翳りゆく前の、鮮やかな色を探して。
「春に長く降る、こういう雨を、春霖、って呼ぶんだよ。雨、って普通は……、すこし哀しい感じがするものだけど、春の、特に小雨が長く続くような雨は、どこか明るい感じがして、好きなんだ。まぁ哀しい感じ、って、私が勝手にそう思ってるだけ、なんだけどね」
長く続いた関係の中で、葉瑠が一度、そう言ったことがある。あれはいつだっただろうか。たぶん高校に入って以降のことだ。小学校の頃の記憶を引きずり上げようとしていたせいで、一瞬、小学生だった彼女が言ったような気にもなってしまったが、いくら大人びていると言っても、小学生の女の子にはあまりにも似合わない言葉だ。
葉瑠と一緒にいる時は、よく雨が降った。
私、雨女だから。
彼女はよく、降り続く雨を見ながら、苦笑いを浮かべていた。だけど彼女と一緒にいる時の雨は、それほど嫌ではなかった。
彼女との幼き日の想い出は、いつだって僕の頭の中で、煌めいてよみがえる。
それはやがて翳る未来をもう知ってしまっているから、なのかもしれない。だから僕は本当なら、思い出したくないのだ、過去なんて、ひとつも。その記憶が鮮やかであればあるほど、いまがつらくなるから。
僕たちは、もう戻ることができない。
小学生の頃、みんなでかくれ鬼をして遊んだ夕暮れ時があった。幽霊屋敷と噂の廃屋で、僕たちふたりで忍び込んだ夜があった。大人になってしまったいま、過去を振り返ると、不思議な気持ちになってしまう。
もし、あの頃の自分が、いまの自分を見たら、どう思うだろうか。
もし、あの頃の自分が、あの時、あの場所で、あんな行動を取ってしまったことを知ったなら、どう思うだろう。
……いや、これを思い出すのは、もうちょっとあとにしよう。まだまだ、夜は明ける様子もないのだから。
まずは小学生の時の話だ。
葉瑠と同じクラスになり、はじめて話したのは、四年生の時だったが、彼女のことはもっと前から知っていた。田舎の、そんなに特別大きくもない学校で、クラスは学年に三つしかなく、ほぼすべてのクラスメートを把握していた、というのもあるし、それとは別に彼女はとても目立つ存在だったからだ。容姿の面もあった。
だけど一番はそんなことではなく、
葉瑠は三年生の時、関西のほうからこっちに越してきた。つまりは転校生だった。ほとんどが見慣れた顔の中に、新しい顔が加わる、という状況は、良くも悪くも目立ってしまう。たぶん葉瑠の性格を考えれば、それは特に嫌なことだったに違いない。仕方のないこと、と子どもながらに諦めてはいても、精神的な苦しみは多かったはずだ。
転校してきたばかりの頃、彼女がひとりでいる姿を何度か見掛けたことがある。
彼女の姿を見るたびに、何度も話しかけてみたくなった。僕たちの暮らす田舎町よりも、彼女はずっと都会からやってきたひとだから。極端で、とんでもなく失礼な話かもしれないし、本人には口が裂けても言えないが、僕たちと似ているけれど、違う。そんな珍妙な生き物に対するような興味が、最初の頃はあった気もする。そう思っていたのは、おそらく僕だけではなく、結構いたはずだ。
「永瀬、って、さ」
永瀬、というのは、葉瑠の名字だ。
「結城、くん?」
「家にいる時、いつも何してるの?」
はじめて掛けた言葉を、いまも覚えている。
当時の僕に悪意なんてなかった、と自信を持って言えるけれど、聞くひとによっては、あるいは捉え方によっては、自分たちとは住む世界が違う、と線をひとつ引いているような言葉に思えなくもない。たぶん僕の言葉に対して、葉瑠は内心、すごく怒っていたはずだ。
「別に、みんなと同じ、です。テレビを見たり、本読んだり、とか。普通、です。本当に、普通」
普通、という言葉を強調して、葉瑠が答えた。
仲良くなる前、葉瑠は僕に対して敬語だった。僕だけではなく、気心を許していないすべての相手に対して、敬語を使っていた。同い年の相手に使う敬語は、ときおりその相手を見下しているふうに映ってしまうものだが、葉瑠の口調はそんな他者を蔑むものではなかったように思う。周りと関わることが怖い、だけど嫌われたくはない。そんな心の表れだったのではないだろうか。当時はそこまで言語化できるほど、はっきり意識していたわけではない。もちろん僕が勝手にそう感じているだけで、葉瑠自身がどう思っていたかは知らない。
「ねぇ結城くん、ちょっといい」
何の用事で呼ばれたのかは覚えていない。内容自体は、たいしたことではなかったはずだ。そんなことはどうでも良かった。
ちょっといい、ですか?
と、いままでの葉瑠ならば付けていたはずの、ですか、が言葉の中から消えていた。ほんの些細なことだ。だけどそのちいさな変化が嬉しくて嬉しくて仕方なかった。
距離の縮まりを実感した瞬間だった。
同じクラスになって、半年くらい経ってのことだった。彼女との間に、劇的に仲が深まる印象的なエピソードがあったわけではない。ゆるやかに関係が育まれていったのだ、と思う。
とはいえ、クラスのみんながいる場所で、そんなに話すわけではなかった。
小学四年生というのは、いまから思えばまだまだ幼い年齢ではあるけれど、他者から見える自分自身のことや男子であるとか女子であること、とかを意識しはじめても、おかしくない時期だ。僕もその例に漏れず、周囲に多くのひとがいる中で、女の子と話すのは気恥ずかしかったし、周りにからかわれるのも怖かった。当時のクラスメートのことを思い出すと、女子と話しているくらいで馬鹿にするような男子はすくなかったように思うが、もしかしたら、というのがあって、ためらってしまった。
「気にし過ぎだよ、それ。そんなことばっかりしてたら、永瀬に嫌われるぞ」
と、冗談めかして、そう言ったのは、小学四年生から六年までずっと同じクラスだった
菱川は家も近所で、幼稚園の頃から知っている。いわゆる幼馴染と言えるような存在だ。髪が長く、中性的な顔立ちをしている菱川は、よく女の子に間違われることが多かった。端正な顔立ちに、声変わりもしていなかった彼の声は、高音で、とても魅力的だった。直接、彼が周りの女子からアプローチをかけられている場面を見たわけではない。でも彼はクラスの女子からすごく人気があり、嫉妬から彼に敵意を向ける男子生徒も多かった。僕はむかしから仲が良かったので、敵意はひとつもなかったが、それでもやっぱり羨ましくはあった。
菱川と葉瑠が付き合っている、って噂あったな……。
当時のことを思い出していると、芋づる式に、それまで忘れていた記憶までよみがえってくる。五年生の頃だったはずだ。その頃には、僕と菱川と葉瑠の三人は、よく話す関係になっていた。確かに僕たち三人が揃っている時の、外側から見える雰囲気は親密だったかもしれない。噂が出たとしても、おかしくはない。でもいまになって思うのは、僕ではなく、菱川と葉瑠、ふたりへ向けての悪意が感じられるのも事実だ。
菱川を好きだった女の子が葉瑠に嫉妬した。あるいは、その頃には周りと打ち解けてきていたとはいえ、多少はいただろう葉瑠をいけ好かないやつだ、と思っていた生徒が、葉瑠へ憎しみを集めるために噂を流した。そういう可能性もあったのではないだろうか。当時は、ちょっとした変な噂くらいにしか考えていなかったのだが。
だから菱川は、この噂が流れた時、気まずそうな表情を浮かべていた。
「ごめん……」
「何が?」
と、僕は噂なんて知らない振りをしながら、彼の言葉に答えた。
「永瀬のこと。俺と永瀬が付き合ってる、って……」
「実際、付き合ってるの?」
「そんなわけないだろ。だって」
だって、の続きを、菱川はわざわざ口にはしなかった。言わなくても、伝わる、と気付いているからだ。
なぁ永瀬のこと、好きだろ。
菱川がそう言ったのは、小学四年生の終わり頃だったはずだ。名残りの雪が散見される、冬から春に移り変わる時期だった記憶がある。恋愛感情の有無に関しては、違うよ、と僕は答えたけれど、彼はまったく信じていない様子だった。
まぁつまり菱川は、友達の好きな女の子と付き合うわけないだろ、と僕に伝えたかったわけだ。
あの時、僕たちが話していたところは、秘密基地のような場所だった。
僕たちふたりで見つけたそこに、やがて葉瑠が加わり、そして僕たちの手から離れるように、そこを知る子どもたちは増えていった。多くのひとに認知されてしまったそれは、もう、秘密、と呼べるものではない。
だけど……、ほんの一時期ではあったものの、僕と菱川、たったふたりの秘密基地だった時代があるのだ。
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