華のない宴席
赤松商事資源管理部門を統括している岡崎祐一が桂華金融ホールディングスCEOである一条進と食事を取ったのは、二人のボスであるお嬢様の精神と体調がやっと回復しつつある時の事だった。
九段下の桂華ホテル内のレストランの貸し切り席で、男二人の華のない食事は最初からギスギスしていた。
「一条さんは、私のことを嫌っていると思っていたのですが」
「嫌っているさ。
お嬢様を危ない道に誑かしたのだからね。
かといって、嫌いだからと会わない訳にはいかないのがビジネスというやつでね。
ままならないものだよ」
六畳ほどの上品な和室に、お膳に出される和食の数々は皆一流の食材ばかり。
酒は出ておらず、それが二人の関係を端的に表していた。
「おそらく、国会に出ている華族の不逮捕特権剥奪の法案が通る前に、橘さんは桂華鉄道の社長を辞する事になる。
私も桂華金融ホールディングスが上場するのを花道に、代表権の無い会長になって一線から退く。
来年か再来年か分からないけど、これは既定事項だ。
残るのは君のところの藤堂さんだけど、中の整理統合で目が離せない」
淡々と語る一条の顔には、少しの疲れがあった。
政府の攻撃を躱しながら穏便に桂華グループを軟着陸させるにはそれだけの労力が必要だったのである。
お椀の蕎麦を堪能しながら一条は続きを口にする。
「君は、おそらくお嬢様に仕える第四世代の人間だ。
その性格はともかく、その能力とお嬢様への忠誠は私も橘さんも評価している。
だからこそ、一度会って釘を刺しておきたかったのだ」
「……次の桂華金融ホールディングスCEOはアンジェラさんに任せるつもりですね?」
「そういう頭の回転の速さも、私達二人が君を切れなかった理由の一つだよ」
会社組織はいやでも新陳代謝を求められる。
既に初老である橘と、若くして頂点を極めた一条は去り、後継者に道を譲る時が来ていた。
第二世代が誰かと言えば、岡崎が口にしたアンジェラ・サリバンであり、口に出さなかったカリン・ビオラである。
膨れきった桂華グループが、お嬢様こと桂華院瑠奈の個人商店であるという事をこの人事は端的に示していた。
「サリバン女史には桂華証券CEOに就任してもらって、その後桂華金融ホールディングスCEOに就いてもらう事になるだろう。
ムーンライトファンドのかなりの部分が米国の監視下に置かれるから、君も悪さはしにくくなる。
そこは肝に銘じておきたまえ」
「今の所、これ以上はお嬢様を焚き付けませんよ」
蛤のお吸い物に口をつけた岡崎は茶化すが、お椀を置いた手は震えていた。
少なくとも、震えるほど一条は冷静にかつ怒気を込めて岡崎を睨んでいたのだから。
「私もサリバン女史に言われて気付かされたのだが、お嬢様は何かする時に自分の事をまったく考えていない」
「そりゃ、あの読みがあるのならば、どうとでも利は作れるでしょうに」
「それでも、お嬢様が今の桂華グループの礎を築いた金融機関の不良債権処理。
あれで泡と消えた金は数千億円に上る。
君はそれを泡と消す勇気があるかい?」
当事者だからこそ一条は熱狂に酔ってその感覚が麻痺していた。
部外者だったアンジェラの指摘でやっと気付いたのだから彼の顔も苦笑を隠そうとしない。
出てきた鯛の刺身をつまみながら一条はあの時を振り返っていた。
「この秋にできる桂華電機連合もそうだ。
会社はあくまでついでであって、お嬢様の目的は日本のコンピューター産業の再編とリストラ。
そうだったね?」
「ええ。
あの大商いの時にたしかに私はお嬢様から聞きましたよ。
ついでに、失っても鈴木商店みたいに残るものはあると焚き付けましたが」
「それで本当に博打を打てる人間がどれほどいると思うかい?
