僕の知っている、すべてのこと。

 試合は、雨天決行だった。


 高校生三年生になった僕たちは、その時、岐阜市内にある地方球場のスタンドにいた。傘差す僕たちの前方では、タオルを首に巻き、透明のレインコートに身を包んだブラスバンド部の部員たちが、『タッチ』のテーマ曲を高らかに鳴らしている。


「やっぱり来ないほうが、良かったかな」

 全国高校野球大会の地方予選は、準々決勝まで進んでいた。優勝候補で、去年の夏の大会で準優勝だった頃とは違い、今年はいつ負けたとしてもおかしくない状況だ、と語っていたのは、城阪だ。僕に言っていたわけではなく、たまたまそう話しているのを耳にした。野球に対して、彼はネガティヴなことを言わない印象があったので、意外な気がしたのを覚えている。


「行かなかったら、あとで城阪に文句言われるよ」

 ぱっ、ぱっ、と傘のビニール部分に当たる雨の音が、やけに耳の奥に残った。


「康史くん、そんなこと言わないよ。たぶん」

 康史くん、か……。一年前には、彼女の、彼への呼び方がこんなふうに変わるなんて想像もできなかった。もう慣れてしまった、とはいえ、いまだに胸の先に、ちりり、と痛んでしまうような感覚がある。


『城阪くんと、付き合いはじめました』

 そう綴られた言葉を見て以来、僕たちの関係が変わったか、というと、あまり変化はなかった。すくなくとも表面上は。僕の心に多少、空虚なものは生まれたが、文芸部を辞めることもなく、たったふたりの活動は続いていた。


 康史くんは、ちょっと嫌がるんだけど、ね。ため息まじりに、葉瑠が、僕に言ったことがある。彼が、そんな独占欲にも似た感情を直接言葉に出すのは、すこし意外な気もした。


 じゃあ、文芸部、辞めようか。

 葉瑠の話を聞いて、僕はそう伝えた。怒りでも、投げやりなものでもなかった。ただ純粋に気後れがあったのだ。だって僕が逆の立場になっていたら、城阪と同様、あまり良い気持ちはしなかっただろうから。


 それは結城くんが決めればいいよ、と葉瑠から言葉が返ってきて、どうしようかな、と迷っているうちに、ずるずると来てしまった形だ。


「でも、私が来なかったら、晴れていた、と思わない?」

「否定できないのが、怖いところだね」


 マウンドに立っているのは、城阪だ。雨をわずらわしそうにしながらも、七回の裏が終わって、相手チームを無得点に抑えている。相手は優勝候補の一角だが、うちの高校が一点差で勝っている。


 城阪はいまも変わらずプロ注目のエースだ。

 学校で一緒にいる時は、同じただの高校生にしか思えないのだけれど、こうやって野球部として活躍している姿を見ていると、同い年の高校生、という事実を忘れそうになってくる。


 八回表、先攻だった相手の高校の攻撃が簡単に三者凡退に終わる。簡単に、と僕は観客でしかないから言えてしまうけれど、試合中の彼らにしてみれば、必死だろう。


「そう言えば、なんできょう、来る気になったの?」

 試合の合間を縫うように、葉瑠が言った。


「なんで、って?」

「だっていままで、野球部の試合に来たことなんて、一度もなかったよね」


 過去に何度か葉瑠に野球部の試合に誘われたことがある。僕はそのたびに断っていたし、なんでわざわざ僕にそんなことを言うのだろう、とそんな未練を残した人間らしい想いもあった。


 なんで?

