謎めいた日記は、秘密の場所に。
「永瀬のこと、好きだろ」
「好きだよ、もちろん。友達なんだから」
「そういう意味じゃないよ。ほら、女の子として好きかどうか、ってこと」
「あんまり考えたことないけど、たぶん、違う。そういう好きじゃない」
「結城、って、素直さが足りないよな」
「嘘なんて言ってない」
「分かった、分かった」
僕の実家から二十分ほど歩き、家並みを逸れたところにその、秘密基地、はある。鬱蒼と生い茂る木々の中に、ぽつんと一軒、木造家屋が建っている。はじめて見た時、日常に開いた異界の門と偶然出会ってしまったような気持ちとともに、みょうに惹かれてしまったのを覚えている。
僕たちの秘密基地、と言っても、別に自分たちで作ったわけではない。後ろめたさもある。菱川と僕の間で、幽霊屋敷、と呼んでいた場所なのだけれど、そこは廃屋だった。いや厳密に言えば、僕たちが勝手に廃屋だ、と決め付けて、勝手に忍び込んでいただけだ。もしかしたら管理しているひと、家主に当たるひとがいたのかもしれない。もしそうなら、不法侵入罪だ。仮にそうではなくても、多少の罪に問われる可能性はあるし、罪の有無関係なく、そもそも褒められた行為とは言えないだろう。
外壁は塗装が剥がれてぼろぼろなのだが、中に入ると、物が散らばっているわけでもない。ほこりは溜まっているし、朽ちて地面に落ちた木片を見つけて、すこし危なっかしい雰囲気もあるが、廃屋にしては、意外と綺麗な印象が、逆に不気味だった。
幽霊でも出そうだなぁ、なんて、僕たちはよくその雰囲気を楽しんでいた。僕もそうだったし、彼も幽霊を信じるタイプではなかったので、怖がっている様子はなかった。姉に言えば、怖がりながらも、一緒に行こう、なんて言ってきそうだったので、僕は家族の誰にも口にしなかった。
彼とふたりで時間を潰すなら、別にお互いの自室でも、近くの空き地でも良かったのだが、それでもあえてその幽霊屋敷を選んだのは、やはり僕たちだけしか知らない、という特別感があったからだろう。もちろん他にも知っているひとはいたかもしれないが、すくなくとも僕の分かる限り、そこに侵入する子どもは、僕たち以外はひとりもいなかった。ある時期までは。
「
この言葉が、放課後、幽霊屋敷へ行く合図だった。
かつてその屋敷の主だった人物の名前が、鰐川さんだ。いやもしかしたら僕たちが勝手に忍び込んでいた時もまだ、その土地の権利を持っていたのかもしれないのだけれど、詳しいことは分からない。名前を知ったのは、僕たちが入り浸りはじめた、三年生の頃だ。
汚れたベッドの残る、寝室だったらしき部屋の引き出しに、日記が残っていたのだ。この家は鰐川さん夫妻と、夫側の両親の四人で暮らしていて、夫婦の間に子どもはいなかったみたいだ。日記を付けていたのは妻の、数子さん、というひとで、几帳面な性格が表れているような字がびっしりと書き込まれていた。
例えば、
『一九××年三月十四日
弘也さんの生まれた岐阜に越してきてから、半年が経った。弘也さんの実家で、お義母さんやお義父さんと一緒に暮らす、って決まった時、最初はどうなることだろう、と思っていた。でもこうやって慣れてくると悪いことでもないかな、って気もするな。私も、もともとの生まれは九州の田舎のほうだし、ひとり暮らしや弘也さんと同棲していた頃の、都会での暮らしが特別好きだったわけでもない。どちらかと言えば、久し振りに実家で暮らすことになった弘也さんのほうが、悩みは多そうだ。お義父さんとの関係がちいさい頃から、あまりよくなかったみたいで、いまも口喧嘩は絶えない。この間も、「こすって、車に傷付けたの、父さんだろう」と弘也さんがお義父さんに怒っていた。……あぁそう言えば、弘也さん、ホワイトデーのお返しくれなかったな。最近記念日とか、そういうの、すごく雑になったな』
という内容が、日記には書かれている。日常の些細なことがあれやこれやと書かれていて、これは日記の前半のエピソードだ。
多少ぎくしゃくとしたところはあっても、鰐川さん家族が、荒んでいなかった頃の。
『一九××年六月十二日
弘也さん、最近、怪しい。浮気、しているんじゃないだろうか。いや、違う。夫を信じないなんて、妻、失格だ。私は彼を信じる。私の愛した彼が、そんなひとを裏切るようなこと、できるはずがない。むかしは問題のあるところもあったけど、いまの彼は変わったんだから。……でもやっぱり不安だ。私はこっそりお義父さんとお義母さんに相談してみることにした。あの子がそんなことするわけない、って否定して欲しかった。だけどふたりは深刻な顔をしていた。あの子ならやりそう、って。お義母さんが、今度探りを入れてみる、と言ってくれた。でもどうなんだろう。お義母さんに相談したことがばれて、弘也さんと険悪な関係になったら嫌だな』
日記の主である数子さんは、心の状態が文字に出るタイプなのかもしれない。この辺りから几帳面で、綺麗だった文字が、ときおり崩れていた。
翌日の日記の文字は、もっと荒れている。
『一九××年六月十三日
お義母さんと弘也さんが、朝から口論していた。原因はやっぱり私が相談をしたことだ。ごめんなさい。お義母さん。悪気はなかったの。夜、帰ってくるなり、何が浮気してる、だ。お前だろ。別の男と浮気してるのは、と言う。弘也さんが私のほおを叩いた。久し振りだったので、その瞬間、パニックになってしまった。結婚してからは落ち着いていたので、忘れていた。彼が、私よりも何倍も嫉妬深いことを。自分の罪を隠すために、俺を悪者にしようしてるんだ、と弘也さんは本気で信じているみたいだ。嫉妬に駆られた時の弘也さんほど、厄介なものはない。だけどじゃあ彼は本当に、浮気していないのだろうか。だったら変なこと、言わなきゃ良かった……』
ここから一週間経った日付を最後に、毎日書かれていた日記は途絶えている。焦ったように書いたのか、最後の日記の内容は、ひらがなも多く、文字も汚く、ひどく読みにくかった。
『一九××年六月二十日
仕事が終わって、家に帰ると、お義父さんとお義母さんが倒れていた。しんでいる、とすぐに分かった。本来だったもうかえってきているはずのひろなりさんの姿がない。どうしよう不安だ。電話の音が鳴る。じゅわきを取ると、ひろなりさんからだった。おかあさんたちがしんでる、といっても、ふぅん、としか言わなかった。私はおもいきって聞くことにした。もしかして、ひろなりさんがころしたの? 彼は、ちがう、と言った。ひろなりさんが違う、というなら、ちがうんだ。ひろなりさんは、いま帰るから、と言っていた。すなおに待ってよう。私、身体がふるえてる。きもちをおちつかせるために日記を書いているけど、疑わなきゃ良かった。あぁふあんだ』
ここで文章は終わっている。
「どう思う?」
と、日記をはじめて読み終えた時、菱川がそう聞いた。
「何が?」
「弘也さんが殺人犯、なのかな?」
「絶対そうだろ。数子さんを疑ううちに心が、って感じで」
「いや、意外と全部、数子さんが犯人、って可能性もあるんじゃないか。動機は同じような感じだけど、精神的におかしくなった数子さんが日記では嘘を書き続けていて、実は自分の家族を自分で、みたいな」
「なんで、数子さんが家族を殺すんだよ」
「あれだよ。旦那さんが暴力的で嫉妬深かったら、奥さんだって、頭がおかしくなるよ」
「でも、そもそも日記が本当かどうかも」
「分からないけど、でも嘘をつく理由もないだろ」
この話をしていた時、菱川はすごく楽しそうだった。そう言えば、彼は小学生の時から、児童向けのミステリをよく読んでいた。本格ミステリのような出来事が身近で起こっているような気がして、嬉しくなったのかもしれない。その日記は現実に存在するもので、僕たちの会話は、ひどく不謹慎だった。でもやはり好奇心には勝てない。自分たちが探偵と助手になったみたいで、本音を言えば、僕も楽しんでいた。
とはいえ結局、これだけの手掛かりで真実に辿りつけるわけもなく、ただ想像するだけだったのだが……。
推理談義が終わったあと、菱川がぽつりと言った。
「……でも、ここでひとが殺されたのは、間違いないんだよな」
「そうなるね」
「出るのかな、幽霊」
「怖い?」
「いや、本当にいるなら、会ってみたい」
「僕も」
この会話が、幽霊屋敷、と呼ぶようになったきっかけだ。そう呼びながら、僕たちは幽霊をまったく信じていなくて、怖がってもいない、なんとも霊に失礼な子どもだったのだ。そして怖がっていないから、よく遊びにいくこともできるし、ずっとその場所に留まり続けることができる。
屋敷を見つけ、日記を気付き、推理談義に花を咲かせたのが、小学三年生の頃だ。
まだ葉瑠としゃべったこともなかった。
そこからだいぶ経った頃に、僕は葉瑠を誘って、この幽霊屋敷を訪れるのだが、それまではお互いが絶対に秘密にする、という暗黙の了解の中で成り立つ、ふたりだけの秘密基地だったのだ。
大学生になったいま、僕はその場所を訪れている。
もうなくなったのでは、とも思っていた。最初からここが目的地だったわけではない。いや本当の目的なんて、実はとっくの前に終わっている。
屋内に入ると、以前よりも明らかに多くの朽ちた木々が床にちらばっていた。すこし大きな地震がくれば、いやそんなものがなくても、ある日急に、倒壊してもおかしくなさそうだ。あの頃からぼろぼろだった建物は、十年近い月日が流れたいま、当時の比ではない。取り壊されずに残っているほうが、奇跡に近いような場所だ。
幽霊とは会えるだろうか。
あの頃の僕は、そんな存在なんて欠片も信じていなかったけれど、いまは違う。ここへ帰る途中、ふとそんなことに気付き、実家に帰ったらここへ寄ってみよう、と思っていたのだ。その一方で、何かに引き寄せられてしまった、というような想いもあった。夜を選んだのは、人目に付かないからだ。昼間に偶然見つかって、廃屋に侵入する不審者とは思われたくなかった。
電灯も付かない夜の廃屋は、僕の持っているハンドライトに照らされて、より暗さを際立たせていた。
鰐川家の、誰かの、幽霊が現れる様子はない。
だけど確かに気配はある。懐かしい、とても懐かしい気配だった。僕はその正体にもう気付いている。だけどいまだに言葉にすることができずにいる。
僕はちいさく息を吐く。
音が、する。窓越しの景色は暗くよどんでいて、降り注ぐ粒を視認することはできないが、止んでいた雨が、また降りはじめたみたいだ。
僕は、その音に耳をそばだてる。
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