まだ小学六年生というのに」
熱々の天ぷらを横目で見ながら、一条はため息をつく。
体脂肪も気にする年頃に油ものはきつい。
そんな箸の動きがそのまま言葉に出るように、一条はアンジェラおよび彼女の背後に居る米国の情報機関の指摘を口にした。
「うちのお嬢様は、自分のリターンを最初から考えていない。
最後に自分が貧乏くじを引けばいいと思っていたフシがある。
だからこそ、金ではなく命という一回しか無いもののやり取りの場であんなに弱ったのだろうが。
あそこで自覚してくれたことに本当に感謝しているよ」
一条はお嬢様と知り合う前に極東銀行東京支店長として、バブル崩壊後の資金繰りが悪化した借り手からの資金回収で修羅場を経験していた。
金は命より重たいのは事実だ。
だが、金は生きていれば何度でも獲得のチャンスがあるのに対して、命は失ったら一回で終わってしまう。
その命を返済に差し出した借り手を何度も見てきたからこそ、彼女の危なさを今更ながら理解したのだ。
「お嬢様の本質は、君と同じギャンブラー。
しかも、レートの為に遠慮なく命すら差し出すタイプのね。
君とお嬢様の馬が合うわけだよ」
「……否定出来ない所がなんとも言えませんね。
それで一条さんは私にどのような役回りをお望みで?」
ご飯を食べながら岡崎は確認を取る。
岡崎に釘を刺すだけでこの席を用意しているとも思えなかったが、一条はそれを淡々と告げる。
「アンジェラ女史とカリン女史の次を探しておきたまえ。
できれば日本人で」
「……外資に持っていかれると言われるのを避けるためですか」
「彼女たちの次である第三世代が居ない。
これは三年から五年先の話だ。
彼女たちがそのまま勢力を維持するならば他所から持ってくるしかなく、寄り合い所帯の桂華グループの生え抜きが出ない。
桂華院家の御曹司が桂華岩崎製薬のトップに立つ時、その周りが外様ばかりだと確実に揉める。
そして、その時ですらお嬢様はまだ未成年だ」
大蔵省天下り・地銀・都銀・保険・証券・ヘッドハントを交えての壮絶な椅子取りゲームから、ついに己の後継者をアンジェラに決めざるを得なかった一条の顔には諦めの色が見える。
お嬢様の側に居る副メイド長桂直美の息子である桂直之は本店プライベートバンク部門の主任調査役として、ムーンライトファンドの口座管理を担当しているが、桂華金融ホールディングスの上に押し上げるならばそろそろ別の仕事をさせなければならず、その後任も探す必要があった。
里芋の煮っころがしを摘みながら、岡崎が確認を取った。
「しかし、何で私なんです?」
「君しかいないんだよ。
カリン・アンジェラの二人が己の側近を作る際に外資から引き抜きを掛けるのは目に見えている。
そこから、巻き返しを図れる人材を見付けて引き抜けるのは、君だけだ。
アンジェラ女史は君をお嬢様の前から排除したがっているからね。
君が動かないと、君が負ける可能性もあるからこの席を用意させてもらった」
つまり、カリン・アンジェラがそのまま桂華グループを壟断した時に備えての日本人系重役の確保。
民族で分けた派閥争いの調整がこの席の本質である。
一条の言葉には、諦めと自負が入り混じったなんとも言えない重さがあった。
「桂華グループは、返す返すも大きくなりすぎた。
けど、お嬢様が本当に世に出るにはまだ数年もある。
お嬢様が世に出た時に砂上の楼閣よろしく何も残っていなかったなんて未来は御免だからね」
デザートに出た果物に二人共手を付けない。
岡崎は一条の言葉に聞き入っていた。
彼だけが、一番お嬢様に近いギャンブラーだからこそ、お嬢様の思考にたどり着く。
これも一条や橘が岡崎を切れない理由の一つだった。
(つまり、あのお嬢様、最初から全部消えることを前提でこの桂華グループを作り上げたという訳だ……)
「そして、お嬢様はそれをよしとする所がどこかにあると私は橘さんから聞いたことがある。
簿記・秘書・英検等多くの資格を持ち、大卒資格も狙っているらしい。
明らかに、桂華グループが崩壊する可能性を見て動いているとね。
だが、私も橘さんもお嬢様が何も手にすることなく大人になるなんて許せるものか!」
語気を強めたそれは偽らざる一条の本音。
岡崎は仲居にビールを頼むとこの席唯一のビールを持って、一条のグラスにビールを注いだ。
「何だ。
つまり一条さんもお嬢様が大好きなんじゃないですか」
一条も岡崎のグラスにビールを注いで言い返す。
「当たり前だ。
私はお嬢様に見出された二番目の男だぞ」
一番目は橘なのだろうなと岡崎は思いながら、己のグラスを一条のグラスと重ねてビールを飲み干した。
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主任調査役
ライン・スタッフで言うとスタッフの職で、ポストはないけど役職をあげる人としてこの役職を使っている。
本店のこの役職だと、大体課長と同じぐらい。
桂直之は30超えたあたりの年齢設定なので、強烈なコネによる押上げもあり40前で支店長・本部部長を経て50前で役員確定コースを突っ走っている。
問題なのは、彼はコネを嫌って北海道開拓銀行に入行しているので、一条の極東銀行閥で無い点。
そして、北海道開拓銀行主流閥からは外れていたので、北海道開拓銀行閥からも微妙に疎まれている所だろう。
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