 そんなの、決まっている。表情の翳りに気付いてしまったからだ。


 付き合ったあとの、城阪と葉瑠がどんな日々を過ごしていたのか、僕は知らない。僕ができるだけふたりの関係に目を閉じ、耳をふさごうとしたからだ。でも最近の葉瑠の表情は明らかに暗い。葉瑠は隠せているつもりなのかもしれないけど、それなりに付き合いがあれば、すぐに分かってしまう。僕だけではない、傘原も気付いている様子だった。


「葉瑠。城阪くんとうまくいってない気がする」

 以前、傘原がそんなことを言っていた。


「どうなんだろうね」

「何、その興味のない返事。自分の物にならなかった女の子は、どうでもいい?」

 冗談めかして、傘原が言った。でもそこには僕に対する嫌味も込められていたはずだ。どうも傘原はあまり城阪に良い印象を抱いていないみたいで、実はこっそりと言われたことがある。あんなのと付き合うくらいなら、前も言ったけど、結城が良かったな、と。


 八回裏。先頭打者がヒットを打ち、打順は三番の城阪だ。


「せっかくだから、高校のうちに一回くらいは、って思って」

 と、嘘をついた。

「ふぅん……」

「まぁ、なんとなくの興味だよ」


 かきん、と金属音が響く。城阪の振ったバットは、大きな飛球になり、スタンドへと向かっていく。だけどそれはファールになってしまった。


 すこし雨足が強くなった。


「……そう言えば、康史くん、雨が嫌いなんだって。中学生の時、雨の日の試合で、押し出しの死球で負けたことがあるらしくて、それ以来、雨の試合はトラウマ、って言ってた。やっぱり来なきゃ良かったかな」

「でも、きょうの試合はまだ勝ってる。その時は負けたかもしれないけど、勝てばそのトラウマだって、払拭されるさ」


 反射的に出た言葉だった。城阪の心を知ったように、僕が言うのも変な話だけれど。


「そう、だね」

 言葉の歯切れは悪い。


「もしかして、だけど……」

「うん?」

「最近……、あっ――」

 僕の言葉をさえぎるように、また金属音が鳴り響く。


 快音だった。


 だけど打球はファーストライナーになり、走者も戻り切れず、タブルプレーになってしまった。そして続くように四番打者は三球三振だった。


「駄目だったね。……それで何、言いかけてたの?」

「あ、いや。たいしたことじゃないから、大丈夫」


 もしかして城阪とうまく行ってない?


 そう聞くつもりだったけれど、いまの打球音によって、気持ちがそがれてしまった。それに本当に、彼らがうまくいってないのかどうか、僕には分からない。頼りになるのは、傘原の言葉だけで、良好な関係のままだったとしたら、ただ僕が恥ずかしい想いをするだけだ。聞きたくても聞けない感情に、僕は内心で折り合いをつける。


