第3話 真相
朝の12時、約束の時間まではあと2時間ある。
僕は気象予報研究会で今日の気圧配置図を作っていた。太平洋高気圧とオホーツク海高気圧がぶつかろうとしている。いわゆる梅雨前線だ。昨日とは打って変わり、今日の天気は晴れて入るが、いつここでも雨が降るかはわからない。
要するに今日は荒れるということだ。
僕は翼との約束に気が重かった。浮気していたとしたら、僕はどう反応すればいいのだろうか。僕からしたらメグが翼と別れるかもしれない千載一遇の好機ではあるのだが、メグと翼のもつれなど、あまり経験したくないという思いもあった。一方で、浮気していなかったのであれば、なんということのない、いつもどおりの平穏が戻ってくるだけだ。何も気にする必要はない。
そう、本来ならば、僕は気にする必要のない事柄ではないか。他人の痴情のもつれなど、僕の関与する余地がない。それなのに僕が巻き込まれているのは、メグが僕のもとへ相談に来るからーー。
「呼びましたか。私のことを」
「うわああああ、いきなり人の心を読むな」
考え込んでいたところにいきなりメグが声をかけてきて、僕は思わず叫び声を上げてしまった。
ーーー
「先輩、一体どうしたんですか。いきなり大声上げて」
「ああ、いや、すまない。変なタイミングで声かけられたから」
メグもびっくりしていた。当たり前だけど、メグは僕の心を読んでいたわけではなかった。
「あ、これは今日の気圧配置図ですか。もしかして、これを作っていたんですか」
「ああ、ちょっと時間が余っていたからね」
「さすがですね。私はモクモクと雲々を考えることしかできないのに」
僕の気圧配置図に夢中になっているようだ。そんなメグの様子を僕は横目に見る。メグの横顔はいつもと変わらない。どこか幼さの残る無邪気な少女だ。やっぱりメグが傷つくところは見たくない。浮気の真偽は僕の目でしっかりと確かめて、そのうえでやんわりとメグに伝えよう。
もし浮気していたとしたらーーまた、酒に頼るかもしれないな。そう思って、僕は苦笑する。
「先輩?なにを笑っているんですか?」
「ううん、メグが褒めてくれたのが嬉しくて」
「あはは、それなら何回でも褒めてあげますね」
そう言いながらしばらく談笑していた。
ーーー
そろそろ大学前公園に行く時間帯だ。だが、メグを連れていくわけには行かない。なんとかメグを誤魔化して、一人で抜け出さないと。
「メグはしばらくここにいるのか」
「何言っているんですか。12時から、大学前公園で翼と会う予定じゃないですか」
あ、あれ。
「何でそれを知っているの」
「だって昨日3人で帰ったときにバッサーが言ってましたよね」
「聞いていたのか」
「ひどい!私が酔っ払っていたから、話を聞いていないと思ったんですか!」
「そんなことは……ないよ」
図星だった。というか、あの状態ではっきりと時間も場所も聞き取っていたのか。
メグは怪訝そうな目で僕の方を見ている。
「まさか、先輩、私が酔い潰れていると思って手を出そうとしたりしてましたか」
「してないよ!してないでしょ!」
僕はギクリとした。だが、よくよく考えると手を出したことはなかった。
「はい、私もされた記憶はありません。今回は不起訴としましょうか」
「不起訴じゃなくて無罪だから」
ーーー
「よう、翼、来たぞ」
「ああ、メグも一緒だったか。二日酔いは大丈夫?」
「うん、大丈夫」
どうやら翼もメグが来ることは承知していたようだ。
僕はこっそり翼のもとにより耳打ちをする。
「なあ、メグが聞いても大丈夫な話なのか」
「なんでだよ?」
「なんでって、お前が浮気しているかどうかの話をするんだろ」
「はあ?なんで俺が浮気しているんだよ」
翼が驚いたように声をあげる。どうやらメグにも聞こえたようだ。
「そうですよ、先輩。バッサーが浮気しているはずないじゃないですか」
浮気してるって最初に言い出したのはメグの方じゃないか。
「だったら、今日は何の話をするんだよ」
「だから、妹の話だろ」
「お前に妹なんていないだろ」
「妹がいるって最初に言い出したのは先輩の方じゃないですか」
しまった。つい言ってしまった。
翼は、大仰に手を広げ、やれやれと言わんばかりのポーズを取る。
「確かに俺は一人っ子だったが、まあ、妹ができることもあるだろう」
「大学生にとっては、なかなかないことだと思うが」
