第2話 邂逅

 もう何時間歩き続けただろうか。


 何時間、母さんの歌聲を聞き続けただろうか。



 気づけば俺は、街外れにある山間の土地にまで来てしまっていた。


 一本の畦道を無心に歩き続けていたら、ぽつぽつと点在していた数棟の木造家屋も姿を消していて、いつの間にか山と川しかないような人里離れた山地に来ていた。


 ヘッドホンのコードが繋がっているスマホの充電を見ると、もう二十パーセントを切っていて赤いラインに差し込んでいる。

 電柱すら見つける事も難しい僻地に居た事もあり、スマホは圏外になっていた。当然、母さんが楽しそうに歌っているポップな楽曲も停止していた。


「音楽が流れてないことにすら気づけないなんてな……」


 思わず自嘲の笑みを浮かべ、俺は数日振りにヘッドホンを外し首にかけた。そして、空虚な焦げ茶の瞳で周囲を改めて見渡す。


 川のせせらぎ、木の葉が擦れさざめく音。

 蒸し暑い盛夏にしては涼しい、黄昏時に吹く涼風。


 人の声や喧騒が一切聞こえないこの土地で、只々自然が息をする呼吸音だけが俺の鼓膜に響いた。

 長らく人工の音しか聞いていなかったこともあり、つい心地よい自然の音色に耳を傾けてしまう。自分の荒んだ心を――、人を憎み嫌っては拒む棘ある心を慰めてくれているような気がしたから。


「……母さん」


 父さんを早くに亡くし、女手一つで俺を育ててくれた、強くて明るい、太陽のような人。


 けどまさか、心身共に少しずつ蓄積させた疲労が祟って、交通事故であっけなく逝ってしまうなんて、当時は思いもよらなかった。


――疲れてる素振りなんか、微塵も見せなかったのに。


 今思えば当然かもしれない。

 親が子に対して、自分の弱い面を見せるはずが無い。余計な心配や不安をかけたくないって見栄を張って、そのうち自分の身体にすら嘘を吐くようになる。



 大丈夫、大丈夫、大丈夫って……。


 その結果がこれだ。

 あの時、俺がもっと母さんを気遣っていれば。

 無理にでも、仕事に行く母さんを引き留めていれば。


 そんな後悔が、母さんのことを思い出すたびに自分の脳裏に焼き付く。

 もう一人の自分が、母さんを引き留めることが出来なかったのは自分お前のせいだと責めるように。



「クソっ……!! どうして、あの時俺はもっと……っ」



 両目から熱い何かが伝う。

 そして、夕焼けに染まった橙の地に音も無く落ちた。



 その瞬間、何かが聞こえた。



「……は、命……、桜花……、……かい……酔い……れて」



 ゆったりとした子守歌のように包み込んでくれる歌だった。母さんの聲より少し高めの、玲瓏で美しい弦楽器のような音色。



「夏……、……盛りて……、木……青葉が……り、陽の和光……を照らす」



 母さんが死んで、誰の声をも受け付けなかったはずの自分が、今どこの誰とも知らない少女の聲を聞いている。



「秋は命巡りて、唐紅に染まり、錦の茜が大地を覆う」



 明瞭に耳朶に響いてくる聲を求めて、気づけば俺は駆けていた。

 母さんの面影残る、神秘的で蠱惑的な少女の歌聲に誘われて。



 ほとんど舗装されていない歩道を突き進み、突如現れた石段を駆け上がっていくと、そこには確かに存在した。




 今夕の柔らかな日差しが漆黒の長髪をより一層輝かせている儚げな少女が。

 

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