第58話 マシンガントーク

 尾道に来たばかりの頃は、この坂道を走って上がるなんて風花は想像もできなかった。あれから4ヶ月、今は孝太に追いつくほどではないが、駆け上がることができるようになった。そして今も少しだけ先を走る孝太の背中を追いかけながら走っている。

 孝太が少し走る足を緩め、風花が追いついて二人が並走するように走っていると、ちょうど祖母の家へと曲がる小道の入り口にある石の上に母が腰掛けていて、風花に向かって小さく手を振った。

「信じらんない。わざわざ出てくる?」

 風花が思わず口にする。

「だれ?」と孝太。

「お母さん」

 風花は母の前まで駆け上がると、そこで足を止めた。

「もう、そんなところで何やってんのよ」

 私、怒ってるんだから——

 風花は腰に手を当てて仁王立ちとなり、その横で、孝太が風花の母に向かってぺこりと頭を下げた。

 だが、母の様子が少しおかしいことに風花は気がついた。孝太の顔をじっと見ているのだ。

「お母さん?」

 風花がもう一度声をかける。

「おはようございます。風花の母です。ええっと、君のお名前は?」

 母は風花には返事をせずに孝太をじっと見たまま、孝太に聞いた。

「あっ、大河内孝太です。あの、風花ちゃんの……友達です」

「君も水泳をやっとるん?」

 なんでそんなこといきなり聞くの。私が水泳をやってたからって、孝太君がそうとは限らないのに。

 風花はその時は、母が聞いたその意味がわからなかった。

「あの、僕は陸上じゃけど」

 孝太がチラッと風花に視線を送り、少し戸惑うように風花の母に言った。

「ほうね。《あんた》も水泳しとるんかと思うたわ」

 母は「あんたも」と言った。それはどう言う意味だろう。

 それにしても広島弁丸出しで喋る母を風花は初めてみた。少なくとも、東京に住んでいるときは広島弁で話す母は知らなかった。


「風花、元気になったねえ。私はこんな坂、走る気にもならないわ」

 いつの間にか母の言葉が元に戻っている。

「もう、お母さん。何しに出てきたのよ」

 さっきの会話は気になるが、孝太の前で聞いてはいけない気がする。

「いいじゃない。それに一度ぐらい風花の彼氏を見ておこうと思ってさ」

 彼氏と言われた孝太が少し照れた。

「そんなんじゃないから。もういいから、帰ってよ」

「何よ、ケチ」

 母は笑いながら座っていた石から腰を上げる。

「もう一回、坂道を往復したら帰るんだから、もういいでしょ」

 プッと頬を膨らませた。

「はいはい」

 おかしくてたまらないというような母の顔が余計に腹が立つ。

「はい、は一回」

 風花は家の方へ向かって、母の背中を押したのだった。


 坂の上の境内の広場でいつものようにストレッチをする。交互に背中を押すと、始めた頃は硬かった孝太の体も、いつの間にかかなり柔らかくなったことに気がつく。

「お母さんと仲がいいんだな」

 背中にお尻で乗っている風花に、孝太が言った。

「まあまあ最近は。去年は私のせいで最悪だったけどね」

 グッと風花が力を入れて背中を押す。

「ぐほっ」と孝太の声にならない声。

 今度は少しだけ緩める。

「どういう意味なんだろうな」

 風花の「圧」から逃れて息ができるようになった孝太が言う。

「何が?」

「風花ちゃんのお母さんが、あんたも水泳かって言ったこと」

 孝太もやっぱり気になっていたらしい。

「私が——水泳だから?」

「風花が復帰しようとしてること、もう誰かに話した?」

 やっぱり、だよね。

「まだ。あっ、おばあちゃんが水着が濡れてるから、なんとなくわかってると思う」

「うーん。でも、あの言い方がなあ」

 何か母のあの言い方に違和感を感じた二人だった。


「風花、あなたがモデルになった写真を見に連れてってよ」

 朝ごはんを食べ終わった頃、母がそう言う。

「ええっ、場所ぐらいわかるでしょ。自分で行けば」

 実は孝太と学校のプールに水泳の練習に行く予定だったのだ。

「つれないこと言わないでよ。写真とあなたを並べて写真を撮るんだから。ねえ、風花ちゃーん」

 食卓椅子に座っている風花の後ろから、母が首に抱きついてくる。

「ダメったら、ダメだってば。もう、あっついし」

 風花は必死に断ったが、結局は母に根負けしてしまい、仕方なく孝太にトークアプリで今日はできないことを伝えると、

「まあ、今日くらい親孝行してあげなよ」

と返事が来たのだった。


 陽が高く上って、気温が一気に上昇した石の坂道を、風花と母はテクテクと下って行く。ただそれだけで、わっと汗が吹き出してきそうだ。

「あれっ、さっちゃん?」

 下から登ってきた老女がすれ違いざまに母に声をかけた。

「あっ、高瀬のおばちゃん! 久しぶりい」

 風花と話をしていた母は、老女の顔を見て声を上げた。

「なんね、あんた。やっと帰ってきたん。何年ぶりかいね」

「ハハハ、忘れたわ。おばちゃん元気そうじゃあ」

「毎日この坂で鍛えとるけえね」

 そう言うと「高瀬のおばちゃん」は自分の太ももをパンと叩いた。

 早口の広島弁トーク。尾道にきた頃は、風花は全く理解できなかったのだが、最近は少しずつわかるようになった。

 それから10分ほど母は「高瀬のおばちゃん」と立ち話をし、風花はその横でじっと待たされる羽目になった。

 それにしても、孝太とのことといい、母がこんなに広島弁が《堪能》だなんて、今日初めて知った風花であった。

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