【第六話 新たなる幕開け】





 散々繰り返される万華鏡のような美しい悪夢をまた今日も見て、真夜中に目覚める。起きてしばらくすれば物語を忘れてしまい、ただ色鮮やかであったこと、…………ひどく楽しくてひどく悲しかったこと、…………美しい日々の残像であったことなどが、まだ心にキラキラと光って、…………やがて、それも夜空の花火のように消えていく。

 無理矢理また寝ようとすれば、今度は本当に嫌な悪夢を見た。




*  *  *  *  *




「礼介!」

 思えば最初から奴は僕を呼び捨てにしてきた。通学途中にまたぞろ死体を発見し──道端に注意すまいと、流行りの歌謡曲に倣って上をむいて歩いていたところ、空から死体は降ってきた──警察沙汰になり、厭になって学業を放棄し自室へ引きこもったのだった。僕がいないほうが世界はよくなるのではないか、そんな誇大妄想をこしらえて、心地よい自虐にひたっていた。

 シヅさんの制止も聞かず、階段をドタドタと登る足音……その騒動を耳にして、僕は兄がやったきたのかと、まだ開かれぬ障子を振り返った。俺の迷惑になるようなことはするな、お前はどうしていつもそう良く在れないんだ、と、いつもの高慢な説教を想定して身構える。

 ところがスパァンと勢いよく障子を開け放ち乗り込んできたのは、見知らぬ男子学生だった。

 がっしりとした肩、腰と臀部にやや脂肪過多、白い靴下の親指部分に穴が開いている──気にしない性格か金がないか──僕と同じ制服を着ている以上、前者──筋肉のついた腕、えらのはった頬、思春期特有の肌荒れ、太い眉と力強い眼力は仁王像を思わせる──しかし優しい。きっと下に兄弟がいる。ざんばらに切った髪。厚い唇。情緒。豊かな感性。行動派。

 そして彼は、僕の名を呼んだのだった。大きな顔が嬉しそうにほころぶと、まるでひまわりが咲いたようだった。

「君が学校を休んだから、宿題を届けに来た」

 手にした紙の束を、戦利品のように彼は僕に掲げる。

「……それはどうも」

 彼の後ろでうろたえているシヅさんに、それを受け取るよう目配せする。宿題はへの字口の彼から女中の手へと渡され、最終的には僕の机に置かれた。珍客を階下へ戻し、茶でも出そうかとするシヅさんを止めて、放っておいてくれと手をひらり振る。君は誰だと問いかけて、ようやく角川罫は自己紹介をした。

「角川……ああ、あの」

 商家か。思うだけで口にはしない。苗字が俺の人格じゃないぜ、と先に罫が牽制してきたからだ。彼は断りもなく畳の上にあぐらをかいて座った。

「お前だって父親の複製扱いされたら怒るだろ?」

「複製は兄だ」

「そりゃ良かった。次男は悠々自適でいいよな」

 その物言いで、彼が長男であることを知る。適当に僕の本棚を漁っていた彼は、国語辞典を見つけて自嘲した。

 戦後、言葉から日本を変えるという思想にもとづき、国家は文筆に携わる者を召集した。土石流のようになだれこんでくる外来語、根強く残る方言の撤廃、身分の違いによる言語の格差、言文一致運動、更にその反駁、そもそも国語とは。代々辞典を作成し、出版業界を牽引し、そうして暗躍してきたのが角川家だ。あえて教科書は作らず、大衆受けのする本ばかり出版しているのが賢い。堅苦しいお手本になるよりか世俗に寄り添うような支配は支配とも呼べず、ただ愛され、彼の曾祖父から父親に至るまで、今のところ国策と商売は上手くいっている。

「ま、そんな話はいいんだよ。俺は礼介と宿題をやりに来たんだ」

 また彼はこちらを見た。見下ろすのも心地悪く、僕も椅子から畳の上に滑り落ちる。

「着物なんて旧時代的な服装をするなよ、若者」

「こっちのほうが楽なんだよ」

「……洋服だと体型出るから嫌なんだろ?」

 図星を突かれて、僕は顔を背ける。目解家の人間は皆、長身痩躯である。均整が取れていればまだ見ていられるが、僕の場合極端に脆弱なのだ。昔から兄と散々比べられ心配され可哀想がられてきたからよく分かっている。うるさい。ほっとけ。

