マールボロと鳥

林林−木

マールボロと鳥

 供養というか懺悔というか、もちろんそんなので片付けられる話じゃないんだけど、こうでもして吐き出さないと、本当にどうにかなってしまいそうなので書いていこうと思う。


 7月も終わりがけのとても暑い夜だった。夕立の湿気のせいで、纏わりつくような鈍い風が吹いていたのを覚えている。俺は大学の三回生で、期末試験も終わりダラダラと夏休みの計画とかを考えてた。


 その時仲の良かった友人というのがAだ。こいつときたら、まあ、普通の大学生が接するような爛れた文化は凡そ全て網羅しているような奴で、何年ダブっているのかとかは本人も覚えていないらしかった。確か同じ居酒屋でバイトをしていたところ、知り合うことになったんだっけ。


 あの日も、Aの部屋で二人で安酒を煽りながら職場の愚痴とか、あとは柄でもなく将来の事とかを語りあっていた。このAは、これまた大変なヘビースモーカーで、マールボロという銘柄の甘ったるい匂い(特にカプセルを潰すとベリーみたいな匂いのするやつ)の煙草を一日に箱単位で吸っていた。六畳半の安アパートの壁紙とカーテンが、タールで薄くオレンジ色になりかけているのを、Aは自虐っぽくよく話していた。


 Aという奴は酒にもめっぽう強かった。ただ日頃の生活の荒み具合を鑑みると、あまり泥酔したところを見たことがないのは不思議だった。本人は倹約のためとか似合わない事を言っていたけど、この日ばかりはそれまで見たことがないほど深酒をしていたようだった。俺が部屋に上がったのが6時ごろで、その時点で座卓の上にワインの空きボトルやら500mlの空き缶やらが散乱していたのを見ている。


 ほろ酔い状態で出迎えたAは始めは普段通りの陽気さだったものの、日付が変わるまで呑んだあと軽い口喧嘩になった。どんな軽口を叩いたのか自分でも覚えていないけれど、その時のAは何かが癪に障ったんだろう。最終的に俺が部屋を飛び出す形でその場は片付いた。二人とも呑み過ぎだった。


 そのまま帰ろうともしたけど、夜風に当たって酔いが覚めると自分が言い過ぎたところもあったように思えてきて、自販機でミネラルウォーターを2本買って戻った。戻ると、Aは安っぽいフローリングの床に仰向けで寝ていた。部屋を飛び出す前よりも空き缶の数は増えていたように思う。起こして詫びを入れるのもどうかと思い、水滴だらけのペットボトルを机に置いて帰ることにした。お互い酒の席でのことだし、明日の夜のシフトで謝れば恨みっこなしだろうと思っていた。


 Aはバイトに来なかった。この男は無断欠席の常習犯でもあったため、その日は自分が埋め合わせをして詫びの代わりにしようとか、その程度に考えていた。しかしAは、翌日も、その翌日も来なかった。元々平気で数日返信を寄越さない奴ではあったが、3日連続は流石に初めてのことだった。よからぬ不安を一度抱いてしまうと、業務中だろうと、あの喧嘩した夜の、小豆色に浮腫んだ仰向けのAの、歪んだ顔が脳裏にチラつくのだった。Aはあの時ちゃんと息をしていたっけ? 




 もしかして、Aは死んでるんじゃないか




 あの日の夕方以降、俺からのメッセージに既読はついていない。もう確かめないではいられなかった。まあ勿体ぶらず結論から言えば、死んでた。


 喧嘩別れになって4日目の午前、俺はAの部屋のドアの前に立っていた。経験上悪い予感というのは得てして外れるものだし、どうせAはこの部屋でいつものように、恍惚として煙草をふかしているのだろうと、ドアノブに手を掛けた。鍵がかかっていないということは在室中のはずだ。


