タロットと犬

 目の前の占い師は微笑を浮かべながら、タロットカードをシャッフルし始めた。今にも折れてしまいそうなその細い腕からは、青い血管が生々しく浮かんでいる。

 ぼくは不安と共に、二十代そこらのこの若い女の動作を固唾を呑んで見守っていた。思いのほかシャッフルが長かったので、ますます不安は高まるばかりだ。カードを混ぜる手さばきが若干、不器用なのだ。

 様々な想いが脳裏を支配し始めた頃、突然占い師の手がピタリと止まった。ぼくはごくりと唾を飲み込んだ。そして心の内に生まれた僅かな緊張が顔に出ないよう、頑張って平静を保ち続けている。


「そうですね……」


 占い師がやや重たそうに口を開いた。その瞳の内には神秘なる輝きが宿っている。


「友幸さま。あなたのお悩みは無事解決に向かうでしょう。お引越しの件ですが、飼っているワンちゃんと一緒に伸び伸びと暮らすには、まず土地と自分との相性を知らなければなりません」

「はぁ、相性ですか? それは具体的に言うとどういった事でしょうか?」


 占い師は再び微笑を浮かべた。先ほどの不器用なシャッフルからは想像もできなかったほどの自信がオーラとなって現れている。


「具体的には順序を追って話してまいりましょう。まず、こちらのカードからご覧ください」


 そう言って、占い師が指差したその先には、角の曲がったボロボロのカードが、必然を装ったかのように机上に佇んでいる。古めかしさがやけに目立っていたので、肝心の絵を見るのは二の次になってしまった。

 ふと我に返ったぼくは、カードに描かれている男が"崖の方向"に向かって、陽気に歩いているのを発見した。更によく見てみると、その陽気そうな男の足元で、犬らしき動物が「そっちに行くな」と必死に止めているかのように見受けられた。


「犬ですよね? これ」

「そうですね」

「一体どういう意味なんです? このカード」


 占い師は笑顔で続けた。


「このカードは愚者といいます。深層心理の位置にでておりますね。あなたは生まれながらにして自由人です。その性格は行動にもよく現れています。ちなみに今まで何度お引っ越しをなさってきましたか?」


 ぼくは一室の黒いカーテンのほうに目をやって、指で数を数える。カードが示唆したのか、見ようによってはどこか愚かな姿かもしれない。数秒後、やっと占い師に視線が戻した。


「7回ですね、うん。7回だったと思います」

「ずいぶんと多いのですね。どうしてそこまでお引越しを繰り返してきたのか、それはあえて聞きません。なぜならわたしにはそれが分かるからです」


 ぼくは急に動転した。占い師の発した言葉がやけに強烈だったのだ。彼女にとっては日常茶飯事のことなのかもしれない。しかし占いに慣れていないぼくにとって、その言葉はやけに斬新だったのだ。



 恐ろしい言葉だ。ぼくはその時はじめて最初の不安が掻き消された事を知ったのである。しかし、こうやって呆然としていてはお金がもったいない。占いは時間制なのだ。そう我に返ったとき、ぼくは再び口を開いた。


「なにが分かるのでしょうか? もしかして僕のことが全部視えてるんですか? ねえ、先生。僕はこういうの慣れてないんですよ。ただ友達の紹介で半信半疑でやってきただけであって……」

「はい、友幸さま。あなたは二面性を持っております。楽観的な面と、悲観的な面。その相反する要素が時々ケンカをしませんか? この愚者が崖から落ちないように止めている白い犬。それはあなたの自制心です。それでも陽気に歩き続けるあなたの姿。そこからは破滅願望が読み取れます。お引越しは楽しいですよね。部屋にあまり多くの物を置かないあなたは身軽ですからますますそうでしょう。ただ……」


 そこで急に占い師の口が止まった。視線は別なカードに向けられている。


「ただ? ただ……なんでしょうか?」


 再び不安になった。その前になぜこの占い師は、ぼくがあまり部屋に物を置かないことが分かったのだろう? ただ、今はそんな疑問は聞かないことにした。


「土地におられる神とあなたの相性です。それが今まであまり良くなかったの」

「また相性ですか」

「そう、相性です。はっきり言うと、狐系の神です。今まであなたは無意識に狐を選んできたのです。でも狐とあなたは水と油。神だからといって全部が全部いいものとは限らないの」