 九回表、相手チームの攻撃がはじまった。

 三振、三振、とふたつアウトを重ねて、あとアウトひとつで試合終了、こちらの勝利、となるところで、明らかに城阪の様子がおかしくなった。

 ヒット、四球、四球、と満塁になり、そして相手の四番打者に打順が回る。


 そして試合を決定づける大きな音が鳴った。

 それが僕の人生ではじめて見る、テレビ以外でのホームランだ。

 九回裏の攻撃は劇的なドラマもなく、凪いだような三者凡退だった。


 彼らの負けが決まったと同時に、雨が、止んだ。


 泣いている同級生の姿を、泣くことさえもせずにぼんやりと虚空を見続ける城阪の姿を、見ていることができずに、僕たちは球場をあとにした。


 帰り道、彼女がぽつりとつぶやいた。


「私がいなかったら、勝ってたのかな」

「……それは、さ。たぶん、必死で練習してきた彼らに失礼だと思うよ。僕には言ってもいいけど、城阪には絶対、言っちゃ駄目だよ」

「言わないし、言えないよ。それにもう言える関係でもないんだよ」

 ちいさく、寂しそうに葉瑠が笑った。


 別れ際、とても意味深な言葉の答えを、彼女は教えてくれなかった。


 そのまま夏休みに入った。その年の、高校最後の夏休みの間に、僕たちが顔を合わせることはなく、ゆるやかに、これと言って特別なこともないまま過ぎていった。


 夏が終わり、学校がはじまった頃、僕は葉瑠から、放課後、コーヒーショップの〈ラ・テリア〉に誘われた。

 コーヒーカップから、湯気が揺らめいている。


「結局、最後まで文芸部は三人のままだったね」

「まぁ、まったく勧誘もしなかったから、当然の結果のような気もするけど」

 コーヒーを持つ葉瑠の手が、すこしだけ震えていた。


「文芸部、解散しようか?」

「あんなに部としての伝統を、って言ってたのに」

「口実だよ、そんなの。私の三年間だけであっても欲しいな、っていう、私のただのわがままだから。気付いてなかった?」

「気付かなかった」

 もちろん気付いているに決まっている。だけど言わなかった。


「それで、どうする? 実は未希には、もう話したんだ。そしたら、文芸部は私の部であって、私の部じゃないから、ふたりで決めるといいよ、って言われた」

 幽霊部員を公言していた傘原は、最後まで幽霊部員だった。たぶん参加しようと思えば、いつでも参加できたはずだ。でもある時期から、意識的に幽霊部員であろうとしていたようにも見えた。だから傘原と文芸部との関わりは、僕に不信感を持っていた、最初の頃くらいだ。それ以外の三人で括られる僕たちは、部活なんて関係のない、ただの友人同士だった。


「じゃあ、解散しようか?」

 葉瑠が、その答えを望んでいるように思えたからだ。葉瑠はちいさく息を吐き、そして頷いた。


「……ふたりきりの時間も、もう終わりだ、ね。ちょっと残念。でも、受験勉強とかしてるの? どこの大学に行く、とか決めた?」

「まぁ候補はいくつか……」

 と言いながら、いつかもこんなシーンがあったな、と思った。その時の相手は葉瑠ではなく、場所も中学校の教室だったけれど、なんだか懐かしくなってしまった。


 ふぅん。高校受験、だもんね。もうすぐ。どこの高校を受けるか決めた?


 と、かつて亜美の言葉がふとよみがえる。いまこの場に、亜美はまったく関係ない。なのに僕は、亜美はいま、どうしているのだろうか、と考えてしまっていた。無意識に葉瑠から意識を逸らそうとしていたのかもしれない。


 葉瑠が、僕に何かを伝えようとしている。表情からは察していたけれど、それが何かまでは分からないけれど、文芸部のこととか、大学受験のこととかは、話の本筋ではない。


 意を決して、僕は葉瑠に聞いた。

「何か、あった?」

「何か、って?」


「僕に伝えたいことがあるから、ここに誘ったんでしょ。学校じゃなくて、わざわざこんな場所に。いままでのことなら、別に学校で話しても良かったことだと思うし」

「鋭いね。いつもは鈍感なくせに。……なんだと思う?」

 やっぱりいままで見たことのないほど、葉瑠は緊張している。


「具体的なことは分からないけど、……城阪のこと、かな」

「当たり。別れたんだ。ずっと黙ってたけど、夏の、ちょっと前くらいに。彼に、振られたんだ」

 葉瑠は、別れた理由までは語らなかった。ただ、その事実だけを語った。そこからの僕たちの会話は明らかにすくなくなった。


 店を出ると、辺りは暗くなっていた。やっぱりその日も、雨が降っていて、僕が傘を差すと、葉瑠が僕の傘の下に入った。相合傘だ。葉瑠も、傘を持っているのに。僕の表情から気持ちを察したのか、