「ほんと、女みたいな腕だな」

 手首を掴まれて、着物の袖が重力に従って落ちる。棒のように長いだけの腕はさらされた。やめろよ、と苛立ちを露にして僕は手を引っ込めた。

「すまんすまん。でもそうやって部屋でじっとしてちゃ、肉もつかないぜ。肌だって、色白を通り越して透けそうだ。明日は学校来いよ」

「いいんだよ、もう。僕なんて……」

「馬鹿野郎。俺が千賀先生に叱られるんだよ。課外学習でお前とペアなのは先生様のご要望だ」

「課外学習なんて、僕たちには何の意味もないだろ」

 学生の身分でありながら、実際にそこで働く大人達に混ざって、仕事の真似事をする。そんな宿題は本来早く一人前扱いしてほしい学生からすればご褒美なのだが、家業を継ぐ身としては億劫以外の何物でもなかった。どうせどこで、何をしたのか、一切明かせぬのだ。兄のように、ただ一日の予定を公務、公務、公務……と書き連ねて提出するのみになる。懸念事項としては、兄がやればなんやら正当性を持って見えたそれも、僕が同じ成果物を出したら、単なる手抜きと思われないか。

「あるさ。絶好の機会じゃないか」

 目を爛々と輝かせて、罫は言った。

「俺はやりたいことが沢山あるんだ。どれも却下されたがね。キャバレーのボーイ、バーテンダー、役者」

「それは当然駄目だろ」

「他にもあるさ。映画監督、スタントマン、鉄道の車掌、鳥人間」

「鳥人間?」

「飛びたい」

「飛行機に乗れよ」

「馬鹿だな。機械に飛ばされるんじゃないぜ。人間が自分の力で自由に空を滑空することに意味がある」

 解説は両手を用いて始まり、そのうち彼は立ち上がって大演説を始める。幼稚だと一言で馬鹿に出来る所業…………けれど僕には、なんだか彼が眩しく見えたのだった。

「………ま、夢語りはこの辺にしておいて、」

 と彼はしばらくして落ち着いた。

「せっかく礼介と組むんだから、どうせならお前も楽しむものがいいと思ったんだ」

 旭日章は苦手かね。格好つけて彼は僕へ手を伸ばす。大嫌いだ。口はそう動いたのに、僕は彼に手を重ねていた。







 振り出しに戻る、といった感で、僕はまた警察署の前にいる。まさか警官になりたいわけでもないのに、罫は意気揚々としており、気後れする僕を引っ張って中へと乗り込んだ。

 ──手の熱さを覚えている。

「自首しに来たのか」

「失礼な」

 鬼川警部にも怯むことなく罫は毅然としていて、今朝僕の遭遇した悲劇の詳細を聞き出す。

「子供に教えることなんざねェよ。ほら、帰った帰った」

 最初は鬼の形相で凄んでいた警部も、罫の粘り強さや快活な冗談に懐柔され、次第に眉間の皺を緩めていった。

「じゃあこれだけ教えてやる。どうせ明日の新聞にも出ることだ。あの死体はな、凍死だよ」

 僕と罫は、顔を見合わせた。




 それが僕らの、最初の事件だった。




 摩訶不思議な謎は、ほどなくして解決した。タネが分かってしまえばああなんだ、そんな単純なことだったのかと思える。冷凍の謎、鳥人間の技術を用いて計画された犯行、無色の殺意──素人で子供の僕らが、まさか犯人を引っ捕らえることなど出来るわけもなく、しかし、罫の気付きや僕の余計な発言がなければ、警察は犯人を逮捕できなかったともいえる。警察との珍妙な関係もこうして始まった。

「なあ、罫」

 ある日、僕は彼に言った。罫はいつものごとく、我が物顔で僕の部屋に寝転がり、漫画を読んでいた。

「君は僕なんかとつるんでて、いいのか」

「どういう意味だ?」

「……君には他にも友達がいるだろ」

「うん。それで?」

「刑事ごっこは楽しいだろうけど、罫の将来に役立つとは思えない。無駄なことに時間を費やしている場合じゃないだろ。それに、佐々木や野間達といたほうが、楽しいんじゃないのか」

