Code of Cyclops
彩林
プロローグ 事の始まり
prologue
時計の針の音が響いている。長針と短針が重なり、ボーンボーンと鐘の音が響いた。正午だ。
ぼんやりと布団の中で鐘の音を聞いていたアイビー・ブレアはのっそりと起き上がった。あくびを一つして緩慢な動きで洗面台へ向かう。
──面倒くさい。何もやる気が起きない。やることもない……。
アイビーの愛馬、ジョゼフィーヌは他の牧場にデートに行っている。隣の牧場にとっても格好いい方がいたから、今度連れて行ってと彼女に言われたのは一か月前ほどのこと。約束通り、昨日の夜彼女を送った。今日はテレビを見るかゲームでもしようかとリビングに行けば、どちらも先日壊れて修理に出したのを思い出した。大きなため息をついて、ごろんと床に転がる。一人暮らしの欠点は、こういう暇なときにやけに家が広く感じるところだと考えてじたばたと意味もなく暴れてみる。
──今日はもう一日中ベッドの中で転がっていようか、どうせ誰も来ない。
そうしてぼんやりと天井のシミを数えていると、コンコンと扉を叩く音が聞こえた。荷物でも頼んでいたのだろうか。誰も来ないと思ったのに、と少し残念に思いながら扉を開けた。
「やあ。今日は天気がいいね、アイビー」
にんまりとした笑顔が眼前に映った。蛇のような体躯に歌うような口調、左目を隠す黒髪――
ケイだ。彼はアイビーの元同級生で、普段は何をしているのかよくわからない奴だった。
「……ケイ?どうしたの、急に」
「せっかくのいい天気だし、久しぶりに遊びに行かないかと思ってね。見た感じだとアイビーも随分と退屈そうだし、どう?」
「えっと、まあいいけど」
「やった」
先ほどまでの退屈は解決しそうだ。気持ちが晴れて久々の遠出の予感に少し浮き立つような心地になる。
「用意してくるよ。どこに遊びに行くの?」
「最近、サンソンの南の方に新しくショッピングセンターが出来たのは知ってる?のんちゃんが行きたがってたからそこに行く予定だよ」
「きせきさんが?他にも誰か誘ってるの?」
「のんちゃんと私と、あとはラーニャかな」
ケイ曰く『のんちゃん』と『ラーニャ』──本名はそれぞれ『桃月きせき』と『メラーニャ=ラスプーチナ』──二人とも、アイビーがよく知る人物だ。彼女らもケイと同じくかつての同級生であり、腐れ縁でもある。
ふと眩しさが目について空を見上げる。ケイの言う通り、雲一つない青空が広がっていた。今日は随分と日差しが強い。上着は持っていかなくてもいいだろう。
サンソン地方は、アイビーの住むアイワナ草原から馬車でおよそ三十分かかる場所に位置している。娯楽が集中する街の一つで、コテン飴という不思議な味わいの菓子が名物らしい。アイワナ草原はその名前の通り草原が広がっているだけで、娯楽の類もほぼないため、初めて草原以外の世界があると聞いたときは幼いながらに驚いた記憶がうっすらとある。
「そういえば、きせきさん達とはどこで落ち合うの?」
「出入ゲート一番口。ゲートにもクレープの出店があるらしいよ」
「そうなんだ。……朝ご飯、実は食べてないんだけど食べる時間あるかな」
「え、そうなの。二人に言えば多分それくらいの時間は取ってもらえるだろうけど」
そうして他愛もない話をしているうちに段々と人の声が増えていく。サンソンを取り囲む大きな籠状のドームが見える。
――あれを見るのも久しぶりだな。
草原に籠りっぱなしだったアイビーにとって、それは数年ぶりに見るものだった。
「あー、そうか。君、何年籠ってたっけ」
「……五……?」
「君さ。絶対もっと年数行ってるでしょ。……私も久々に見た。ここ最近はドームのない場所にいたから」
――あのドームは歴史を遡ること千年以上昔に出来たものだそうだ。
かつて、この世界は大まかに分けて魔族と人間の二つの種族が存在し、また対立していた。日々争う中で、平和を希った二人の英雄がいた。人間のリーダー・アルトと魔族のリーダー・レオン。それぞれがお互いの手を取り、世界は平和への道を辿ろうとしていた。
しかし、それは突如崩れ去った。レオンがアルトを裏切り、世界を闇と混沌渦巻く絶望へと落とそうとしたのだ。圧倒的な魔族の力に対抗するように、天からの使者が現れた。彼らは瞬く間に魔族を退け、人間たちに身を守る術を与えた。その一つが、このドーム――要は結界だ。ドームが機能する限り、魔族は決して人間たちの街に入ることはできない。そして、このドームは世界中のどの町、どの都市にも張り巡らされている。
「魔族とはよく話すけど、お互いと仲良くやっていきたいって奴が相当いたよ。人間にだってそういうのがいるのは当たり前だよね。はは、お互いどうしようもできなくて可哀想だね」
「まあ俺たちがどうこうできる問題じゃないしね。……そろそろ一番口みたいだね」
「本当だ。荷物荷物……」
「ケイ、よくアイビーのこと引っぱり出せたね?何かすごく新鮮な感じ……」
桃月きせきは美しいホワイトブロンドを揺らし、高揚を露わに踊るように歩く。髪にマゼンタのリボンが揺れているのがかわいらしく映った。
