風がゆらすとき

天風凜

風がゆらすとき

 どれほど願っても祈っても、それらを女神さまが知っても、どうにもできないことがあるのです。

 やさしい女神さまは心を痛めながら、願い祈る人の哀しみにどうにかして寄り添おうとしていました。



 一人の少女が泣きじゃくって膝をついていました。黒い服に身をつつんで、抱えた白い花束は細い腕のなかで春風にゆれています。

「どうして、わたしをおいていっちゃったの? どうして、もう会えないの?」

 どうして、とくり返す少女のまえの墓石は、しずかに朝陽をあびていました。そこには母の名前と、亡くなった三年前の日付が刻まれていました。彼女がひとりになってから三年経っても、この日が来ると、さまざまなものがこらえきれなくなって、あふれだしてしまいます。

 十歳になる少女はひとりでご飯を作れるようになりました。お裁縫もすこしおぼえました。でもそれらを話して褒めてもらいたい人はもう遠くにいってしまって、頭をなでてくれることもありませんでした。母親似の栗毛色した髪が三年で腰までのびました。村の人はお母さんの若いころにそっくりだと話してくれます。

「わたし、こんなにね、大きくなったんだよ、だから、だから――」

 願いは最後まで声になりませんでした。

 そんな少女を背中から包みこんで「ごめんね」とささやく女性がいることに、彼女は気づけません。ちいさな頭をやさしくなでようと手をのばす母の願いは叶うことなくすり抜けていきます。朝陽が母親の身体を透かしていました。


 女神さまはこの様子をすこし離れたところから眺めて胸がしめつけられました。女神さまといえども、人の命の長さを変えることも、死者を生者に戻すことも、できませんでした。それは揺らぐことのない世界の理だからです。

 長い白のローブを引きずりながら、墓石のとなりに立ちました。女神さまをすり抜けていた朝陽がしだいに後光のようになりました。

 うなだれていた少女は落ちてきた影に顔をあげました。朝陽に照らされて美しい女神さまが自分を見つめているのに気がつきました。言葉もでずにその方を見つめました。

 女神さまは麗しい声で話しかけました。

「一日だけ、貴女が願う時間をあげましょう。わたくしに出来ることは、どうしても、これしかないのです」

 柳眉をさげながらそうおっしゃると、母親の頬を両手でつつみました。

 半分透けていた女性の身体が、少女にも触れることができるようになりました。

「明日の日の出には、またもとの死者の身体になってしまいますが――」

 それだけおっしゃると女神さまは朝陽にとけていきました。

 母親の声は少女の耳に届きました。のばした手は娘の頭をなでることができます。少女と母親はお互いを呼びあいながら泣きました。二度と離れたくないというように抱きあって、声をあげていました。



 家に帰った二人は、特別なことはしませんでした。一緒に台所に立って料理をし、美味しいと言いあいながらご飯を口にはこびました。むかしよく焼いていたケーキをまたつくりました。刺繍を母親から教わりました。

 陽が暮れて寝巻に着替えると、母はのびた娘の長い髪の毛をやさしくブラシでとかしました。ベッドに入っても三年ぶんのことを一晩中、語りました。朝が来るまで寝ないと言って起きつづける少女を愛おし気に、そして寂し気に母親は微笑んでいました。夜は更けていきます。

「朝なんてこなければいいのに」

 少女は重たくなってきた瞼をこすりながら、小声でこぼしました。

「またひとりになる」

 消えそうな震える声でした。「ごめんね」と母親も泣きそうになるのをこらえて言いました。

「どうしてお母さん、いなくなっちゃったの」

「お母さんもずっと、ずっと一緒にいたかったの。でもね、お母さんが持っていた時間じゃ、ずっとは、いられなかったの」

 窓の外は白みはじめていました。

「でもね、姿は変わっても、そばにはいるのよ」

「ほんとう……?」

 ええ、と笑うと娘の頬にキスしました。

「風が草花をゆらすときがあるでしょう? 髪をなでるように吹くときがあるでしょう? そうしたらお母さんが見守っていると思いなさい」

 ささやくように、諭すように、語りました。

「一人じゃないの。だから泣くのはもうおわり。ね?」

 うん、と少女は安心したように頷くと、眠りにおちていきました。寝息が規則正しくもれています。


 太陽が地平線から姿をあらわしました。

 再会の喜びと、別れの悲しみ、どちらのほうが大きいのだろうと女神さまはお思いにならずにはいられません。

 ベッドから抜け出した母親が、迎えに来ていた女神さまに深々と頭をさげました。その拍子に瞳から雫がおちて光りました。


 少女が眠る部屋に、窓からあたたかい春風がはいってきて、栗毛色の髪をゆらしていました。



 おわり

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