真夜中にダイブ

2ka

真夜中にダイブ

 月明かりに照らされてつるりと光る机を撫でると、不意にさみしい気持ちがこみ上げてきた。毎日毎日、嫌々向かってきた勉強机だけれど、十年以上も使い続けていればそれなりに愛着のようなものが湧くらしい。

 焦げ茶色の滑らかな机は、手のひらにひやりと冷たく心地よかった。

 両親に宛てた手紙はキチッと二つ折りにして真っ白な封筒へ。机の上に置いておけば見落とされることはないだろう。飛ばされないよう重しの代わりに腕時計をのせておいた。

 父が入学祝いに買ってくれた、私には不相応なブランドものの腕時計。きっと両親は私にこの時計に見合うような人間になってほしかったのだろう。

 ほんの少し、小指の先ほど少しだけ期待に応えられないことを申し訳なく思ったけれど、机から手を離すと同時にそんな未練は泡のように消えた。微かに漂うセンチメンタルも、やがて月の光で蒸発してしまうはず。

 振り返って長年暮らしてきた部屋を見渡しても、やっぱり強く心を引き留めるものは見つからない。青白い光に浮かぶ整頓された室内はよそよそしいほどで、早くここから逃げ出したかった。

 最後にこれだけは、と私は枕元に座らせてある人形を抱き上げた。

 つぶらな瞳と太いおさげがキュートな女の子のお人形。物心ついたときから一緒にいて、色とりどりの布でできた華やかな衣装は少し色褪せてしまっている。十六になった今でも捨てられない、私のお気に入り。

 整えられたベッドに寝かせて毛布をかける。身代わりにするようで後ろめたかったけれど、連れて行くことはできない。

 人形の額にキスをする。欠かしたことのない、私の眠る前の習慣。

「今までありがとう」

 囁くと、彼女が笑ったような気がした。都合の良い錯覚だと言われてもかまわない。私はとても満足した。―――もうここに用はない。

 振り返ると、窓枠に腰掛けた彼がこちらを見つめていた。大きな月を背負い、逆光で影になった顔の中できらきらと光る瞳が微笑んでいる。私の最後のお別れを、黙って見守ってくれていたのだ。

 駆け寄って抱きつくと、グラリと彼のからだが傾いだ。「おっと」なんて言いながらまるで焦る様子もなく、彼は片腕で私を抱き留めながら、もう片方の手で窓枠を掴んだだけでからだを支えた。

「危ないことするなぁ」

「お待たせ」

「もういいの?」

「うん」

 そう、と彼は小さく頷いて私のからだを離すと、窓枠に足をかけて外に身を乗り出した。私を振り返った彼は、かろうじて足と片手を窓枠に引っかけているだけの不安定な状態にも拘わらず、落ちる気配はまるでない。彼の周りだけ重力がないみたいだ。

 それなのに危ないことするなんて人間みたいなこと。どの口が言うんだか。

 彼のそういう遊び心が私はとても好きだ。

「じゃあ行こうか」

 差し出された手をぎゅっと握る。冷たい彼の手からジワジワと幸福感が満ちてきて、からだの真ん中が暖かくなるのがわかった。腕を引かれるままに彼の胸に飛び込む。

 顔を上げると、彼がとても嬉しそうに私を見つめていた。

「なに?」

「もう帰りたいって言っても帰さないよ?」

 言うわけないわ、そんなこと。

 そう言葉にする代わりに回した腕に目一杯の力を込めると、彼は窓枠を掴んでいた手を離して両腕で抱きしめ返してくれた。

 ふわりと心地良い浮遊感に包まれて、私と彼は一緒に夜の世界へと落ちてゆく。

 ―――さようなら。私の小さな世界。

 心の中で別れを告げながら、私は一度も振り返らなかった。

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