3月20日

 九段下桂華タワー。

 ムーンライトファンドの中枢の金庫室はその地下にある。

 総資産十兆円以上のこのファンドの金庫室は、万一に備えてかなりの資金を保管していた。

 具体的に言うと、有価証券に金や銀のインゴット、一億単位で梱包されている現金とか。

 また、贈答品として送られた宝石や美術品とかもこの金庫に収められている。

 この金庫に溜め込まれている資産は500億は優に超えるだろう。

 そんな金庫室の一番最初の部屋にぽつんと置かれている一億円の現金。

 かつて、私が飛躍するきっかけとなった不良債権処理時にあの屋敷で眺めていた一億円である。

 あの頃を忘れないようにという事で、この金庫に収めている。


「ここに居たんですか。お嬢様」


 声がしたけど振り向くこと無く、私はなんとなくその一億円を眺める。

 私のその素振りを気にせず、岡崎祐一は淡々と言わなければならない事を私に告げた。


「始まりましたよ。イラク」


「いいわ。

 決まっている勝負ですから」


 世界のメディアがイラク戦争の開戦に耳目を集める中、既にその先を読んでいる連中は『戦後』に向けて走り出していた。

 その動きに私は絡めない。


「ベトナムにならなきゃいいんですけどねぇ」


「ねぇ。

 なんで米国はベトナムで負けたと思う?」


 相変わらず岡崎ではなく目の前の一億円を眺めたまま私はそんな事を尋ね、岡崎は朗らかな口調でそれをあっさりと口にした。


「簡単な話ですよ。

 あの戦争で、彼の国は手段と目的を間違えた」


「手段と目的?」


 振り向いた私に岡崎の笑顔が見える。

 岡崎はこの場にふさわしく、命を俯瞰化して言い放つ。


「後知恵ですが、共産主義のドミノ化を恐れるのならば、南ベトナムの防戦ではなく北ベトナムの滅亡にこそ力を注ぐべきでした。

 そのあたり、東側の書記長の方が明らかにしっかりしていましたね。

 満州戦争で容赦なく核を味方ごと撃って、こちらの足をきっちり止めましたからね。

 かの書記長の晩年はまぁ、あれなのですが、国家指導者としては合格点でしょうよ。

 数千万の人命を代償にしても、あの国は第二次大戦に勝った。

 それは厳然たる事実です」


 あの時の勝利が永続しないのも歴史あるあるである。

 血まみれの書記長が守ろうとしたかの国は今はもうない。

 それをどう考えるのか、今の私には答えが出せない。


「その選択肢、今の米国では取れないでしょうね」


 ぽつりと私が漏らす。

 その言葉に岡崎が乗って、私が秘めていた未来を言い切る。


「ええ。

 それを主張しようとしたお嬢様は正しすぎたが故に、こうして動きを封じられた」


「……いつから気付いていたの?」


 私の確認に岡崎は笑みを崩さずに言い放つ。

 もちろん、この場には私と岡崎しか居ない。


「怪しいなと思ったのがお嬢様が体調を崩された時ですね。

 湾岸に物流拠点の整備を名目として米国に基地を提供する先読みをやらかしてくれたお嬢様だ。

 先読みと合理的選択を考えた上で、アフガンの、実質的にはインドとパキスタンの代理戦争と化して数十万の犠牲者とその数倍の難民を生み出している現状から、その手を思い付いたお嬢様はやっぱり化物ですよ」


 おどけて岡崎が言うが、気分は探偵に詰め寄られた犯人のごとし。

 きっと容疑は殺人である。


「で、お嬢様のあの壊れっぷりだ。

 人はそれが所詮他人事ならば、あんなに追い込まれないんですよ。

 あれはおぞましくて壊れただけじゃない。

 そのおぞましい事をお嬢様はできると自覚したから壊れた」


 はっきりと私の正体を見抜いた上で岡崎は尋ねる。

 ベトナムでの敗北、アフガンの惨状から、私はそれを予測し、岡崎はそれを口にした。


「で、お嬢様。

 米国が核を落とすとしたら何処です?」


 繰り返すが、詰まる所、この戦争の本質は宗教問題でも経済問題でもない。

 人命という物のレートの問題なのだ。

 もっと古い言葉で言うのならば、冷戦華やかなりし時に言われた相互確証破壊戦略の亜種でしかない。

 テロ組織を相手とした非対称戦争という状況だからこそ泥沼の対処に陥った訳で、その時点で敵の舞台に上がってしまっている。

 だったら話は簡単で、敵の舞台である非対称戦争を因習的な戦争まで引きずり落としてしまえばいい。

 この世界では、それが可能だった。

 ゲリラ殲滅を前提にその地域の住民をゲリラと共に殲滅する『ナガシマドクトリン』が成立しており、ジェノサイドと泥沼に陥ったアフガンでは民兵を派遣していた隣国パキスタンが正義の激昂の裏側でそのコストの重さに喘いでいた。