 ドアが開くと、気流に引きずられた部屋の空気がふわりと鼻にかかった。始めは嗅ぎ慣れた、胃がもたれるようなマールボロのベリーの匂い。直後、視覚含む全ての外界情報を、脳からの特大の警報音が塗りつぶした。胃がひっくり返る、というより全ての内臓が絞り上げるような蠕動運動をして、気付いた時には近くの公園の蛇口で狂ったように口を濯いでいた。シャツもズボンも靴も、吐瀉物まみれだった。喉も鼻も胃酸で焼けて、情けなく泣いた。


 イカやらエビやら魚介類由来の生ゴミを袋に密封し放置したことがあるだろうか。それから、牛乳を拭いた雑巾を洗わず放置したことはあるだろうか。それらを一度に、数倍の濃度で嗅いだ時のことを想像できるだろうか。あの夜、Aは煩くすると苦情が来るからと窓を閉めていた。


 公園の蛇口に寄りかかったまま、110番した。あの部屋にはもう戻れない。アパートを遠巻きに見ていると、他の住人たちが怪訝そうに顔を出すのが見えた。ドアが完全に閉まっていなかったのかもしれない。しばらくして警察が来て、知っていることは全て話した。口論になったこと、その後泥酔したAを放置して帰宅したこと。すぐに周りには規制テープが貼られた。


 正直な話、ここまでは最悪のパターンとしてうっすらとでも想像していた事だ。それだけなら良かったのに。


 遺体は警察が引き取るとのことで、俺は回収作業を見ていた。幾度となく突き上げられる胃も、もう空になっていた。それが起こったのは仰々しい防護服を着た二人が、黒いビニル製の遺体袋をドアの外に運び出す時だった。うがいでもするようなガラガラという音が微かに聞こえた直後、耳に入った


「あ゛ーーーーーーーーーーーーーーー」


 という、叫び声のようなくぐもった音。びっくりチキンとかいうふざけた玩具のとよく似た――それが遺体袋の丁度頭の部分から聞こえてくることに気付いた瞬間、俺は生まれて初めて腰を抜かした。猛暑日の昼過ぎ、39度の熱でも経験したことがないような悪寒。俺を呪っているんだと思った。Aは俺に殺されたと思っているんだ。違う、違う。


 後で介抱してくれた警官が教えてくれた事には、遺体というのはたまにああやって喋ることがあるのだという。肺や気道に溜まったガスが何かの拍子に抜ける際、声帯を震わせる現象らしい。嘘だ、と思った。だって鼻の裏の頭蓋に一番近いところにこびりついた屍臭がまだ消えてない。遺体袋が出てきた後、ドアが閉まるまでの一瞬に部屋の中が見えた。未開封のペットボトルの周りを飛ぶ大粒の蝿に、フローリングを伝い玄関先まで滲むドス黒い汁。今度は胃液だけしか出なかった。


 その後、警察署でいくらか取り調べを受けはしたものの、状況証拠などから不起訴という事になった。もちろんバイトになんて行ける訳がない。Aの件について話すと、店長は気を遣ってか夏の間は来なくてもいいと言ってくれた。どこに行く気も起きず、昼夜テレビだけを眺めて過ごす傍ら、あの時に身体中に染みついた匂いがずっと残っている気がして、1日に何度も石鹸で体を洗ったりもした。菓子パンを1日に数個、それ以上は喉を通らなかった。


 俺は、できるだけあの日のことは考えないようにした。でも、そうやって無理に記憶を封じようとすると、より鮮明に、というよりもむしろ見ていないはずのものまで想像してしまい、その度に這いずるようにしてトイレに向かう羽目になった。クーラーもついていない真夏の部屋に横たわるガスで膨れた死体の、黒くズル剥けになった皮膚とか、ドロリと崩れる黄色い脂肪だとか。何より恐ろしい想像を掻き立てたのが、あの声だ。死後に断末魔を上げたAは一体どんな形相だっただろう。蛆がニョキニョキと這う大穴の眼窩をポッカリと広げ、溶けかけた唇から絞り出すように叫んでいたんじゃないのか。俺には見えなかったが、実は遺体袋の中からじっとこちらを睨みつけていたんじゃないのか。




