第59話 帰らねば。あの尾道へ
もう今から25年ほど前のことだ。
文子は幸の母である橘百合子に競技かるたを習っていたこともあり、以前から顔は知っていたが、友人となったのは同じクラスになってからで、いつしかお互いの家を行き来するようになった。そして二人はお互いを「さっちん」「ふみちゃん」と呼び合い、毎日同じ時間を過ごした。
ある日、幸が文子の部屋にいたとき、文子の部屋の窓がノックもなしに突然ガラリと開いた。
「なんじゃ、お客か」
窓を開けたのは幸の知らない男子だった。
「この子、同じクラスになったんよ。橘幸。さっちんっていうの」
文子が紹介する。
「うっす」と彼がぺこり。
「こいつはうちの幼馴染で、
逆に遠慮せずに、のそっと窓ごしに草太が文子の部屋に入ってきた。女の子の部屋に入るのに、なんの断りもないことに幸は少し驚いた。
入ってきた彼は天井につくんじゃないかと思うくらい背が高く、Tシャツがはち切れんばかりに肩幅が広い。顔の彫りが深く——端的に言うと、幸はその彼に一目惚れした。
「高校が違うから知らんよね? こいつ尾道昇華の水泳部のエースなんよ」
尾道昇華高校といえば、最近は少し翳りがあるとはいえ、かつてはオリンピックの金メダリストを輩出するなど全国にその名前を轟かすほどの水泳の名門校だった。
彼はその水泳部のエースだという。どうりで体格がいいはずだ。幸の胸はますます高鳴った。
だが、ノックもなしに女子の部屋に平気で入ってくる、文子と彼の関係はとても気になった。
そんな出会いで、幸はいつしか草太とも友達になった。もちろん、友達と言っても二人で会ったりするほどの間柄ではなかったが、文子の部屋を訪れたときは草太と話すことができる。彼はおしゃべりな性格ではないが、とても気さくで楽しい人だった。幸は文子には言わなかったが、どんどん彼に夢中になってゆく。
そんな幸の乙女心にそばで見ている文子が気がつかないはずもないのだが、幸は決して文子に口を割らなかった。
「草太とは本当にただの幼馴染だからね」
さり気なく匂わせる文子。それでも、どうしても文子と草太の関係が気になって仕方ない。「ただの幼馴染」だと言う文子の言葉も信じられず、もし二人が付き合っているのなら自分はただの道化なんだと、淡い恋心をグッと胸に秘めた。
文子と草太は、幸の家にも遊びにくるようになった。私さえ辛抱したら、彼とはずっと友達でいられるはずだ。幸はその頃は、それだけでも嬉しかった。
そんな関係が2年ほど続いた高校3年の秋、草太が熱を出して寝込んでると文子から聞いた。
私たちは、もうすぐ卒業する。これが最後の機会かも知れない。
幸は意を決して、一人で草太の見舞いに行くことにした。大河内写真館という古い文字の看板のあるドアをくぐり、知り合いとなっていた草太の父に挨拶をして部屋へ上げてもらった。
左手には尾道で評判の冷たいアイスクリームを入れた箱。緊張しながら髪を右手でもう一度整え、小さくノックをして草太の部屋のドアを開けると正面に草太が横たわっており——同じ布団にくっつくように文子が隣に寝ているのを幸は見てしまった。
ボトっと音を立てて、左手のアイスの箱が落ち、文子が振り向いて何か言おうとしたときには、幸はその場から踵を返して写真館を飛び出していた。
何がただの幼馴染よ。嘘つき。
涙が溢れて止まらない。
嘘つき。嘘つき。嘘つき。嘘つき。
その日から、幸は文子のすべてを拒絶した。近寄ってこようとするのがわかると、あからさまに避けた。何を伝えようとしているのか、手紙が机に入っていたこともあるが、読まずに破り捨てた。
もともと東京への憧れもあり、幸は東京の大学へ進学してそこで知り合った大道豊と数年付き合ったのち、結婚をして風花という娘をもうけた。
母の百合子は、文子が競技かるたの弟子ということもあり、しばしば文子のかたを持つ言動をするため大げんかをして以来、尾道へは帰っていなかったが、一度だけでも風花を実家へ連れて行ったらと夫に言われたこともあって、仕方なくまだ乳飲子の風花を抱いて尾道へ帰省したことがある。
どうせ文子は草太と結婚してるんだろう。
そんなことを思いながら、確認したくなってさり気なく二人の家付近へ行ってみたところ、草太に捕まって「あの日」の真相を初めて聞くこととなった。
文子は幸が草太の見舞いに来たことに気がつき、幸の草太への思いに気がついていた文子は、少しだけからかってやろうと窓から先回りして草太の布団に潜り込んだ。二人は兄弟のように育ち、幼い頃からよく一緒にそうして寝ていたので、草太も「なんじゃ。熱いのお」と言うだけで特に拒否をしなかった。
彼とて、まさかその後に幸が部屋までくるなどとは思いもしなかったという。
幸に拒絶された文子は、卒業式の日に泣きながら草太にあの日から今日までのことを告白したらしい。自分がすべて悪いんだ、と泣きくれていたと。
文子と草太が結婚していると思い込んでいた幸もまた、自分の頑なすぎた気持ちに愕然とした。ちゃんと話せばとっくに終わっていた話だったはずだ。
おかしなことに、三人とも同じ年齢の子供を持っていると聞いた。
「もう一度、友達にならんか?」
草太はそう言ったが、掛け違ったボタンを今更掛け直す方法もわからない。文子の家を訪ねる勇気もなかった。
別れ際、草太に誘われて幸と風花の写真を海辺で1枚だけ撮ってもらった。
その写真が、自分の知らないまま15年にわたって大河内写真館の店頭に飾られていたと風花から聞いたのは今年の初夏のことだった。
きっと、草太が幸と文子をこの場所に繋ぎ止めようとしてくれているのだと、幸ははっきりと理解した。
帰らねば。すべてに決着をつけるために、尾道へ。
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