「……人の行く末を案じるとは、随分と余裕があるね」

 罫は身を起こしてこちらを見た。

「あのなあ、礼介。俺はちゃあんと自分の時間を有効に使ってるぜ。第一、今の俺が充実してなきゃ将来もない。第二、他の友達とも交遊してる」

「……………そうなの」

「そうだよ。水泳をやったり、スキーをしたりさ」

「……………………」

「誘ってもお前、どうせ来ないだろ」

「………………………うん」

「だから誘ってない」

「………………………うん」

「第三、俺には夢がある。学生のうちはやらないが、大人になったら始めようと考えている」

 何をするつもりなのか、その時は教えてくれなかった。やがて僕は、この話を忘れてしまった。大学を出て、実際一人前になったあと、罫は小説を書き始めた。






 ──あのさあ、礼介くん。人がいなくなるってのは、悲しいことなんだよ。

 ──でもいつか、元気になんなくちゃ駄目だよ。






「子供が君の代わりの相棒?」

 その原稿用紙を机に戻して、僕は罫に言う。雑居ビルの最上階にある探偵事務所からは、青空と、帝都の街並み、どちらもを眺めることができた。

「子供向けの小説だからな。本当は小学生にしたかったんだけど、礼介が子守り苦手って、どっかで書いちゃったからなあ」

 忙しそうに筆を走らせつつ、罫は答えた。

「ふうん。ま、なんでもいいけどさ。しかし随分今回は様変わりしたね」

「ふふん。そうかい?」

「そうだろう。時代は未来のようだし、過去を語るのに、戦後だの震災だの……ええと、流行りの疫病? 物騒だなあ」

「いやあ、案外リアリティがある」

「酷いね。僕だけが生き残った探偵か?」

「そうとも。失望して、生きる意味をなくした名探偵さ」

 昔から罫は文字で以て僕を虐めるが、それにしたって今回は散々だと伝えた。彼は満足げに笑っている。

「若い子の熱気にあてられて、また昇華する。カタルシス満載の冒険譚さ。最近の映画みたいだ。なかなかいい思い付きだろ」

「罫」

「うん」

「本当は君、死んでないんだろ」

 途端、罫は天井を仰いで呵呵大笑した。

「おいおい、名探偵。俺はまだ物語の半分も書いてないんだぜ」

「締め切り、いつだっけ?」

「まだ余裕はある。──それより礼介、なんで気付いた?」

 罫は完全に手を止めて、僕の方へ体をむけた。

「相棒が死んじゃ、話は続かないからな。今回が最終巻でもなし」

「墓まで出したのに? ううん、死に損だ」

「死んでないんだろ?」

 そうだよ、と罫は口をへの字に曲げた。このあと、アッと驚く仕掛けがあるのさ。乞うご期待。

「ところで、代役の子供、なかなかいいだろ? 助手にするか?」

「倫太郎かね。さあ、高校生でも子供だからね。死体を見せるのはどうかな」

「何を言う。俺らだって高校生だったよ」

「今日日の子供は繊細なんだよ」

「そうかな。本質は変わらんと思うが。……ちょいとガキっぽく書きすぎたかな。……まあいいや。どうせこのぐらい天然じゃないと、礼介とは馴染めない」

「なんだか僕が侮辱された気がするなあ」

 コツコツとヒールの音がした。只今戻りました、と彼女が部屋に入ってくる。

「おかえり。君も死んでなかったとは驚きだ」

「あらやだ、何の話?」

 妻は怪訝そうな顔をして僕に近付いた。頼んでいた資料を彼女から受け取り、罫の執筆中の物語をかいつまんで話す。

「鬼川さんは生き残ってるわけね。なんだか悔しいわ」

「嫌だな、奥さん。最終的には貴方も僕も登場しますよ」

「あら、そうなの。早く書いて差し上げて。この人、孤独屋のようでいて、実際人寂しいのよ」

「重々承知ですとも」

 罫は再び筆を執る。君まで僕を馬鹿にするんだなあ、と彼女の腰に手を回す。

「だってそうじゃない、貴方。私達がいなくても大丈夫?」

 彼女は僕の頬を包み、じっと目を見つめる。美しい顔。




 ──私達がいなくても大丈夫?




「独りで大丈夫?」



 ──独りで大丈夫?






 大丈夫なわけ、ない。













*  *  *  *  *





 お帽子ついたる服! と意気揚々に我が家へ乗り込んできた倫太郎は例によって躍りだし、僕は手拍子を催促される。珍しく無地のパーカーだが、デザインは独特で、色も黄色のような橙のような、やたら目につく明るさだ。