だがちょっと待て。妹が新しくできたか。
なんとなく話が見えてきた気がしてきた。
もちろん妹が産まれたという意味ではないだろう。写真に写っていた青井さんは明らかに翼と同い年くらいだ。そして、翼は母と二人暮らしのはず。つまり父はいない。
だとすると、妹とは。
「あ、来たようだな。おーいこっちだ」
翼が手を降ると、一人の少女がやってくる。
その顔は見たことがある。写真でも何度も見たし、昨日ハンカチを拾ったとき、そして食堂でも会っている。
「はじめまして、青井雪音と申します。父が翼の母と結婚したので、翼とは姉弟です」
ーーー
なるほど。再婚か。その可能性は考えていなかった。
いや、思いつくはずはないのだが。
とはいえ、妹がいたのだから、浮気ではなかったということか。僕は少し安堵した。
「はじめまして、雪音ちゃん。私は明野恵。よろしくね」
「こ、こちらこそ、よろしくおねがいします」
「雪音ちゃんは、ば、翼の妹なんだよね。今いくつなの」
「え?あれ?……えっと、私は翼と年齢は同じです」
「あ、じゃあ私の先輩でしたね。すみません」
「いえ、先輩だなんてそんな」
「じゃあ、雪音さんって呼ばせてください」
メグが雪音さんに気さくに話しかける。だけどーー。
ーーなにかがおかしい。雪音さんの返答もなんだか、辿々しさを感じる。それになんで翼はこんなにもったいぶっていたのだろう。再婚して妹ができたと一言言ってくれればいいじゃないか。僕とメグはなにかを勘違いしているんじゃないか。まるで、微細な水滴が空気中に漂う現象ーー靄がかかっているようだ。はっきりとした像が見えてこない感覚があった。
僕が考えていると、翼と雪音さんがコソコソと話していた。
「なあ、雪姉、晴香はどうしたんだ」
「晴姉も来ているはずなんだけど。多分公園のどこかにいると思う」
ん?なんか今、妙な話をしていなかったか。
僕は雪音さんのもとへと向かった。雪音さんは僕を軽く見上げて、ペコリと頭を下げた。
「青井さん、その、お久しぶりです」
「雪音でいいですよ」
「ああ、それじゃあ。雪音さんは妹なんですよね」
僕は何気なく質問したつもりだったが、雪音さんはなにやら歯切れの悪そうに回答する。
「えーっと、まあ、妹ではありますが」
なんだ?やっぱり何かがおかしい。
僕は改めて、翼に確認した。
「おい、雪音さんはお前の妹なんだろ」
「いや、違う」
翼はバツの悪そうに頭をかきながら答える。
「雪姉は俺の姉なんだ。妹じゃない」
どういうことだ。
雪音さんは翼の妹ではなく姉。
僕は少し混乱してきた。
ーーー
「どういうこと?雪音さんは、バッサーの姉なの」
メグも混乱しているようだ。
「ああ、すまない。今日は妹を連れてくるって話だったな」
「なにそれ?私はお呼びじゃなかったってこと?」
雪音さんがプクーっと膨れる。
「いや、すべての事情を説明したほうがいいと思ってな。雪姉にも来てもらいたかったんだ」
「すべてって、まだ話していないことがあるのか」
正直、親が再婚して姉弟ができているだけでも驚きの話なのに、まだこれ以上あるのか。
「ああ。実は青井家には2人の娘がいてな。雪音ともう一人は晴香って言うんだ」
「じゃあ、そっちがバッサーの妹ってわけね」
「そう。そういうことだ」
メグは安心したかのように一息つく。
たしかに単純な話だ。僕とメグは翼に妹がいると聞いてここに来たから、雪音さんを見たときに妹だと思いこんでしまっただけなのだ。実のところ、青井家には姉妹がいて、翼には新たに姉と妹ができていたのだ。
そう、単純な話だ。そうなんだけど、何かが引っかかる。
その時、雪音さんが遠くを指差した。
「ねえ翼、晴姉が来たみたいだよ」
「本当だ。おーい、こっちだ」
翼は大きく手をふる。それに気づいたように一人の少女が手を振りながら近づいてきた。
その少女を見て僕は驚いて声も出なかった。おそらくメグも同じだろう。
そこにやってきた少女は、昨日僕が会った青井さん、つまりは雪音さんと全く同じ姿格好をしていたのだ。
「ごめんごめん、道に迷っちゃって。はじめまして、青井晴香と言います」
ーーー
自己紹介を終えた晴香さんは事態が飲み込めないのか、あたりを見渡す。一瞬、僕と目があってペコリと頭を下げた。一方、僕は事実を理解できないまま、黙り込んでしまっていた。
