最果ての天秤
橘 紀里
1. 邂逅
土埃と硝煙、火薬、生々しい何かが焼ける臭い。そこら中に転がっている黒い影から流れ出す
それらを無感動に見下ろして、彼は懐から
だから、その日も言われるがままに
その姿が目についたのは、その場に他に立っている者がいなかったせいだ。もう声を発することのない命の抜け殻、あるいは間も無くそうなろうとしているモノだけが転がる大地。その人影は、昇り切る前の柔らかい夜明けの光を受けて、静かに、けれど燃え上がるように見えた。
うう、と彼のすぐそばで小さく上がった呻き声に、その影が振り向く。
黒い長袖に白いシャツを重ね、シルバーフレームの眼鏡をかけている。後ろで一つに
本来なら向けられるはずのない視線が真っ直ぐに彼の瞳を捉えて、驚いたように見開かれる。同時にその手から火のついた煙草がぽとりと落ちた。相手はまじまじと彼を見つめ、やがて
「おや、ご名答。まさかこんなところで
容姿からあたりをつけて、日本語でそう答えると、相手はあからさまに顔を
「……何で?」
「そっちの方が響きが格好いいでしょ」
「呼び名じゃない、何で私が日本人だと?」
「東洋系だから、適当に言ってみただけ。あとは俺の
「その
人種的な多様性は薄い国ではあるから、緩く波打つ少し暗めの深紅色の長髪の彼が道ゆけば一目を引くのは確かだった。それ以前に、そもそも人にはあり得ない異形の色——金の
薄く笑った彼の意図を悟ったのか、相手は舌打ちしながらもう一度懐から煙草を取り出して、火を点ける。流れるようなその動きと、深く吸い込んで吐く様子はどう見ても手慣れていた。少なくとも子供が興味本位で咥えている、という感じではない。
「誰が子供だって?」
「おや、心の声が聞こえちゃった? でも未成年でしょ、君」
「関係ない。ちゃんと大学も卒業したし、
その言葉で、青年がこの場所にいる理由を知る。国境を越え、あらゆるしがらみをも乗り越えて医療を必要とする人々のために危険を
「へえ、
微かに含ませた棘に気づいたのか、煙草をくゆらせていた青年の眼鏡越しの眼差しが鋭くなる。
「私たちの存在が気に入らない?」
そりゃあ死神だものな、と当然のように呟いたその言葉で、ようやく彼はその色に気づいた。わずかに淡い、紺がかった瞳。死神を容易に視認することのできる、
「随分動じないよね、君。もしかして以前から視えてた?」
そう尋ねると、相手はさして興味もなさそうに頷いた。
初めは幻影かと思ったのだという。戦地に来てから、あちらこちらで不審な動きをする怪しい人影をよく見かけるようになった。周囲の誰に尋ねても、そんなものはいないと言われる。さては
「死者が出るから死神が現れるのか、死神が現れるから死者が出るのか。どっちなんだ?」
「さあ、どっちだと思う?」
「前者だろう」
いやにきっぱりした口調に、思わず彼が目を丸くすると、今度は青年が薄く笑う。
「お前たちは生きのいい生者には近づかない。死にかけの人間か、死んだもののそばにしか現れない」
「それは時と場合によるよ。俺たちは必要な時に必要なだけ、人の命を刈る。ところがご覧の通り、ここでは俺たちが手を出す間でもなく、
彼らは、そうして定められた寿命を
皮肉げな彼の言葉に、だが青年は煙草を地面に落とし、踏み潰して火を消すと、そのまま踵を返して立ち去ろうとする。その時、もう一度すぐそばで微かに呻く声が聞こえた。
「助けないのかい?」
もう助からない命だと分かった上で、あえて笑ってそう尋ねた彼に、青年が振り返る。その眼には、存外に苛烈な光が浮かんでいた。昇り始めた朝日を受けて、さらに全身から燃え上がるような気配が漂う——それは、紛れもなく怒り、だった。
「ここにはもう救える命などない。私がそう
飛び級までして医師免許を取得し、戦地に飛び込む。理想に燃えた正義感の強い若者かと思ったが、それだけではないらしい。彼の中で、久しぶりに誰かへの興味という珍しい感情が俄かに湧き上がる。
「何で君は
「死神に答える義理はない」
「義理があれば答えてくれるのかい?」
すげない返事に、そう笑って返す。それもまた流されるのだろうという彼の予想は、意外にも裏切られた。
「
そう言って口元を緩め、眼鏡を外して見せた素顔は、思いのほか穏やかで柔らかい。
「いずれにしても、初対面の相手にするような話じゃない」
「なるほど。じゃあまたの機会に。君とは何だかまた会いそうな気がするし、名前を聞いても? 俺は
そう名乗って相手の顔を見つめると、しばらく何かを探るようにこちらをじっと見つめる。日本では古来より名は重要なものとされていたことを思い出し、軽く笑って見せる。
「俺は神でも悪魔でもない。名を聞いたからって君を呪ったり操ったりはできないよ」
だが、相手は答えない。その表情は静かだったが、真っ直ぐにこちらに向けられている視線は何かを見透かしそうに鋭い。それで、彼は両手を上げて降参の意を示す。
「わかったわかった。じゃあ俺の名にかけて誓う。君に不利益なことや、君が望まないことはしない。これでどう?」
「……
「
「人の名に勝手に意味を見出すな」
存外に強い言葉に目を丸くした彼に構わず、架南はくるりと踵を返して歩き出してしまう。
「え、カナン? もう行っちゃうの。俺に誓いまでさせておいて?」
今度は意味が乗らないように、慎重に平坦にそう呼びかけたが、相手は足を止めなかった。遠ざかるその背中に、聞こえはしないだろうと思いながらも、祈りのように呟く。
「ったく……俺とまた会うまで、ちゃんと生き延びておいてよね」
その声が聞こえたのかどうか。架南は一瞬だけ振り返り、やけに挑戦的に笑う。
「死神の約束、覚えておいてやる」
その表情が強烈に焼き付いてしまったことに気づくのは、もっとずっと後のことだった。
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