「パーカーの語源はパークウェアです。転じてパーカー。公園に着ていけるようなラフな服。ポッケとお帽子が大事」

「そうなの?」

 違うんじゃないかと思いながら聞き返したら、本当は違いますと返された。

「本当はネネツ語でしたー。じゃじゃーん」

「はいはい」

「……えっ、本当に」

「はいはい」

 本当なんだってば、と倫太郎は僕にすがる。

「はいはい。ネネツ語。カッタリィーヤ語。次はなんだ?」

「えっ、えっ、ちょ、待って今回はマジだから」

「お帽子?」

「お帽子! あとポッケ。大事」

 何故だか勝ち誇って倫太郎は言う。

「大事ですか」

「大事だよ。ポッケにはいいものが入っているよ」

「たとえば?」

「なんでしょう。あててみて?」

 取り出したるは小さな紙包み。開けば、ガラス製の亀が現れた。きらきらと丸い緑に、半透明の手足と頭。

「あら可愛い」

「可愛いでしょー。作った」

「……………作った?」

 聞けば、課外学習でもの作りの体験をしたらしい。

「なんかねー、保育とか介護とかつまんないじゃん。どうせボランティアでも行くから。みんなそれが楽だって選んでたんだけどお。どうせだったら人生でやんないだろなってことしたくて。あのね他にはね、テレビスタジオとかハングライダーとかトリマーとかあったんだけど」

「……可愛い」

 手のひらにのせて眺める。光を含んで、内側から輝く亀。

 何故、亀。

「おれめっちゃ上手じゃない?」

「うん。芸術の才能がある」

「……………えへへ」

 相変わらずゼロ距離で話す子供を、今日は僕から手を伸ばした。自分は積極的に人に触れてくるくせに、やはりこちらから抱くと緊張するようだ。驚いて言葉を詰まらせた倫太郎は、しばらく大人しくなった。

 ────嫌な夢を見た。ひたすらに現実的で、長い悪夢だった。

 触れているこの感触こそが、熱が、現実だと思い知る。いや、思い知るために、触れる。

「礼介くんは、あの、え、課外学習とかあったの?」

「…………うん。あったよ」

「あ、え、あ、そうなんだ。何した?」

 当時の課外学習は、今でいうインターンやアルバイトのようなものだと僕は話した。仕事の真似事。実際、無給の軽い雑用。数日間かけて行われる実地体験。

「へえ、うらやま」

「そう?」

「だっておれら一日だけだからさあ。……それで? どこ行ったの?」

 親の手伝いだと嘘をついた。どうして嘘をついたのか考える。理由はいくつも思い浮かんだ。

 出会った頃よりも伸びた髪を撫でる。この子が大人になったら、どんな風に育つのだろう。顔を、姿を、想像しても沸いてこない。何の仕事をして、どんな生活を送るのか。…………

 倫太郎の肩の力は抜けないままで、鼓動の速さも伝わってくる。触られるのが嫌かと聞いたら、ううんと小さく返事があり、向こうから抱きしめてきた。






*  *  *  *  *






 一応、僕のもとへ来ている理由は忘れていないようで、毎回外出の提案はなされる。

「涼しくなってきたしさあ。お散歩どうでしょう」

「遠慮しておきます」

「なんでよ、もう。おれがいるから大丈夫なのに」

「その自信はどこからくるんだ」

「喉から」

「………………」

「貴方の自信はどこから? わたしは喉から!」

「………………」

「そーゆー冷たい無視やめて」

「絶句という」

「五言絶句」

「それは知ってるのか」

「授業でやった」

 日の暮れる気配を窓辺に感じ、僕は倫太郎に尋ねる。

「例えばさ、出掛けるとして、どこがいいんだ」

「んん、そのへんでいいからさあ」

「そうじゃなくて。倫太郎の理想だよ」

「…………んーとね。遊園地、野球場、動物園、水族館、博物館、あ、トーハクとカハク、あとは海、山、川、えーと、」

 でもやっぱり近所でいいや。最後はそう言って、倫太郎は僕の腕のなかで笑う。

「どうして?」

「だって名探偵はこの街が舞台だもん」

 どうせなら小説の聖地巡り、と倫太郎は目を輝かせた。出来ることなら叶えてやりたいが、一歩外を出れば懐かしく忌まわしき災難に見舞われることは、容易に想像がつく。長年引きこもっていた僕が、この短期間で二度も外出したことがむしろ特異すぎるくらいだ。

