叫んで五月雨、金の雨。

蒼板菜緒

我が文学部の受難な一日

「イヌイットが、雪を表す言葉をいくつ持っているか知っているかい?」


また始まった。隣に座った光村がそう言いたげに私の肘を小突く。私だってどうすることもできないのは知っているだろう。諦めを込めて小突き返すと、光村も部長の長話に付き合う覚悟ができたようだった。その瞳には私と同じ諦観が宿っていた。


「表すって、一つじゃないんですか。」


質問を熟議した結果出した答えであることが伝わるように、恐る恐る言うと部長がにんまりと笑った。光村が先ほどよりも強く私を小突く。痛い。思わず彼のほうを見たら、親の仇を見るような目で睨まれた。でも、これは私が悪い。こうなった部長は長いぞ。


「とある調査では30程度あると言われている。古い調査ではあるがね。まあ、重要なのはそこではない。これはサピア・ウォーフの仮説、あるいは言語的相対論とも呼ばれているものに関係しているんだ。つまり、言語が人間の思考に影響を与えるという考え方だね。批判の多い仮説でもある。これは、いわゆる強い仮説と弱い仮説の二つがまず挙げられるんだが…。」


肩で下ろした長髪を雄大に揺らしながら、部長が熱弁する。彼女の瞳には、もはや私たちの姿は映っていない。言語が思考に影響を与える?そんなことはわざわざイヌイットを訊ねなくても、今の部長を見ればわかり切ったことだろう。


隣の光村は、もはや意識の全てを部長の美貌を眺めることに傾けているらしかった。部長の揺れる長髪に合わせて、視線と頭が振り子のように揺れる。この面食いめ。大方、文芸部にも部長目当てで入ったに違いない。


そうだ、文芸部。部長の話を聞いている場合ではない。


「部長、折角のお話なんですが、今日の会議の重要案件について話してもいいですか。」

「なんだね、さやか君。私の話を遮るということは、よっぽど重要な案件なんだろうね。」


大きな黒い二つの目が私を見つめる。整えられた鼻筋と、長い睫毛。同性ですらドキッとするのだから、思春期の男子がやられたらひとたまりもないだろう。


「部活の存続にかかわる話ですよ。」

「存続!?」やっと現実に戻ってきた光村が間抜けな声を上げる。こいつ、ほんとバカ。


「6月末の文化祭の出店の企画書が、来週提出締切なんですよ。この出店が部の存続条件の一つだって、さっき藤原先生が言ってました。」

藤原先生。顧問である。彼女自身もそのことを学年主任の坂木先生に言われるまで失念していたらしいが、それも仕方ないだろう。


私の話を聞いて、先ほどとは打って変わってパイプ椅子の上に小さくまとまって考え込んでいる彼女、部長こと佐々木和葉しか、1年前まで文学部にはいなかったのだから。それも、文学部らしい活動は一切せず、部室を不法占拠しながら知的探究活動(これは部長がよく使う表現だが)に励んでいたのだから、実質この文化祭出店が久しぶりの、公式的な文学部の活動になる。


「私たち新入生は例年の出店状況を知らないので、部長に指示を仰ぎたいと思って。いつも文学部ではなんの出し物をしているんですか?」


「…私も知らない。」小さくなったまま、目も合わせずに部長は言った。

「マジで?」空気を読めこのバカ。ちいちゃい部長が可哀そうだろ。てか部長やっぱ可愛いな。

「とすると、新しく考える必要がありますね。」

「企画書、来週提出なんだろ?間に合うのか?」そんなの誰だって分かってんだよバカ。見ろよ部長泣いちゃいそうじゃないか。お前のせいだぞ。


沈黙がわれらが文学部の部室を包む。先ほどの部長の講義が恋しくなるほど息苦しい沈黙を破ったのは、意外にも光村だった。


「部室探せば、何かあるんじゃないですか?ここ、ろくに掃除もしてなさそうだし。」


確かに。たまには光村も役に立つじゃないか。3人でも十分手狭に感じる部室には、過去の先輩方が遺した出版物や刊行物が、段ボールにしまわれて床やテーブルの上に並べられていた。その一つに、手をかけた光村が声を上げる。


「うわ、埃凄いな。いつから放置されていたんだこれ。」


つられて開けた段ボールからも、同じように埃と古い紙の臭いが噴き出す。換気扇などない部室は、あっという間に視界が悪くなるほどの埃に包まれた。慌てて窓を開けると、梅雨特有のじめっとした空気が代わりに部室を満たす。


「廊下側のドアも開けよう。俺、保健室からマスクと手袋もらってくる。」

そう言い残して光村が去ると、私と部長の二人だけが部室に遺される。さっきまで部の存続の危機に泣き出しそうになっていた部長は、もう光村が空けた段ボールの中身に興味津々だった。私を気遣う様子もなく、雑多に雑誌などを机の上に広げては嬉々として物色を始めている。


私、興味のあることしかできないから。

私が文学部の門を叩いた時、誰も出てこないことを不審に思った私がドアを開けると、ただ一人部長は部室の隅の窓際のパイプ椅子に座って、本を読んでいた。春の陽気に学校の全てが照らされている中で彼女だけがほんのり陰って見えて、それが彼女の長い黒髪が醸し出す雰囲気であることに気付く前に、私は入部を決意していた。彼女の姿に半ば一目惚れした形で入部を決めた私に、部長はただ一言そういったのだ。