「遅れてしまってすみません。今ってなんの話ししていたんですか」
不安げに晴香さんが聞いてくる。
「家庭の事情を説明していたんだ。ほら、俺らの事情って複雑だろ」
「ああ、まあ、受け入れがたいですよね」
翼と晴香さんが仲よさげに話している。
「ちょっとまって、晴香さんと雪音さんは双子ってこと?」
僕は、やっと質問をした。
「はい。私が姉で、雪音が妹ですね」
そうだよな。あまりにも見た目が同じだ。だが、だとすると何かがおかしい。明確に指摘はできないが、何かが矛盾している。落ち着いて1つ1つゆっくり考えていく必要がある。
「ちょっと、一回考えさせてくれ。たぶん、たぶんだけど、おかしなことが起きているんだ」
「え?先輩?わからないんですか?」
メグは首を傾げて、混乱している僕を見てくる。いや、わかるわけないだろ。
「メグにはわかったのか」
「要するに青井家には母とバッサーがいて、高良家には父と晴香さんと雪音さんがいたんですよ。そしてその両家の父と母が再婚して、バッサーは晴香さんと雪音さんと兄弟になったんですよ。そこで、バッサーは晴香さんの兄、雪音さんの弟に。晴香さんは、雪音さんの姉、バッサーの妹に。雪音さんはバッサーの姉、晴香さんの妹になったんです」
メグは一体何を言っているんだ。
「さすが、メグ!俺のことを理解しているんだな!」
「えへへ」
翼は手を叩いて喜び、メグの頭をなでる。メグは褒められて嬉しそうだ。
「いきなり長文で正解発表するのやめて。そしていちゃつかないで。僕は順番にゆっくりと考えていくから」
ーーー
まず、雪音さんは翼の姉だ。そして、晴香さんは翼の妹。でも、これは2人が双子であることと矛盾している。
「おかしいじゃないか。晴香さんと雪音さんは双子なんだろ。だったら、2人とも姉、または2人とも妹ってなってないと変じゃないか」
そう、双子ならば歳も誕生日も同じはずだ。だとしたら、姉と妹に別れることはないはず。
「それなんだが、そもそも再婚した場合ってどうやって、兄弟を決めるか知っているか」
僕の疑問に対して、翼が質問で返してくる。
「年齢、は3人とも同じはずだから、誕生日だろ」
「そう。ところがだ」
翼はそう言い残して黙った。
これは、まさか。
「誕生日も同じだったってことか」
「そう、その場合はどうやって兄弟を決める」
なんだその偶然。翼も晴香さんも雪音さんも同い年で同じ日に生まれたというのか。
「だとしたら、産まれた時刻とかで決めるんじゃないか」
「いや、考えてみろ。自分が産まれた時刻なんてわかるか?」
確かに僕も自分の誕生時刻なんてわからない。
「まあ、こんな偶然なかなかないことだからな。俺は図書館で調べたり法学部の教授に質問しに言ったりしたんだよ。実はな、親が再婚したとしても、子どもたちって法的には兄弟にはならないんだよ」
「そうなのか」
「ああ、養子縁組したら別だがな。結婚とかも問題なくできるんだ。だから一般的には、誕生日で兄弟を決めているわけだが、別にそうしなきゃいけないわけじゃない。誕生日まで一致している俺達は、話し合いで兄弟を決めたんだ」
なるほど。
僕は法律に詳しくないから、口を挟めなかった。
「そこで、俺と晴香と雪音の3人で希望を言ったんだ」
ーーー
「私はすでに、雪音っていう妹がいたし、これ以上、下が増えるよりはと思って、翼を兄にしたかったの」
確かに、晴香さんの立場からしたら、そう思うのかもしれない。
「私からすると、晴姉がいるからね。どちらかというと弟が欲しかったわ」
雪音さんの気持ちもわかる。要するにないものねだりなのだろう。
「俺は姉と妹の両方欲しかった」
「いや、なんでそうなるんだ」
翼の意見はどう考えてもおかしいだろ。
「いや、だって双子の姉か妹が2人できてみろよ。区別なんて全くつかないし面倒くさいだろ。だったら、姉と妹に分けて接したほうがやりやすいだろ」
むむ。そう言われてみると正論な気もしてきた。確かに晴香さんと雪音さんの両方が姉もしくは妹になったとして、全く区別がつかない。一方、妹がお兄さんと呼んでくれれば、それだけで判別はつきやすくなる。
「なんか釈然としないがわかった。それでお前は姉妹の間に入ったというわけか」
「それは少し違うな」
翼が首を横にふる。
「何がだよ。お前は姉妹の間に入って、晴香さんを姉、雪音さんを妹にしたんだろ……」
……ん?