「紅葉狩り行こうよ」

「行かない」

「ぶどう狩り行こうよ」

「行かない」

「んんん、じゃあ、刀狩り」

「行かないなあ」






*  *  *  *  *






 十二月。

 倫太郎と呼ぶのにも慣れて、彼の珍妙な服装もなんとかやり過ごせるようになってきた。寒い寒いと駆け込んできた倫太郎は、急ぎヒーターの前を占拠せしめた。

「やばい、雪降ってる。雪だるま作れる。やばい」

「よかったね」

「よくないよ、何言ってんの。もっとちゃんとおれのこと考えてよ」

「………………」

「そーゆーとこあるよ礼介くん。以後気を付けるように」

「すみません」

「宜しい」

「ココア飲む?」

「えー、飲むー。やったー。わーい」

 彼の目まぐるしく変わる喜怒哀楽に付き合いながら、八割がた理解出来ない話を聞いて、無為な時間を過ごす。


 そうして、簡単に時間は流れていく。


 こんな気持ちになりたくなかったと、思う時点でもう遅い。


「礼介くん、お正月どうしてんの」

「特に何もしないよ」

「そうなの?」

「倫太郎は本家だから大変だろうね」

「そうね。楽しいけどね。疲れるけどね」

「今年会うのは今日が最後かな」

「…………」

 ココアを飲んでいた彼は、カップをテーブルに置いて僕を見た。

「なんかまた隠してる?」

「僕が?」

「うーん……………違うならいいけど」

 来年こそは礼介くんお外に連れ出さなきゃなあ。そう言って、彼は伸びをする。

「外に出るつもりは更々ないよ」

「出ましょうよ。メタボるよ。ムカつくぐらい太んないよね。なんで?」

「シヅさんのおかげかな」

「あるー」

「………………外には出ない」

「出ろよー」

「君と会えなくなる」





 倫太郎は僕を見つめる。どうして気付かなかったのだろう。いや、初めから気付いていた。初対面の時点で、警報は鳴っていた。どこか懐かしさを感じると。

「何言ってんの。おれが礼介くん連れ出すんじゃん。会えなくなるとかないよ」

「そう?」

「そうだよ。馬鹿なの?」

「酷いこと言うなあ」

「礼介くんが変なこと言うからじゃん」

「ごめんね」

「許す」

「……じゃあ約束」

「なんの?」

「来年もまた会うこと」

「握手でいいの?」

「うん」

「指切りじゃない? 別にいいけどさあ」

「紳士だからね」

 僕の差し出した手を彼は何のためらいもなく握る。そのまま彼を抱きしめた。子供はびっくりして固まる。

「…………………紳士ってハグする?」

「しないかな」

「んふふ…………え、え、え、どうしたの。なんか礼介くん、変だよ」

 そうかな。呟いて、僕は目を閉じる。

 目を覚ましたら僕はまだ高校生で、罫がいて、人生はこれからで………………………………

 ……………………………そんなことはないのだと、まぶたをゆっくりとあけた。腕のなかにあるこのぬくもりが現実だと、わかっていたから。現実は重たくて億劫で、ちっとも思い通りになんか行きやしない。

 言いたかったことを言えずに、微笑んで、自分にとってはどうでもいいことを口にするのは得意だ。昔から、僕の一部は臆病で出来ている。








 一月。

 不満や徒労を今日だけは消して、新年は迎えられる。普段は難しい顔をしている苦労人達は、穏やかに歓談しており、僕の登場に気付いた者だけが、驚嘆の表情を浮かべ、硬直した。

 目解家、本屋敷。

 雪の積もる日本庭園は美しく、寒さは余計な緊張を誤魔化すのに便利だ。

 まるで毎年来ていますと言わんばかりの面構えをして、僕は奥へと進む。洋服は苦手だ。余計に痩けた体が目立つ気がする。かといって、老人やご婦人でもないのに、着物は目立つ。

 声をかけようとしてくる者を避け、目当ての人物をようやく見つけた。大人ばかりの世界で、背の低い子供は逆にわかりやすい。

 サプライズをするつもりは、なかった。

 およそ半年前のことなのに、やたら出会いは懐かしく回想される。変な服を着た子供。他の大人の前では、きちんとしているらしいこと。歌の上手なこと。すぐ踊り出すところ。

 こんな人前で顔を会わせるのは、彼に酷だろうか。それでも、物語はとうに始まっていたのだ。幕は開かれていた。灰色の世界から、薔薇色の未来へ……そんな大層なものではないけれど。

 二度と、心の揺らぐことがない人生を望んでいた。人と関わらず、世情も拒絶して、ただ息をしていた。

 それでよかったのに。

 ああ、そういえば、この名前を呼ぶのは初めてだ。

「幸多さん」

 僕の声に、子供は振り向いた。そして、その表情は、みるみる驚きに変わっていった。

 やわらかそうな赤い頬、内気な瞳、作り笑いに疲れた口元。ピンとした白い襟の覗く、スカイブルーのセーター。

 背の低い、小肥りの男の子は、倫太郎とは似ても似つかない。








────



To be continued ...



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