しないでも、したくない、でもなく、できない。


そうして部長は、私に現代の学校教育の、特に高校のカリキュラムの構造がいかに歪で、それによって知的結合や体系的学問知以外の知の習得がいかに阻害されているかを2時間程度、外が暗くなるまで熱弁した後、さっさと帰ってしまった。そして、私だけが文芸棟の端っこにある暗い部室に取り残された。それが、私の文学部見学の初日だった。


それでもこうして文学部の一員として活動しているのは、ほっとけないと感じたからだった。類い稀なる美貌は異性を引き付け同性を遠ざけることがある。優れた知性はその逆だ。その両方を持つ部長が、時々語り終わった後にする寂しそうな顔が、私を彼女から遠ざけることを許さなかった。


「おい、さやか君。ちょっと。」


部長の声が、私を薄暗い部室に引き戻す。とても明るい声だった。興味のあるものを、興味の持てるものを見つけた時の部長の声だ。


嫌な予感がする。部長がこのトーンで話すときは大抵碌なことにならないのは、ここ1ヶ月の部活動で勝手に体が憶えていた。前回は学校付近の植生分布について、休日返上して調査させられたし、その前は植物の花言葉の国際比較を10か国間でやらされた。部長の知的好奇心を満たすことは、今の学校教育やインターネットには荷が重いのだ。駆けまわって、あるいは走り回って調べることしかできない。


席を立ち、恐る恐る部長に近づく。彼女は、古びた雑誌の中の一ページを目を輝かせるようにして覗き込んでいた。先ほどの、段ボールの中に入っていたものだろうか。


それにしても古い雑誌だ。カラー印刷もされておらず、おそらく手書きであろう、流麗素朴な字だけが茶色く変色した安っぽい紙に並べられている。これの何が部長の興味を引いたのだろうか。訝し気に眺める私を見て、雑誌を指しながら部長は諭すように言う。


「そもそもこれは何だと思う?」

「文集でしょう?おそらく、文芸部の先輩の。」

「そんなことは見れば分かる。君はリンゴを持っている子供に、わざわざ何を持っているか聞いたりしないだろう。」


呆れたようにため息をつく。いちいち嫌味な言い方をしなければ、可愛い先輩なのに。ふてくされた私は、よくよく雑誌も見ずに吐き捨てる。


「じゃあ、小説ですか。文集なんて大体そうでしょう。」

「全く…。君の文集に対する偏見を訂正することはここではあえてしないことにしよう。

これはね、おそらく詩集なんだ。」


ページを閉じて擦れた表紙を見ると、そこには『第××巻 文芸部刊行 文芸詩集』と印字されていた。

部長は最初からそれを知っていて、手に取ったのだろう。つくづく人を馬鹿にしている。


再びページを先ほど開いていたところに戻す。劣化が特に進んでいて、何が書いてあるかもよく読めない。

部長が何を言いたいかも良く分からない。


「なんでまた、詩集なんか。部長、詩とか読むタイプだったんですね。」

「失敬な。私は文学全般に深い興味と造詣があるんだぞ。」

「はいはい、すごいすごい。それで、これの何がすごいんですか。」

「そうだった。ここを見てくれ。」


ページの一部を指さす。そこだけが、かろうじて読めそうな雰囲気がある。

「えーと、漢字か。これ。」背景の茶色に重なって、インクが良く読めない。



「叫んで五月雨、金の雨。」



読めない私をじれったそうにみていた部長がたまらず、先に読み上げる。


「なんですか。これ。」

「さやか君、先ほど私がした話を憶えているかい。」

「イヌイットの話ですか。言語が思考を影響づける~みたいな。」

「そうだ。日本語で雨を表す表現がどれくらいあるか、知ってるかい。」

「またそれですか。20個くらいですか。」

「君はつくづく質問者を喜ばせるのが上手いね。

定かではないが、日本語における雨にまつわる表現は400種類以上あるそうだ。」

「400ですか。結構あるんですね。」


「だがその中に、雨と金を結び付ける表現は管見の限りない。紅雨や黒雨、白雨はあってもだ。私が、知る限り、そのような表現はないはずだった。」

「これを見るまでは、ですか。」微かに部長が頷く。

「そうだ。だから私は、この筆者がなぜそんな表現を用いたのか、甚だ疑問なんだ。」


この流れはまずい。先ほど予感的に感じた嫌な感じが、もはや私の目の前まで迫っていた。このままでは、とんでもない苦労を背負い込むことになる。直感がそう告げていた。なんとか部長を止めなくては。そう思った瞬間、部長が口早に続ける。


「私は、この表現がどんな思考の人間を影響づけたのか、とても気になる。つまり、この言語センスに影響づけられた思考の持ち主とは、どのような人間なのかが気になって仕方ない。」


もう逃げられない。こうなった部長は、だれにも止められない。私は刑の宣告を待つ被告のような気分で、部長が次に継ぐ言葉を静かに待った。

そんな私にお構いなしに、部長は高らかに宣言する。


「よって、今年度の文化祭における我が文学部の企画は、この謎を解き明かすものとする。

題して、『古き詩集の謎を追え!』大作戦だ!」


残念ながら、部長に美貌と知性を与えた神様は、ネーミングセンスまでは気が回らなかったようだ。あと、他人を慮る思いやりも。

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