神戸教授のおとなの社会学 『愚者論』

「人間関係において立ち回りというのは大事なのですが、現代社会においてその選択が記録として残っているという事が近年大きな問題になりつつあります」


 今回の神戸教授のテーマは『愚者論』。

 散々ろくでもないテーマを出してくるが、神戸教授のネタは尽きないらしい。


「これが政治において注目されだしたのは、米国議会においてです。

 議員の法案の賛否の行動が可視化されているので、変節すると叩かれるのです。

 そのため、大統領選挙において上院議員が勝ち上がりにくいというケースができつつあります」


 米国大統領選挙は長い予備選と長い選挙期間を経て大統領を選ぶ四年に一度の米国のお祭りでもある。

 そして、ただ一つの大統領の椅子をめぐって悲喜こもごものドラマが展開される。

 その序盤の見せ場が、多くの候補者の脱落だ。

 この脱落劇は、討論会での候補者の政策からプライベートに至るまであらゆる攻撃に晒されて発生するのだが、政策側での瑕疵がこの政治スタンスの変節である。


「たとえば、米国が近年行った二つの戦争は、議会が権限を大統領に付与する決議を行っています。

 ここで、議会上院議員および下院議員は賛成した人や反対した人、湾岸は賛成だったのにイラクは反対した人などに分かれたのです。

 これは、現在行われている選挙において焦点の一つになっています」


 現在米国民主党の予備選は初戦である候補者の振り落としが行われているのだが、ここで先頭に立っている候補者はイラク戦争への疑問を提示して旋風を巻き起こしていた。

 なお、その候補者は州知事で、上院議員みたいにイラク戦争への決議に投票していないというのがポイント。

 議会においてどういう行動をしたかが丸見えである上院議員より州知事が大統領に近い、なんて米国政治で言われるのはそんな所に理由がある。


「まぁ、何が言いたいかというと、時代の変化に対応するというのは正しいのですが、高度情報化社会においてはその変節がしっかり記録されて閲覧されるから、それがマイナスになり得るという事です。

 その上、乗った時代の変化も早いから、再度の変節も行わなければならない。

 だったら、時代の変化を見送るという選択も出て来るという事です」


 神戸教授はそんな事を言いながら一冊の本を取り出す。

 『ドン・キホーテ』。ミゲル・デ・セルバンテスの小説で、空想と現実の区別がつかなくなった騎士と名乗る男の織り成す喜劇作品。


「彼は基本的には変わっていません。

 彼はその物語において誰からも馬鹿にされたが、後半になればなるほど誰もが彼を無視できなくなってしまっていた。

 何故か?」


 神戸教授は皆を見渡して言い切る。


「変わったのは時代であり、彼以外の人間です。

 後編はそのあたりうまく書かれており、前編の話が小説として広がっているという流れで後編が始まっているのです。

 世間は、ドン・キホーテの愚行を知った上でそれを賞賛したのです」


 ここで神戸教授は口を閉じて天井を眺めた。

 大人にしか出せないその諦観した物言いがかえって説得力を増す。


「人が感動するツボの一つに、『努力』があります。

 間違っていようが、狂っていようが、それを続け続ける事自体に人は敬意を払うのです。

 そして、その『努力』に変遷の激しい時代が乗ってしまう事がある。

 現代社会は高度情報化によってこの時代の変遷が早くなっています」


 神戸教授の浮かべた笑みには皮肉が明らかに乗っていた。

 彼のその皮肉が何に対してなのか私にはわからなかった。


「この流れはこの国でも起こりつつあります。

 というより今の総理がまさに愚者そのもののように唱え続けた郵政民営化。

 総理がこれを言い出したのは何年なのか知っていますか?」


 TVで話題になるこの言葉だが当然私たちがそれを知っている訳もなく。

 神戸教授は、私たちの想像できない年代を淡々と語ってくれた。


「私が確認しているのは、79年の大蔵政務次官時代ですね。

 このころから郵政民営化を口に出して永田町では『変人』呼ばわりされていましたよ。

 面白いのは、総理は郵政大臣になっているんですよ。92年12月から。

 その後93年の内閣不信任を受けた解散総選挙で負けるまでの間ですが、それでも彼は郵政民営化の口を閉ざす事はなかった。

 多くの人はそれを知っているんですよ。

 その上で、彼を支持しています。

 ドン・キホーテを支持する後編の登場人物のようにね」


 日本人は特にだが、『結果』でなく『過程』に拘る。

 政界のドン・キホーテたる恋住総理が彼の悲願である郵政民営化を成し遂げるのかどうかを、メディアは格好のネタとして利用し、恋住総理側もそれを利用した。

 そして、冷戦終結と対テロ戦争という国家方針が漂流し続けている今、彼が掲げた旗がとてもまぶしく見えた。

 これは、そういう話である。


「少しばかり君たちより長く生きている先達として言葉を君たちに用意するのであれば、君たちの目の前には二つの選択肢があるという事です。

 時代を見極めてその波に乗り続けるか、愚者よろしく一つの波を待ち続けるか。

 私はこの二つの選択のどちらをとっても否定はしません」


 講義終了後、神戸教授の話の最後に出た選択で話題が盛り上がった。

 時代の波に乗るか、時代の波が来るまで待つか。


「私は時代の波に乗った人間だから、乗り続けないと無理ね」


「どうしてだ?瑠奈?」


 栄一くんの質問に私は神戸教授が意図的に伏せていた事を口にした。

 それを伏せたのは意地悪ではなく若者への優しさなのだろう。


「だって、乗り損なったら落ちちゃうでしょう?」


 入口の方に目を向けると、神奈水樹がまた別の男に肩を抱かれて出て行く所だった。

 彼女が占いで言った言葉を思い出す。


(今、AとBという選択肢を出したけど、実はCという選択肢があったとしたら?)


 本当の幸せというか、強い人は時代の波なんかにそもそも乗らないのかもしれない。

 なお、ドン・キホーテはついに彼の騎士道にふさわしい姫君の愛を見つける事は出来なかった。

 そもそも、彼は騎士にならなければ、もっと平凡に幸せに暮らせたのではないか?

 そんな事を考えながら、それを口に出さずに私は神奈水樹を見送った。




────────────────────────────────


彼は変わらない。時代が変わっただけなのだ。


この時の民主党大統領予備選

 バーモント州知事が大旋風を巻き起こすが、予備選初戦であるアイオワ州党員集会でまさかの敗北。

 その後盛り返せずに予備選撤退の憂き目にあっている。


上院議員が大統領になる難しさ

 オバマ大統領が上院議員から大統領にというコースだが、彼が上院議員となったのは2004年という点に注目。

 イラク情勢の混迷から傷になる2003年のイラク戦争に対する議会承認に関与できなかったという『汚れ』が無かったのが後の大統領選に有利に働くことになる。


ミゲル・デ・セルバンテス

 この話を書くために確認したけど、この人レパントの海戦に参加した上に、アルマダ海戦に関わっていたんだな。

 というか、この人の人生自体が波乱万丈で面白いじゃないか……


郵政民営化論

 これ米国の陰謀という声が今でも聞こえるので、じゃあどの時期から言い出したのかと調べた結果がこれで、多分米国の陰謀ではないが総理の持論に乗っただけなのだろう。

 じゃあ、彼は何をもってこれを怨念よろしく推進したかというと……調べれば調べるほど田中派への復讐としか考えられないんだよなぁ。

 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る