桜吹雪と泡沫の君
叶けい
第一話 始まりの予感は桜色
―透人―
あんなに練習したのに上手くネクタイが結べない。
「
「待ってよ
玄関から呼ばわる声に焦って、ますます手元が狂ってしまう。
今日は四月一日。俺・
そこそこ名の知れた私大をストレートで卒業し、大手のIT企業に就職も叶った。
高校生の頃から周囲に内緒で付き合ってきた彼氏の慶ちゃんとは大学生になってからずっと同棲していて、もう5年の付き合いになる。
ようやくネクタイが結べて玄関へ急ぐと、慶ちゃんが少々不機嫌な表情で待っていた。
「ごめん、やっと出来た。」
「曲がってる。」
呆れた様子で、結局ネクタイを整えてくれる。
「就活の時に散々スーツ着たろ、何で上手くやれないんだ。」
「急いで結んだから、しょうがないじゃん。」
過保護に襟元まで整えてくれて、ほら行くぞ、と促されて部屋を出た。慶ちゃんの運転する車の助手席へ乗り込み、シートベルトを締める。
「今日だけな、送って行くの。」
「分かってるよ、慶ちゃんも担任持って忙しくなるもんね。」
慶ちゃんは高校教師で、担任は社会科だ。俺が高校生の頃はバイトで家庭教師をしていて、文系科目を中心に教えてくれていた。
「入社式から満員電車に潰されたらキツいだろ。」
「優しいなぁ。」
「明日からはもう甘やかさない。」
「はーい。」
走りだした車の窓から外を眺める。着慣れないスーツ姿の新社会人達が、ちらほら歩いていた。段々と緊張してくる。
「俺、ちゃんと働けるかな。」
「お前、頭は良いけど色々忘れっぽいからな。あんまりおっちょこちょいだとクビになるぞ。」
「プレッシャーかけないでよ。」
会社が見えてきた。近くの路地に停まってくれる。
「じゃあな、帰りは一人でちゃんと帰ってこいよ。」
「子どもに言うみたいな事言わないでよ。」
シートベルトを外し、後部座席に置いていた鞄を手に取る。
「行ってきます、慶ちゃんも気をつけてね。」
「透人。」
振り向くと、素早くキスされた。
「行ってらっしゃい。」
「…行ってきまーす。」
車を降り、見えなくなるまで手を振った。
「…珍しい事しちゃって。」
唇を触る。さすがに4年も一緒に住んでるとお互い空気みたいな存在で、今更ときめいたりする事なんて無くなっていたけれど、久しぶりに恋人らしい事をしてくれた気がする。
「よし、頑張ろう。」
小さくガッツポーズをし、会社の入り口へ足を向けた。
配属されたのは、まさかの営業部だった。企画部に希望を出していたけれど、やはりそうそう思い通りにはいかないらしい。
部長を除いて先輩達は結構若い人が多い。そこに営業事務の女の子が数人。俺の同期は、
…それはいいのだが、俺は慶ちゃんが危惧してた通り、毎日のようにおっちょこちょいなミスを連発しまくった。
得意先に挨拶へ連れてってもらうのに名刺入れを忘れ、コピー機を詰まらせ、電話応対では内線番号を散々間違え、あげく社内全体に向かってメールを一斉誤送信する有様。
「疲れてるね、名木ちゃん。」
配属されてはや一週間。毎日目の下にクマを作って出社してくる俺を見かねた先輩の
「大丈夫?」
「だ、大丈夫です…今日が終われば明日は休みなので…。」
金曜日をサラリーマン達が『華金』と呼ぶ理由が、身に沁みてよく分かる。
「…よし、なら気晴らしに合コンでもしよう!」
「はい?」
「今日、仕事終わってから予定ある?」
「無いですけど…。」
「おっけー、じゃあ秘書課の女の子に声かけておくからさ。落ち込んだ時は女の子と遊んで飲むのが一番だ!」
「ええ?ちょ、あの…」
良いとも嫌とも言う前から、渡辺さんは早速、同僚の
女の子と遊んでも、俺は別に面白くないんだけどな。
そう思ったけど、まさか正直に言うわけにもいかない。これも、社会人の付き合いってやつか。
仕方なく、毎日夕飯を作ってくれる慶ちゃんに『今日は夕飯要らないです』とメールを打った。
慶ちゃん、俺が合コン行くって知ったら怒るだろうか。まあいいか、俺女の子に興味無いし。
会社の受付前で待っていたのは、秘書課の女の人たちが…四人。
「あれ、一人増えた?」
渡辺さんが顔馴染みらしい女の人に声をかける。
「そっか、じゃあ誰か呼ばないとな…」
「三浦呼んできましょうか?」
何気なく俺が出した名前に、秘書課の新人らしき若い女の子が色めき立つ。けど、渡辺さんは顔を顰めて小声で言った。
「あほか、あいつ連れてきたら女の子達みんな取られるだろっ。」
「はあ。」
渡辺さん、もしかして誰か狙ってるのか。
「いいや、あいつ呼ぼう。絶対暇してるから。」
そう言って、渡辺さんは誰かに電話をかけ始めた。
連れて行かれたのは、会社近くのお洒落なイタリアンバルだった。
「名木ちゃん、何飲むん?」
佐伯さんがメニューを広げて見せてくれる。渡辺さんは女の子達の相手に忙しそうだ。
「えっと…知らないお酒ばっかり。」
「普段飲まへんの?」
「あんまり得意じゃなくて…。」
「そんなら、とりあえずビール頼んどくか?」
俺は何にしようなあ、と佐伯さんがメニューを手に取って眺めていると、個室の戸がカラリと開いた。渡辺さんが顔を上げる。
「お、来たか
気づいた渡辺さんが声をかける。
「やほー、
よく通る声が聞こえて、俺も顔を上げた。
―目に入ったのは、柔らかそうな桜色の髪の毛。
透けるような色白の肌。右の目じりの、涙ぼくろ。
一重なのにぱっちりとした目が、俺を見た。何故だか心がざわついて、思わず目を逸らしてしまう。
「もう始めてた?」
桃瀬と呼ばれた彼は、空いていた俺の隣の席に座った。
「まだだよ、飲み物選んでる。」
渡辺さんが答える。自分の注文するものを決めた佐伯さんが、桃瀬さんにメニューを回した。
「俺、酒飲めないからなー。オレンジジュース。」
「よし、じゃあ注文しよ。」
渡辺さんが呼び出しボタンを押す。
注文した飲み物が届いたところで、乾杯して合コンがスタートした。
「俺、裕斗以外みんな初めましてなんだけど。皆さんは顔見知り?」
桃瀬さんが問いかける。大声で喋ってるわけじゃないのによく通る、耳に心地よく聞きやすい声。
「まちまちだよなー。女の子達は新人さんが二人いて、こっちも、その子が新入り。」
渡辺さんが俺を手で指し示す。
「今日は名木ちゃんのお疲れ様会も兼ねてんねんな。」
佐伯さんが俺に笑いかけてくれる。
「名木ちゃんて呼ばれてるの?」
桃瀬さんが俺を見る。
「えっと…渡辺さんがそう呼ぶので、営業部に広がってしまって。」
「何でー?嫌?」
渡辺さんが不満げな声を発するので慌てて否定する。
「そうじゃなく…!」
「名木ちゃんて呼びやすいですね。」
「かわいい。」
「…あ、そうですか?」
女の子達が笑ってくれるので、曖昧に笑って合わせておく。
「とりあえず順番に自己紹介する?」
渡辺さんの仕切りで、女の子達と交互に自己紹介が進んでいく。
桃瀬さんは自分の名前と、渡辺さんとは高校の友達ってことしか言わなかった。そんな特徴的な髪色で、どこで何の仕事をしているのかとか色々気になったけれど、渡辺さんが女の子を会話の中心に入れようとするのでそっちに合わせるしかない。
「名木ちゃん、どんどん飲みな。今日はナベさんが奢ってくれる言うてたで。」
ようやくビールを飲み終わりそうというところで、佐伯さんがメニューを手渡してくれる。
「佐伯、適当に頼んでやれよ。思いっきり強いやつ!」
渡辺さんが向こうの席から無責任な事を言ってくる。
「あかんて、名木ちゃんあんま酒得意やない言うたで。」
「何言ってんだよ、酒なんか飲んでれば強くなるって。」
佐伯さんがせっかく庇ってくれるのに、渡辺さんは無茶苦茶な事を言って勝手に何か注文しようとする。
「やめたりて。」
「大丈夫ですよ、せっかくだから何か飲んでみます。」
空気が悪くなるのが嫌で咄嗟にそう言ってしまう。
「ほんまに?ええ子やなあ名木ちゃん。ま、明日休みやしな!たまにはハメ外しや。」
そんなわけで運ばれてきた茶色く透き通ったお酒に口をつけると、鼻腔を突き抜ける強いアルコール臭のせいで、一気に目眩がするような酔いが回った。
渡辺さんに促されるまま、何か喋った気がする。煽られて無理に飲み干して、また違う味のお酒を飲んだ気もする。
不意に記憶が、ふつりと途切れた。
―朔也―
「あーあ、こんな潰しちゃって。」
目の前で真っ赤な顔をして机に突っ伏してしまった名木ちゃんを見て、俺は裕斗に呆れた視線を向けた。
「この子の歓迎会なんじゃなかったの?」
「ストレス溜まってそうだったから、発散させてやろうと思ったんじゃん。」
「慣れない酒飲ませて、発散も何もなくない?」
裕斗が一発目に飲ませたのはウォッカ入りのめちゃくちゃ強いお酒で、普段飲み慣れないらしいこの子には絶対きつかったはずだ。その後もどんどん違う種類のお酒をちゃんぽんさせて、気がつけば気を失うように名木ちゃんは眠ってしまった。
「アルハラで訴えられるぞ、センパイ。」
「いいじゃん、べろべろになって言いたい事言ってたし。」
「確かに。…って可哀想過ぎるよ。まだ配属されて、何日も経ってないんでしょ?」
名木ちゃんは二杯目のお酒で理性が飛んだのか、今まで溜め込んでたものを吐き出すように愚痴を言い始めた。さすがに秘書課の女の子達もドン引きで、裕斗が最後に飲ませた日本酒は、黙らせるためにとどめを刺したとも言える。
「大丈夫ですかー?」
トイレから戻ってきた秘書課の女の子達が名木ちゃんを見て一応心配そうな顔をする。
「あんま大丈夫やなさそうやけど、ひとまず今日は解散にしますか。」
佐伯君が声をかけ、裕斗が会計をしに個室を出て行く。
「おーい、名木ちゃん。」
ぽんぽん、と肩を叩いてみる。う…と微かな呻き声が聞こえた。
やばい。吐くかもな、この子。
「裕斗、俺この子送って行くよ。」
戻ってきた裕斗に声をかけると、あからさまに嬉しそうな顔をされた。
「まじで?大丈夫なの桃瀬。」
「ん、俺はもう帰るし。裕斗達は二件目行ってきなよ。」
「悪いな、頼んだ。」
さっさと女の子達を連れて裕斗達は個室を出ていく。残された俺は、もう一度名木ちゃんの事を叩いてみた。
「おーい。」
「…もちわる…」
「だよな?!トイレ行こ!トイレ!」
慌てて名木ちゃんに肩を貸して立ち上がらせ、トイレまで引きずる。個室からトイレが近くて助かった。立ち上がらせてみたら体格差があって、思いの外しんどい。
個室に入るまで間に合わず、洗面台で吐いてしまった名木ちゃんの背中をさすってやる。
可哀想に。あんなに仕事でストレス溜めてるのに、先輩に無理やり飲まされ、挙句置き去りにされ。段々とこの子が不憫に思えてくる。
ほとんど食べてなかったから出てくるのは水分ばかりだ。蛇口を捻って吐いたものを流し、ペーパータオルで口を拭ってやる。
よく見ると、名木ちゃんは結構綺麗な顔立ちをしていた。切長の二重に、高い鼻筋。三浦とかいう唯一の同期がやたら男前で仕事もできて、どうせ俺なんか…とか何とか言っていたけれど、自分だって結構モテそうなのに。