 彼らの正義と隣国インドとの戦争の恐怖が均衡しているからで、米国は万一インドとパキスタンが戦端を開いた場合、パキスタンの味方には付かない事を外交筋に提示しているという。

 生物化学兵器まで使った上にインド傭兵を投入したアフガニスタンの殲滅戦は、はっきりと無関係の正義ではなく関係者の恐怖として機能しだしていたのだ。

 米国の、少なくとも私がネオコン側に政治力を発揮して主張しようとした事は簡単だった。


 米国に対するテロの報復を世界に見せ付ける。

 核及び核に類するものによる攻撃に対しては、同様の報復を、その地域を標的に行う。


 9.11同時多発テロの報復としてアフガン及びイラク人民数百万人をジェノサイドする。

 数人のテロリストの為に数百万人が死ぬというレートが確定すれば、その恐怖が機能している間は馬鹿の暴発は確実に抑制できる。

 マキャベリ曰く『君主は愛されるより恐れられよ』。

 つまり、これはそんな話でしかない。

 シンプルかつ残酷な主張。

 だからこそ、数百万の犠牲者によって未来のイラクの泥沼は回避できると踏んでいたのだ。

 そして私は壊れかかった。

 ワシントンでの動きを報告してくれたレポートは、私が考えていた事が実現可能であるという現実を私に見せ付けてくれたのだ。

 つまり、私が望むのならば、数百万人のコラテラル・ダメージで米国はもう少しましな未来へ行ける。

 それは米国の同盟国であり経済的に依存していたこの国も、もう少しましな未来に導けるターニング・ポイント。



「私とこの国のより良い未来のために、私と関係の無い数百万人の人達は死んでください」



 そう言っているのに、等しかったのだから。

 それに気付いて私は壊れかかり、子供の暴走に気付いた恋住総理は私を叱り付けてこの件から手を引かせた。

 詰まる所、これはそんな話である。


「イラクはクルド・スンニ派・シーア派の三派による連邦国家の体を成しているけど、その実態はスンニ派の独裁よ。

 戦後を考えたら、バクダッドには落とせない。

 けど、核の政治的衝撃は見せ付けないといけない。

 だったら、落とす所は一つでしょう?

 スンニトライアングルの中心都市。ファルージャよ」


 そこまで読み、そこまで考えて、動こうとした所を封じられた。

 それが良いことなのか悪いことなのか私には分からない。


「少なくとも、核は無いでしょうね」

「だからこそ、イラクはベトナム化しかねない。

 人というのは愚かですな」


 その口調に何かを感じた私は岡崎の顔を睨む。

 彼は、9.11の時もこうして私の前に居た。


「ねぇ。

 この未来の選択、貴方は満足した?」


 私の声に少しの怯えの色がこもる。

 世界の指導者たちはこんな重さを背負って決断している。

 そして、何を選んでもその先に己の国民とそれ以外の民の死が待っている。

 岡崎は私を元気付けるように笑った。


「ええ。

 お嬢様の選んだ未来を特等席で見させてもらっていますからね。

 お嬢様が全知全能の神様ではないというのも分かりましたし」


 この戦争は歴史に残り、その決断はきっと後の歴史に裁かれるだろう。

 だが、私は子供故に大人たちから遠ざけられ、その裁きから逃れた。

 それに感謝しよう。

 そして、その大人たちの愚行を一人嘆こう。



 世界は、こんなにも愚かで、優しい。 



「もう少し私はここに居ます。

 何かあったら呼んで頂戴」


 イラク戦争は案の定わずか一月で終わり、そこから長い長い戦後が始まろうとしていた。

 その戦争に私が絡もうとしたという事実は存在しなかった。




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 何がひどいって、あの時期『バグダッド発エルサレム行き』という言葉が米政府関係者で語られていた事。

 中東問題は必然的にイスラエルが絡むのだが、それまでのロジックは、


「イスラエル問題が中東及び湾岸に火が着く」


だったのが、このあたりで、


「逆に考えるんだ。

 湾岸が燃え上がって鎮火できれば、中東問題は火がついても簡単に消せるんじゃね?」


という発想が逆転しているあたりがもぉ。

 もちろん現実は……

 他にも『ナイーブな帝国』と米国を紹介したり、実に面白い。

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