍までピアノを持参して母の反応を見に行った。

 母は毎日がリサイタルだったと言っていた。

 カエルの合唱や、ロンドン橋、どんぐりころころと、母は私に丁寧に教えてくれたそうだ。

 その甲斐あって3歳になる頃にいくつかの曲は弾けるようになっていた。


 私はそのあとスムーズにピアノ教室に通うことになった。

 練習も楽しくて師事した先生もよかったおかげでいくつかのコンクールで受賞や入賞も果たし、私はピアノの演奏を楽しみ、のめり込んだ。

 もちろん自分の才能が神童と言われる人たちに遠く及ばないことも実感もした。

 大きな大会に出れば出るほどその差がはっきりと輪郭を感じられた。

 それでも、私の未来はピアノを弾く人生であって欲しいと願っていた。


 高校1年の時だ。

 私は自転車で移動している時に、車に轢かれてしまった。

 幸い命に関わるような大事故ではなく、私は数日の検査入院と骨折だけで済んだ。


 右手首と指の骨折だった。


 リハビリを行い、いくつかのトレーニングをしたおかげで日常生活に支障はないほどになったが、かつて鍵盤の上を踊るようだったあの指には戻ってくれなかった。






 ◆◆◆






 家に帰り、電気をつけたタイミングでLINEの通知音が鳴る。

 父からのLINEは、短く「入院したよ」と連絡だった。

 すぐに電話をした。


「もしもし、どう? お母さん?」

「まあ、俺には分からん。ああ見えて強いからな、母さんは」


 あの日以降。あの、結果通知書が来て以降、父は母を支えた。

 明日の夕方以降で、大腸癌の切除手術をすることになる。

 父はいろいろと先生と話しながら治療方法を模索していた。

 私は何も決めれないでいたのに、母はまるで他人事のように父の思うとおりにうなずくばかりであった。

 施術はもちろん命にかかわるようなことではないが、100%がんがなくなるわけではない。

 術後の投薬が続くだろう。

 その痛ましさをいろんなネットの記事をみて知り、私の心は何をすべきかモヤのようなものがかかってしまって分からないでいた。


「今病院なの?」

「いや、今日は帰ってきた。また明日行くしな。これからだからな」


 父はそう言って、ぼそぼそと話して電話を切った。

 週末が来たら私も家に帰って母のところへ行くことにした。

 父の気持ちは今どんな風な気持ちなんだろうか。

 長い間一緒に居たから、普通なのだろうか。

 不安を押し隠しているのだろうか。

 それとも、そのどちらでもない何かなのだろうか。

 医者の話では、早期発見だったとのことで命に問題ないとのことだった。


 部屋の中に暗闇が這いつくばっている。

 一人暮らしで聞く沈黙は、言葉のない脅威である。

 大きな口を開けた何かが、ただただ、私を食べようとしている。

 音響にスイッチをいれて音楽でその沈黙をかき消した。

 入っていた、ヴェートーヴェンの『悲愴 第二楽章』が流れる。


 ピアノの音は静けさから生を産み、宇宙を形作る。

 右手の小指と中指が旋律の線を描く。

 二羽の小鳥が飛翔を繰り返すように、朝モヤの湖畔の上を飛んでいく。

 左手の伴奏で湖の水面の反射を表す。波のない水面は鏡のように濃い群青色を映す。

 時折、その静けさが私のこころにある不安を正当だと保障してくれているようだった。

 私にとても優しかった。


 耳にその余韻を残したまま、私は衣服を脱いで熱いシャワーを浴びて、すぐに寝巻きに着替えて布団にくるまることにした。

 布団の中で足を折り曲げて、なるべく小さく小さく固まった。

 耳にさっきの悲愴が再度戻ってきているような気がする。

 だけれども、音の記憶は鼓膜にないせいか、伴奏の音がいつもより低く感じて、乱れている気がした。

 私は目を閉じて、この世界の重力を忘れようとしたけれど、物理の法則は簡単には解けず、地球と私は引き合ったままだった。

 千切れるわけもなく。






 ◆◆◆






 右手を骨折した時の夢を見た。


 気が付いたら、病室で母が泣いていた。

 私は宙を見て、母を見ぬふりをした。

 そういえば課題曲はテーマが喜劇であったと思い出し、母の涙は何かの表現になると思い手を上げてピアノを奏でる真似をしようとしたら手があがらない。

 ひやりとした感覚が夢の中なのに蘇る。

「元どおりに戻るようなことはありません」と、肌の黒い白い服を纏った医者がカルテにカチカチと打ち込みながら言い放った。

 母は私の肩にそっと手を添えた。

 私はそれが重くて退けた。

 実際の時はそうしなかったが、夢の中の私はそうした。

 奥から看護婦が出てきて、医者を呼んだら、「以上です」と謎の呪文を私たちにかけてしまった。

 私はその鎖のような言葉を拭えないまま、身体をピクリとも動かすことがなかった。


 事故があって、私と母の生活から音楽が消えた。

 ピアノを弾くことは私の全てであった。

 弾けないことは、積み上げた積み木を壊されて、もう一度直すにもバラバラすぎて、その上ついていた明りまで消えたようなもので、それは何をすべきかを見失う日々であった。


 私の大事なものは壊れたのだ。


 先生に電話をして事の次第を伝えたら、大丈夫、大丈夫と言ってくれていたが、何が大丈夫なのかが理解できずにイライラした。

 母も大丈夫と言っていたので、もっと理解を示せと泣き喚いた。

 ピアノを置いた部屋へは次第に遠ざかるようになり、私は音楽が鳴っていると明らかに機嫌が悪くなった。

 母は音楽をかけないように努めた。

 そんな日が続き、家は自然と会話の少ない空間へと変異していった。


 ある晴れた日に、高校を早退して帰宅したら、母が一人鼻唄を唄って洗濯を取り入れていたのを覚えている。

 私はそれ聴いて、私が居ないときに結局は音楽を聴いているのだと随分と刺々しい気持ちになった。

 ただいまという声の音も出したく無くなり、扉を閉める音で帰宅を示した。


 母は私に気付き、そのハミングを止めた。


 母の表情は雲の陰に隠れていく。


 そのまま夢の螺旋階段を上がっていくように、もう一つの思い出が紐解かれる。


 高校も卒業が近くなり、私のデザインの専門学校への入学が決まっていたころの大掃除だった。

 子供のころに私が使っていたKAWAIのミニピアノが出てきた。


「あら、これは懐かしいわね」


 母の声は私への気遣いがないものになっていて、自然な声になっていた。

 私も懐かしさが勝り、ミニピアノの傍にいった。

 木製のためか、ずいぶん色がくすんでいたが、味が出てまだまだ遊べそうであった。

 鍵盤以外のところは幼い私が描いた拙い絵がたくさんあった。

 試しに鍵盤を叩いてみたら案外きれいな音が鳴った。

 ポーンと人差し指が奏でた音はそのまま拡がり家の隅々まで行き渡っていく。

 カーテンがひらりと揺れて、音をくすぐったそうにしているように見えた。

 これが音の力なのかもしれない。


「これは捨てれないねー」と自分の中の拙い私を思い出して母が言った。

 鍵盤のシールは剥げていたが、まだ貼ってあったので、私は右手でトマト、大根、カリフラワーと指を動かしていみた。


 部屋に音楽がよみがえってきた。


 私も自分の中にある音を掴みかける。

 先生と並んで演奏した日のこと。

 演奏会でかなり緊張してドレスの裾を踏んで泣いたこと。

 練習し過ぎてご飯を食べ忘れてたこと。

 新しい課題の楽譜を開くときの匂い。

 母が私の顔をみて笑っていたこと。

 母が私の音を喜んでいたこと。


 だけど、私の小指がナスの音にかかろとしたとき、小指は震えてそこに届かなかった。

 音がそれ以上響くことはなかった。


「美琴!」


 母は私を抱き寄せ、そこに私もしがみついた。


 私には音楽は戻らない。






 ◆◆◆








 冬の朝は朝日が遅い。

 私はもぞもぞと体を動かした。

 血液が回らないが、それでも起き始めた。

 暖房をつけて、部屋の乾燥を消し飛ばすためにお湯を沸かす。

 歯を磨いて、スマホを開けたら、あずなと父からLINEが届いていた。

 父からは「おはよう」とだけ入っていたので、身支度をしてすぐに電話した。


「もしもし、もう出る? お母さんにさ、頑張ってって伝えて」

「そうだなあ、頑張ってとは言わないけども、お前の気持ちは伝えておくよ」


 父は、心配だけではない何かを伝えるためにそう言った。

 そうしていつものように父がすぐに切るかと思ったら、急に思い出したように聞いてきた。


「お前はあの唄しってるの? あの頃、母さんが好きになったNHKの朝の唄」

「あの頃って……?」

「お前が、事故の後遺症で音楽と向き合わなかった期間だよ」


 父は私の今日の夢のことなど知る由もないし、あの頃父は私たちに関わってこなかったと思っていた。

 だから、距離だけおいて夫はこんな風に退避するんだと思っていた。

 私には見えないところで母を支え、私を見守っていたのだろう。


「さあ、知らないよ。どうして、急に?」

「いや、いいんだ。なんとなくな。あれ、いい唄だったんだ」


 少し、の沈黙。

 そして、「じゃあ行ってくる」と短く言って、父は電話を切った。

 電話の向こう側が、無機質な音に切り替わり、父の声音は私の中で忘れられた。


 父の沈黙にある言葉を探す。

 今、私には見つけられないものだろう。


 そのあと、あずなのメッセージを確認した。

 キャラクターデザインのラフ画がふたつほどできていた。

 色味も綺麗でキャラだっている。どこか野菜のようでもある。

 ふっと思わず笑う。


 あずなに返信をしていたら、父からのLINEがきた。

 そっちを見ればYouTubeの共有であった。

 さっき話をしていた唄だった。


 いつの間にか、そんなことが出来るようになっていたんだと思い、

 何気なく私はタップする。


 なんでもないヨーロッパの食卓で、二人の女の子が机をたたき出す映像が映る。そのリズムが、おまじないの合図として描かれる。


 その唄はリズミカルな曲調で朝日のあたたかさにぴったりだった。

 これから仕事に行く人の心を軽くしていた。


 ―今日の日が toi toi toi ―

 曲と歌詞にのり、

 青空がうつり、

 隣の人がうつり、

 重い鞄を持ち上げる人がうつり、

 数学の試験をうける学生がうつり、

 変な人が唄を歌っていた。


 ―いい日であるように―


 その変な人は、ただ毎日がいい日であるようにと願うと歌詞にのせた。

 世界にある、軽くて優しくて美しい何かがまるで誰にでもあるかのように。


 私はというと、その曲が賛美する日々の幸せのせいで、時間が解決をしてくれない後悔へと隠れて逃げたくなった。

 見るのを辞めたかったのに、あのときの母の鼻唄が重なった。

 あの時母が唄っていたのはこの曲だったのだ。


 あの日の母の願いが、今の私の願いと重なる。




 YouTubeは次へマークを中心に、ゆっくりと円を描いていく。

 私は、その画面の前で、止まっている。


 それなのに。


 あのとどかないはずの茄子の音が、私の頭のなかでハッキリと響いたのを感じれた。


 高くて綺麗な音は、あのとき風に吹き飛ばされた、かもめを上空へ飛空させていった。










 了


 引用曲:

 Franz Liszt - Liebestraum - Love Dream

 アーティスト:Various Artists (NL)

 https://youtu.be/KpOtuoHL45Y


 曲 ベートーヴェン : ピアノソナタ「悲愴」第二楽章

 ピアノ:ヴラディーミル・アシュケナージ

 https://youtu.be/jnj2pG1zmlA


 toi toi toi!(トイトイトイ!)

 曲:デーモン閣下

 作詞:うちのますみ・佐藤雅彦 

 作曲:近藤研二

 https://youtu.be/8Auu7_ZYhLw

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茄子の音 岸正真宙 @kishimasamahiro

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