「まぁいいじゃない。たまには」

「いや、恋人同士なら分かるけど……」

「じゃあ、私と恋人になろうか。いまの私は、フリーだよ」

 そして葉瑠は傘を握る僕の手に、自分の手を重ねる。


「何、言って――」

「……って言ったら、どうする?」

「なんだ、冗談か……」

「さぁ、どうかな」

 葉瑠が、笑った。


 暗くよどんだ夜の闇に、街灯の光だけがあらがっていた。


「本当に、葉瑠といると、雨が降るね」

「それが、私、だからね」ねぇ、と彼女が続ける。「これからふたりで、どこか遠くへ行かない。ふたりで。他の誰もいない。お願い」


 彼女の手の震えが強くなるのを、触れ合うこの手が、確かに感じた。怯えている、何に怯えているのかは分からなかったけれど……。


「どこに?」

「海に。ほら前に約束したでしょ、また行こう、って」

「こんな夜中に?」


 僕は、もしかしたら、といまでも本気で考えていることがある。彼女は冗談なんて何ひとつ言っていなくて、僕が迷わず、行こう、と頷いていたら、僕たちはまったく違う未来を歩んでいたのではないか、と。


「冗談だ、よ」

 と、葉瑠の手が僕から離れる。傘の下から出て、雨にぬれる彼女が、寂しげに僕にほほ笑んだ。

「葉瑠?」

「ごめんね。変なこと言って。私、きょう、もう帰る。また、ね」


 走り去っていく葉瑠の姿は、闇に消えていった。

 これが生きている葉瑠に会った最後だ。


 数日後、彼女は死んだ。みずからの命を絶った、と言われている。僕に彼女の死を伝えてくれたのは、城阪だった。なぜ城阪がわざわざ僕にそんな電話してきたのかは分からない。気が動転して、とにかく誰かに伝えたかったのかもしれない。


 城阪にそんなつもりはなかったはずだ。だけど泣きながら、僕に葉瑠の死を告げる言葉を聞きながら、僕は責められているような気持ちになっていた。僕があの時、彼女の震える手を取っていたなら、彼女はまだ、と。


 もしかしたら城阪も、いや城阪のほうが僕に責められている気持ちになっていたかもしれない。だって死んだ葉瑠は、その数か月前に彼に失恋していたのだから。僕なんかよりも、自分自身を責めていてもおかしくない。


 葉瑠が死んでから、僕と城阪はお互いに会話を避けるように、しゃべることはなかった。すれ違った時の挨拶くらいだ。だけど一度だけ、ふたりで話したことがある。


「なぁ死んだひとのこと、いつになったら忘れられるのかな」

 と彼が言った。僕はどうしてもこの言葉が許せなくて、つい聞いてしまったのだ。


「葉瑠のこと、振ったんだろ」

 彼は、僕の言葉に驚いた表情を浮かべていた。


「何、言ってるんだよ? 俺はずっと、最初から最後まで、彼女が好きだった。確かに別れはしたけど……」

 葉瑠同様、城阪も別れた理由については教えてくれなかった。僕としても無理に聞くことはできない。結局、僕は彼らの関係において、部外者だから、だ。


 その頃からだ。


 僕が、幽霊を視認できるようになったのは。最初はその事実が信じられなかったけれど、確かに僕の周囲に死んだひとたちが、実際に目に入ってくるのだから、疑いようがない。幽霊か、あるいは僕の頭がおかしくなっているのか、のどちらかだ。だとすれば、幽霊であって欲しい、と僕は自分自身で、あれは幽霊なんだ、と決め付けることにした。


 たぶん彼女の死が、この能力を得るトリガーになっていたのだ、と思う。

 タイミング的にもそうだけど、何よりも最初に視た幽霊も葉瑠だったから。合っているか、なんて分からない。勝手に僕がそう考えているだけだ。


 その頃の幽霊だった葉瑠とは、話していない。


 怖かったからだ。幽霊が、という意味ではない。あの時、葉瑠が伸ばしていた手をしっかりと握っていれば。そんな僕の後悔を、彼女自身に指摘されてしまうことが、怖くて怖くて仕方なかった。


 だから僕は、死者となった彼女を無視し続けた。

 僕は受験しようと思っていた地元の大学を、県外の別の大学に変更した。合格した僕は、逃げるように、岐阜を出た。


 これが、僕が彼女について知っている、すべて、だ。

 そして長い長い回想を終えて、僕は、いま、へと戻っていく。

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