 そんな暮らしを数日は続けた後、警察から電話があった。Aの遺体の処遇についてだった。聞くところによれば、Aに近親者はおらず、遠縁の親戚には遺体の引き取りを拒否されたため、無縁仏として火葬されたとのことだった。俺はこれに関しては少なからず安堵した。Aの死に関しては、法的にも、感情的にももう責められることはないとわかったからだ。思えば、この時の軽薄な態度が良くなかったのかもしれない。


 この頃にはようやくあの腐乱死体の饐えた匂いも忘れつつあった。電話を切った後、いくらか肩の荷が降りたような心地だった俺は、部屋に差す西日に目を瞬かせていた。この時はカラスがやたらうるさくて、確かテレビを付けたんだった。とはいえ夕方の静かなニュース番組だから、どうしてもカラスの方に気を取られてしまう。そこでようやく気付いた。あの声だ。あの声がカラスの鳴き声に混じって遠くで響いている。


 きっと幻聴だ。テレビの音量を上げる。しかし、一度聞こえたものから意識を逸らすのは難しい。そして最悪なことに、その声は出どころこそ不明だが、段々と近づいているようだった。知らぬ間に俺は叫んでいた。恨むなら手前の酒癖の悪さを恨め、と。バイトのシフトの穴はどうしてくれるんだ、と。泣きたくなるくらいの虚勢だった。それでも声は近づいてくる。掻き消すために、その声と同じ発音で、息の続く限り全力で叫んだ。自分の鼓膜が痺れるほど叫んだ。


 息を使い果たしてすぐに呼吸をした一瞬の切れ間には、あの声もカラスの鳴き声も止んでいた。次の発声をする準備をしたまま、ニュースキャスターの声だけが響く部屋を見回した。俺は、どっと崩れ落ちてしまった。心臓が尋常じゃない速さで暴れていた。興奮しすぎたのか顔が火照っていた。


 ほれみろやっぱり幻聴だ、と悪態をついた。心理学なんてものは全く知らないけど、きっと自分の負い目とかが直前の会話の流れから顕在化して、自分の気持ちとは裏腹に自分自身を責めているんじゃないか、と思った。なおさらAに責められる筋合いなんて無いんだ、と笑った俺の口角はそこで凍りついた。本当に笑った方がいい状況だということにようやく気付いたからだ。ちなみに俺は一切煙草はやらない。あんまり嗅ぎ慣れた匂いだから気付かなかったのかな。部屋には、西日を透かす紫色の煙と、それから、






 咽せかえるような、ベリーの匂い。






 そりゃ憎いよな、見殺しにしたようなものだし。でも普段から無茶してたお前も大概なんだぜ。背後から、チリチリとタバコの燃える音。




「あ゛ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」




 その後俺は、自分の喉の血の味で目が覚めた。とっくに日は落ちて日の出を待つような時間だけど、パソコンに向かってここ数週間の出来事を書き出している。最初に書いた通り、こうでもしないと本当にどうにかなってしまいそうだったから。


 自分で書いてみて思ったことがある。実は、Aは俺を呪っているのではなく、何かを求めているだけなんじゃないかということだ。遺体が喋るのって、どうやら少し昔までは「死者からの伝言」って言われていたこともあるらしい。Aの遺体は今や親族の誰も供養しない無縁墓に収められてしまった訳だけど、俺だって同じ立場になれば寂しいと思うはずだ。だから最後に友達だった俺を頼って、忘れないでくれと言っているんじゃないか。さっき出てきたときだって、俺が晴れてAのことを忘れようとしたのがいけなかったんじゃないか。


 いや、そういう解釈で良しという事にしておきたいと思う。最初に言った通り、これは供養なんだ。これを読んだ皆は、今後街の喫煙所でマルボロの匂いを嗅いだ時、カラスの鳴き声を聞いたとき、それから百均でびっくりチキンを見かけたとき、Aのことを思い出さざるを得ないだろう。俺のできる最大の供養がこれだったというだけだ。俺がこれからどうなるかは解釈の正誤による訳だけど、少なくとも皆は彼のことを忘れないでいてあげて欲しい。まあ、この話を知ってしまった皆がどうなるかも俺にはわからないけどね。

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