「立てる?帰ろう、名木ちゃん。」
「うーん…。」
頷きはするものの、ほとんど意識が無くなりかけている。早いとこタクシーに乗せないと。
何とか立ち上がらせ、店の外へ出る。今日は少し風が冷たくて、パーカーに薄手のブルゾンを羽織っただけの俺は肌寒かったけれど、俺に寄りかかってくる酔っ払いの名木ちゃんの体が熱いお陰で、段々と暖かくなってくる。
真新しいスーツには、少し皺が寄ってしまっていた。つくづく不憫だなあと思いながら、流しのタクシーを停めて乗り込む。
「名木ちゃん、家どこ?」
「…ちば…」
「えっ千葉?まじで??」
「んー…」
まともに返事しないまま、目を瞑ってしまう。だめだこれは。
「ちょっとごめんね。」
名木ちゃんの鞄を探る。財布から免許を抜き出してみると、本籍地が千葉県だった。
「ああ、実家が千葉県なのか。」
裏返すと都内の住所が書かれていて安心する。
「すみません、ここまでお願いします。」
タクシーの運転手さんに免許証を見せる。走り出してから元通り財布にしまって、鞄に片付けた。
俺の肩にもたれた名木ちゃんは静かに寝息を立て始めている。車内が、アルコール臭い。
「…ったく、裕斗のやつ。飲ませすぎだよ。」
乱れた前髪を梳いてやる。何か寝言を言っているけれど聞き取れない。
マンションの前に着いた。お金を払い、名木ちゃんを引きずるように降ろして入り口へ歩く。
そこそこ家賃の高そうなマンションで、出入り口は思った通りオートロックだった。自動扉の前で鍵を差し込まないと入れない。
「名木ちゃん、鍵は?」
「…。」
「もう…。」
スーツのポケットを叩いてみる。金属音がしたので手を突っ込むと、期待通りマンションの鍵らしき物が出てきたので鍵穴に差し込んだ。自動扉が開いてホッとする。
確か、免許証の住所には『503』と書いてあったはず。エレベーターに乗り込み、5階のボタンを押す。扉が閉まると、さすがにため息が出た。少し疲れてしまったかもしれない。名木ちゃんは俺よりずっと背が高いから、肩を貸すのも大変だ。
戸が開き、玄関の前まで行って再び鍵穴に鍵を入れようとしたところで名木ちゃんが俺の肩からずり落ちそうになった。
「ちょ、ちょ。名木ちゃんしっかり。」
うまく鍵穴に鍵が挿さらず手こずっていると、内側からロックが開く音がして驚いた。
「…どちらさん?」
涼しげな目元の、俺と同い年くらいの男が顔を覗かせる。
「…て、透人?どうしたんだ。」
部屋を間違えたかと思ったけれど、どうやら名木ちゃんの同居人らしい。お兄さん…にしては、顔が似ていない。
「どうもすいません。…おい、透人。しっかりしろ。」
俺の肩から落ちかけていた名木ちゃんを、男が抱き起す。名木ちゃんが、ふと目を開けた。
「あー!慶ちゃんー。」
名木ちゃんは突然相好を崩し、男にしなだれかかった。
「ばか、ちゃんと立て。」
「慶ちゃんー抱っこしてー。」
びっくりするような甘えた声を出す名木ちゃんを呆然と見ていると、慶ちゃんと呼ばれた男が俺に申し訳なさそうな顔を向けた。
「迷惑かけてごめんなさい、あとはこちらで…。」
「ああ、どうも遅くにごめんなさい。」
戸が閉まる。はあ、と大きく息を吐いてしゃがみ込む。
もしかして、あれは彼氏だろうか。そういえば、あんまり女の子達に興味なさそうだったような。
上がってしまった息が整うまで、しばらく名木ちゃんの部屋の戸を見つめていた。
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