「ふっふっふ。もっと感謝してくれてもいいんだよ」
「ケイほんと神ありがとう愛してる」
「あ、ねえあのお店どう?すごく琴線に触れるものがありそうな気配……」
きせきの隣でメラーニャが楽しげに笑う。彼女の動きに合わせてふんわりと揺れる濃紫のスカートが、彼女の持つミステリアスな雰囲気によく似合っていた。
ざわざわとした人の喧騒が心地よく感じる。ショッピングセンターがオープンしたばかりということもあってか、サンソンの街はいつにも増して人が多い。一歩歩けば右から、左から活気にあふれる呼び込みの声が聞こえる。ここまで人に囲まれる事もここ最近はなかったなとぼんやり思った。
「アイビー、君どこか行きたいところ無いの?のんちゃんたちはこの後、三階の雑貨屋に行きたいらしいけど」
「あ、どうしようかな。うーんと、じゃあ二階のスポーツ用品店」
そう、と笑うとケイはきらきらした服飾店ではしゃいでいる女子陣二人の元にゆったりと歩いて行った。手にはいつの間に買ったのか、真新しい手袋がはまっていた。
「きせのん、これどう思う?ここのフリルがすごく可愛くない?」
「え、いいと思う。リボンもアクセントになってて……」
ガラス張りの天井から見える青空が美しい。アイビーにはファッションのことがあまりよくわからない。特に女性ものはさっぱりである。きせきとメラーニャの会話はどこか遠い宇宙の言語であるような気さえした。ねえねえこれはどう、と平気な顔をして会話に混ざれるケイのこともよく分からなくなってきた。
――やっぱり外出って疲れるんだよなあ。
とはいえ、楽しいことは楽しい。もともと好き好んで一人でいるわけではないので、こうしてよく分からない会話を聞きながらでも疲労感と共に満足感を感じている。ふう、とため息をついて三人を眺めていると、きせきが軽快に走りながらこちらに向かってきた。
「アイビー、ちょっとこれ持ってて!あそこのタピオカおいしそうだから買ってくる!」
どさどさと大きな紙袋を三つ四つ渡される。別段重いと感じることはないが、よくこんな量を買えるものだなと少し驚嘆した。——それはそうとタピオカを買うなら、ついでだから俺にもひとつ買ってほしい。しかし三人は既に店に行ってしまっていて、言うことは叶わなかった。ソファに腰を下ろして横に荷物をまとめて置く。三人の良心に賭けることにしよう。
その時、ちら、と目に影がかかった。鳥の影だろうか、いやそれにしては随分と大きな影だったような。
そうして上を見上げた時、アイビーは自分の目を疑った。それと同時に、店内に轟音が響き渡った。ガシャンと硬質な音を立ててガラスが砕け散り、それに続くようにコンクリートの柱が崩れる。悲鳴の響く中、もうもうと立ち上る煙からその元凶がむくりとその体を起こす。
「——グリフォン……!?」
ここにいるはずのないものが、そこにいた。グルルル、と低く唸り声をあげている。吹き抜け構造であったため、一階まで落ちてきたようだ。ちら、と周りを見ればガラスで切り傷を負った者や瓦礫の間で挟まれそうになっている者、悲鳴を上げることもできず立ち尽くす者……。店員の数名が避難させようと大声をあげているが、パニックになっているようであまり避難は進んでいないようだ。
——怪我を負った者が多い。治療をしなければいけない。いや、まずそれ以前に結界はどうなっている。
グリフォンの動きを柱の陰から観察する。目が血走っていて、明らかに意思の疎通が取れそうな状態ではない。随分と大きい、後方支援の自分には手に余りそうだ。そうこうしている間に、グリフォンはゆっくりと移動を始めた。人間たちは未だ避難ができていない者も多い。早くどうにかしなければいけない。
そうして焦っているアイビーの元に軽快なコツコツとした足音が近づいてきた。
「アイビー!状況を教えて、一体全体どうしたのこれは」
「きせきさん、ちょうど良かった!俺にもよく分からない。けど、いきなりこいつが天井をぶち破って落ちてきたんだ」
「なんで?結界はどうしたの、グリフォンなんて警戒度三の優先的に排除される魔族じゃない」
「そうだよ、結界も後で確かめに行かないと。でもまずはとにかく、早くこの状況を打開しなきゃ。俺はけが人と避難の対処をする、そっちは——」
「あーグリフォンは任せて!ケイはもう戦闘に向けて配置についてる、お嬢もグリフォンの他に何か入り込んでないか探索してるみたい」
「了解。あとは頼んだよ」
きせきがグリフォンの方へ向かうのを見届け、比較的損壊の少ない場所に移動する。愛用の杖を召喚し、地面に突き立てる。対象は人間。魔力を込めて練り上げていく。
『傷を癒せ、病を治せ。天よ、星よ。我が命を聞き届け、人々の生を守り給え』
少しばかり鎮静の念も込めて呪文を唱えた。パニック状態の客たちもすぐに落ち着くだろう。回復は済んだ。次は瓦礫の下で動けなくなっている人達を助けに向かわなければいけない。休む暇はないだろう。ああ、せっかくの外出だったのに何でこんなことになったのだろう。
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