なにかがおかしいぞ。
解決したと思ったが、よくよく考えてみるとおかしい。
逆、ではないか。
「そうなんだ。それが俺たちの家庭事情で最もややこしいところなんだよ」
ーーー
姉の晴香さんと妹の雪音さんの間に入ったなら、当然、翼は晴香さんの弟であり、雪音さんの兄になるはずだ。
だけど実際は逆である。翼は晴香さんの兄であり、雪音さんの弟と言っていた。
「さっき言ってたとおり、姉の晴香は兄が欲しくて、妹の雪音は弟が欲しかったんだ。そして、俺は姉と妹がほしい。この一見矛盾するような3つの願いを叶える方法が1つだけあったんだ」
僕にもなんだかわかってきた気がする。だけど、それはあまりにも常識の範疇から外れていて、人間社会の根幹を崩してしまいそうな関係だ。さっき翼が言っていた、法的に兄弟ではなく、お互いが呼び合っているだけだからこそ成り立つ関係。僕はこの状態をなんて表現すればいいかがわからなかった。
「要するに三すくみみたいな関係だ。晴香は雪音の姉で、俺は晴香の姉、そして雪音は俺の姉になった。」
僕の予想を翼が見事に説明してくれて、ため息をつく。
頭おかしいんじゃないのか。
そうとしか言えなくなってしまっている。深刻な語彙貧困だ。
「これで、俺の話は以上だ」
以上じゃなくて異常だろ。
ーーー
「なるほど。翼の家庭の事情はわかった」
僕ははっきりと嘘をついた。本当はよくわからないし、わかりたくもなかった。
「要するに浮気はしていないということだな」
「そもそも疑われているとは思わなかったがな」
「だから言ったじゃないですか。バッサーは浮気なんてしているはずがないって」
これって僕がおかしいのか。
「いや、それよりもメグにはいつか話さなきゃと思っていたのにずっと黙ってしまった。心配をかけてすまなかったな」
翼がメグのほうに向き直って話し出す。
「メグ、俺を殴れ。力一杯に頬を殴れ。俺は、途中で一度、悪い夢を見た。君が浮気しているかもしれないという悪い夢だ。君がもし俺を殴ってくれなかったら、俺は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」
なにを言い出すんだ。いきなり走れメロスするのやめてくれ。
メグは右手を大きく振りかぶって、助走をつけた。体をひねり、スナップを効かせて翼の左頬を平手で強打した。その勢いは凄まじく、ビンタした後も体を半回転ほどさせる。それを受けた翼はさぞ稲妻が走ったのであろう。2,3歩後ろにたじろいた後、腰を落とした。
いや、そこまで思い切り殴らなくても。
「バッサー、私を殴って。同じくらい音高く私の頬を殴って。私はこの数日の間、たった一度だけ、ちらとバッサーを疑ってしまった。産まれて、はじめてバッサーのことを疑った。バッサーが私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」
翼は右手を上げて振りかぶる。まて、本当にメグを殴るつもりか。
翼はメグの頬をめがけて右手を振った。メグは思わず目を閉じる。
だが、翼の手は頬に当たることなく。メグの頭の後ろに手をまわした。そのまま自分のもとに抱き寄せる。
「バカ、そんなことしなくても、いつでも抱きしめてやるって」
メグはひどく赤面した。
一体何を見せられたんだ。
僕はたまらず走り出した。
ーーー
今日、この公園で起きた出来事はあまりにも衝撃的だった。
すぐにでも家に帰って休みたい。そして忘れてしまおう。
だが、このときの僕は気がついていなかった。
ーー本当に平穏を崩す出来事は、この後に起きるということを。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます