雨と狼と檸檬
2ka
雨と狼と檸檬
「よお。やっと考えを改めて俺と結婚する気になったか?」
傘を畳んで濡れた手をハンカチで拭って振り向くと、軽薄な笑顔と目が合った。ひとを小馬鹿にしたような三日月の口元。朝から気分が悪いったらない。レジの位置が悪いのだ。店番の顔が嫌でも目に入る。
「目を開けたまま寝言を言うくらい辛いなら早く言え。開店時間が遅くなったって商店街に回覧してやる」
シャッターに記されたこの店の営業時間は午前七時からだが、六時には開いていることもあるらしい。誰が来るんだ。
最大級の不機嫌面を返してから、文庫本の棚へ向かう。お前との会話は終わりという意志表示のつもりなのに、この男はまるで頓着しない。カッと喉の奥からかすれた変な笑い声をあげた。空気読め。
「よくそんな口と態度の悪さで秘書なんてできてたな」
「私は真面目だからな。業務用の顔ってのがちゃんとあるんだよ」
「まるで俺が不真面目みたいな言い方だ」
「そう聞こえなかったか?」
「俺の仕事は速くて正確だって定評がある」
「へえ、校閲の方が本業だったとは知らなかった。認識を改めとくよ」
「収入を考えると本気で転職も考えるが、まだ本業は本屋だな」
「真面目な本屋の店主は客にいらっしゃいませって言うんだよ」
男はカカッと愉快そうに笑って短い髪をくしゃくしゃとかきまぜた。小学生のときからほとんど変化のない髪型を、私は猿頭と呼んでいる。
雨の日は偏頭痛が酷い。この男のいつもの軽口が殊更鬱陶しく感じた。
「やけに機嫌が悪いな。生理か?」
「死ね」
ざっと目を走らせた本棚は、ほんの三日前に見たときとずいぶん品揃えが変わっていた。つくづく変な店だ。寂れた商店街の年寄りどもが常連の小さな書店は、売上など高が知れているだろうに。
タイトルに惹かれて一冊選び出すと、
「ああ、それはお前好みだ」
店主がまた余計なことを言う。乱読の私には好みなどないし、あったとしても勝手に知った気になられるのは不愉快だ。
かといって男の言葉で選んだ本を変えるのも癪で、そのままレジへと向かった。
広い店ではないが、しかしよくこの距離で文庫の表紙タイトルが見えたものだと感心する。それなら私の不機嫌な顔もよく見えているだろうに、この男は何をニヤニヤと笑っているのか。こっちを見るな。
「不愉快だ」
「それが会計時に言うことか?」
「お客様は神様だって知ってるか?」
「直に仏様になりそうな客はよく来る」
男が差し出した手を無視して、トレイに小銭を置く。ちょうどの金額。レシートはいらない。カバーも栞も不要。本を渡してくれたらそれでいい。
いつもそうしているからわかっているはずなのに、今日に限って男は本をなかなか渡そうとしなかった。ペラペラとページをめくったりして文庫本を弄んでいる。
「なにしてる。早く寄越せ」
「うちの商品だ」
「支払いは済ませた。それはもう私のものだ」
「まだレジに金を入れていない」
「じゃあ早くしろ。客を待たせるな」
「生憎まだレジを開けてない」
カッとなったら負けだとわかっているのに、瞬間的な感情の着火は自分ではコントロールできない。手を伸ばして店主の手から本をひったくる。そのまま踵きを返そうとしたら、手首を掴まれた。腕から熱が広がって一層感情が昂ぶるようだ。
殺意を込めて睨みつけると苦笑を返された。そんな顔を向けるな。いらいらする。
「いつになったら結婚してくれる」
「お前と結婚するという選択肢が私の人生には存在しない」
「今更それはないだろう。散々注文をつけておいて」
「なんの話だ。私は断ったことしかない」
「最初は金髪なんかと結婚できるかと言われた。だから黒くしただろう。今は薄茶だがこれは地毛だ」
金髪に赤い縁の眼鏡という今以上に軽薄そうな見た目が、黒髪と黒縁眼鏡に変わったのはいつだったか。よく覚えていないが、身に纏う色を変えたぐらいでは人間の印象など変わらないなと思ったことは覚えている。
「目玉焼きは二つ目玉をひとつ作って一緒に食べるのではなく、一つ目をふたつ作る。それで手を打て」
「何を言い出すんだ。本格的にイカれたか?」
「目玉焼きにウスターソースをかけるような男はごめんだとお前が言ったんだろう」
私は醤油派だった。だってウスターソースは揚げ物にかけるものだろう?
「別に子どもも欲しくないし、お前のその言葉遣いもどうとも思わん」
仕事用の仮面をつけた私に好きだと言ってくる男は多かった。中でもひと際熱心な元同僚には、結婚を前提につき合ってくれとしぶとく迫られた。「私はあなたが思っているような女じゃない」という陳腐でいて何よりも端的に真実である私の断り文句を、男は一向に受け入れてはくれなかった。
「どんなあなたでも受け入れるつもりだ」
彼の想定した『どんなあなた』の中には、無愛想でふてぶてしい私も子ども嫌いな私も含まれてはいなかった。無理もない。陳腐で薄っぺらな言葉に舞い上がった私こそ、軽くて浅はかな女だったのだ。
私は結局一度たりともその男の前で素を見せることができず、仕事用だったはずの仮面は溶接でもしたかのように私に張り付いたままになった。破綻して当然だ。まずかったのはそれに気づくのが遅すぎたこと、そして相手が同僚だったこと。
婚約破棄と失職、自分の甘さを知る良い経験になったと割り切るには時間がかかった。若かったのだ。
「お前がどうしても嫌だというなら騎乗位も諦める」
容赦なくひっぱたいた――つもりが、狙いを違えて眼鏡を吹っ飛ばしてしまった。利き手を掴まれたままだから仕方がない。
元同僚とは体の相性もよくなかった。酒の勢いとはいえ、そんなことまでこの男に話してしまったのは、若気の至りで済ますには痛恨に過ぎる。
「酷いことするな。流行のツンデレにしてはちょっと激しすぎる」
「黙れ変態。手を放せ」
やれやれと呟きながら、それでも男は手を放そうとしない。空いている方の手で眼鏡を拾うのかと思いきや、レジ台の下からなにやら取り出した。
「なんだ」
「やる」
店主は取り出した何かを無理矢理私の手のひらに押しつけ握らせた。つるりとしたなめらかな感触。そっと手を開くと、小さな木製のボールが乗っていた。卵形のそれはおもちゃのように軽く、心地よく手の中に収まる。ふわりとレモンの香りがした。
「なんだ?」
「鎮静剤だ。あんまりイライラするな、お肌に悪いぞ」
渡されたボールを投げつけてやろうかと顔を上げれば、店主は何食わぬ顔で眼鏡をかけ直しているところだった。急激に激昂が萎える。
ボールをジャケットのポケットにしまい、買ったばかりの文庫本を鞄に入れて、今度こそ踵を返す。追いかけてくる視線はひたすら無視した。
雨は店に来たときよりも一層酷くなっていて舌打ちしたくなる。今日は一日中、頭痛に悩まされるだろう。うんざりだ。
傘を開くとき、不意にレモンが香った。きっとボールの匂いが私の手のひらに移ったのだろう。頭痛が遠のいて、ふっと肩から力が抜ける。
目敏い店主は私の様子に気づいたはずだ。注がれていた視線が笑ったような気がした。いい気になるな、腹立たしい。
視線を振り切るように、大股で雨の中へと歩き出す。雨音に混じって「いってらっしゃい」という声がはっきりと聞こえた。
雨と狼と檸檬 2ka @scrap_of_2ka
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