 ぼくは面食らった。すべてが理解できたわけではなかったが、勝手にうんうんと頷いている自分がいる事に気付いたのだ。


「では狐は悪い神様なのですか? 今まで別におかしな現象とかありませんでしたよ」


 占い師はもはやテーブルの上のカードを見ていなかった。見なくても分かるのよ、といった具合に自信に満ち溢れた表情を浮かべていた。


「誰にとっても悪いというわけではないの。ただ、あなたには合わない。それだけです」

「はあ、分かりました。では結論を急いでください。僕が愛犬と一緒に穏やかに暮らすにはどのへんに引っ越せばいいのですか? 言いづらいんですがね、僕には彼女はいない。彼女いない歴イコール実年齢です。だからせめて愛する犬と慎ましく暮らしたい。狐でしたっけ? では、その合わない神様がいない物件とか土地を教えてくださいよ」


 ぼくは腕時計に目をやった後、苛立ちながら結果を聞き出そうとした。右脚は既に貧乏揺りを始めている。


「ではこの最終カードだけ見てください」


 身を乗り出すように、占い師と同じ方向に目をやった。言葉を失った。なぜならそこには世にも恐ろしい絵が描かれていたからである。


「死神です」

「なんですか死神って! 怖いし、もう絶望的じゃないですか! ねえ先生、僕は死ぬんですか?」


 ぼくはまくし立てた。冷静にぼくの顔を見つめていた占い師は首を横に振った。その仕草はぼくにとって、この上なく安堵をもたらしたのだった。

 死ぬわけじゃないんだ。ぼくは大丈夫なんだ。その瞬間、この若い女の占い師にここまで振り回されている自分が情けなく思えてきた。同時に笑いがこみあげてくる。


「あなたは死なない。でも死ぬの」

「はい?」

「一度死んで、また生まれるということです」

「ちょっと、たかが引っ越しの相談で何ですかこれ? ちょっと大げさだし意味が分かりませんよ?」

「いい? 友幸さん。引っ越しって何だか分かりますか?」

「引っ越しは引っ越しですよね」

「いいえ。引っ越しは死ぬことです。もうちょっと言えば、わたしたちは何かと出会い、別れ、何度も死んでゆくのです。具体的な引っ越し先を教えることはできません。ただ、これだけは言える。はっきりと言える。あなたの肉体は滅びても魂は永遠に死なない。でも関係性には永遠はないの。引っ越すことで、今の土地にいる狐の神との関係性も、もうすぐ終わりを告げるでしょう。それこそが死です。死ぬことって生きることなのよ。要は前に進むことです。この愚者はいずれ崖の下に落ちると思うでしょう? 犬もそれを必死に食い止めているでしょう? 実はね、これは崖じゃないの。ただの段差。つまり、あなたはこれから何かとの関係性の死を迎えるけれど、あなた自身は死なないんです。だから安心して。あなたのワンちゃんはね、いつも、これからも、あなたを助けていきますよ」


 そこまで聞いていたぼくは、いつの間にかこの占い師にすっかり魅了されているのに気が付いた。もう噛みつくこともしなければ、苛立った顔で腕時計を何度も見ることもしなかった。そしてこの時間が永遠に続くような気がしていた。帰り道に買ってゆく愛犬・ペティの大好きなドッグフードのことまで忘れていたくらいだ。


(そうか、いつも犬には助けられてきたんだな。ペティを道端で拾ってからずっと、助けてきたのは俺の方ばかりだと思ってきたもんな……感謝しなきゃな……)


「あ、先生、また来てもいいですか?」

「いいえ。あなたはもう二度とここには来ないでしょう」

「どうしてそんなことが分かるのですか?」


 占い師は微笑んだ。そして、囁くようにこう言ったのだ。


「だってわたし、占い師だから……」


 どこか悲しそうだった。この悲しみは一体どこからくるのだろう?

 そんな疑問が生まれたと同時にタイマーの音が鳴った。


「ありがとうございました」


 占い師は深々とお辞儀をし、ボタンを押した。この別れの瞬間、ぼくたちは死んだのだった。悲しくて、でも、とても清々しい死に方だった。

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