第46話 いいんだよ
風花がお見舞いに行った翌日に退院した孝太は、「無駄に」という表現がぴったりくるほどやたらと元気になって学校に帰ってきた。
病院では気丈に振る舞っていても、本来の目標であった高校総体で走ることも叶わずに、少しは落ち込んでいるのではという風花の心配はまったく杞憂に終わった。ミオの言葉を借りれば〈息づかいさえもやかましい〉くらいだ。
「さすが市民病院の点滴はよく効くな」
孝太はわけのわからない自慢をしながら、クラスの男子たちと駆け回っている。
「もうあと何日か休んどけばよかったのに。煩うてかなわんわ」
席に帰ってきた孝太にミオがチクリと言う。
「バカを言うな。きょうはプール開きだから、水泳部キャプテンのわしがおらんと格好がつかんじゃろう」
「キャプテン? この間までは俺は部長だって言ってたじゃん」
「いや、やっぱりキャプテンの方がかっこいいじゃろ。だから水泳部員のミオはこれからわしのことをキャプテンと呼ぶようにな」
〈アホくさ〉という、あきれた顔をしてミオは無視をした。
プール開きは学校行事としては特に何かを行うわけではなかった。かわりに今日の最後の授業が終わったら、水泳部として孝太がデモンストレーションの泳ぎを披露するという。
「競泳用の水着ももう手に入れたんじゃ」
ゴソゴソとバッグから取り出したのは、本当に「ちゃんとした」競泳用のものだった。
競泳用の水着は学校などで使う一般的なものと違い、ぴったりと身体を圧迫する。慣れないと着るのさえも難しいものだ。身体を覆う面積が広い女子用だけでなく男子用でも完全に全身を覆うボディスーツタイプなどは、ひとりで着用できずに2、3人のコーチの補助が必要なこともあるくらいだ。
「佐々岡スポーツのおっちゃんに頼んどったら昨日届いたんよ。これでわしのタイムアップ間違いなし!」
両手で水着を広げて見せた。かつてオリンピックで金メダルを獲得した平泳ぎの北島康介選手が着ていた、腰から膝上まであるタイプだ。
「ハイハイ。孝太がそんなに泳ぎが得意なんて今の今まで知らんかったわ」
ふん。ミオが鼻を鳴らした。
「まあ、能ある鷹は爪を隠すいうじゃろ? 本気のわしにかかれば、尾道水道横断ぐらい簡単なもんよ」
実際に行ってみるとわかるが、尾道から対岸の向島は本当に近い。だが、瀬戸内海がグッと狭くなるポイントとなり潮の流れがかなり速いため、以前は人間が泳いで渡るのは不可能だと一般的には言われていた。だが、数年前にどこからか逃げて向島に潜伏した人が、警察に包囲された島から脱出するために夜間に泳いで渡り、ちょっとした騒ぎになったことがある。だが、横断不可能といわれた急流の尾道水道ではあったが、地元の漁師などの間では時間帯によって潮の流れがピタリと止まるときがあるのは常識であったらしく、その事件があってやっと難攻不落の尾道水道も時間帯によっては泳いでも横断可能らしいということが知れ渡ることとなった。
第四コースのスタート台の下に孝太は立っていた。風花とミオ、それにプール掃除を行ったクラスメイトたちがプールサイドにいた。
新調したばかりの水着を着た孝太はゆっくりと上体を回して準備運動をし、大きく深呼吸をして右手の人差し指を立てて空に向かって高くさし上げた。
そこはまだ梅雨が明けきらない少し曇った空。プールの水も冷たい。
「オン・ユア・マーク」
その空に向かって孝太は自分で大きく叫んでからスタート台に上がった。
風花が反射的にぷっと吹き出し、孝太に向かって「違うよ!」と声をかけようとしたとき、
「それって普通、選手が自分で言うか?」
という菊池君の声でみんなの笑い声が起こり、声を出し損ねてしまった。
孝太がスタート台の上で飛び込みの態勢をとったときのことだ。
「おら、1年どけー。プール開きはわしらの出番じゃあ」
急に横から大声がしたかと思うと、10数人の海パンの男子たちがバタバタと走ってきて次々にプールに飛び込んだかとおもうと、大声を上げながら勝手に泳ぎ始めてしまったのだ。
「三年生だ——」誰かが言った。
「こりゃあ。お前ら何やっとんじゃ!」
水泳部顧問となっている長谷川先生が大声で怒鳴っている。
孝太はその様子をスタート台の上からじっとみていた。
誰もプール掃除もしなかったくせに——
風花は怒りで体が震えていた。
孝太が今日のために、どれだけ準備してきたか知らないくせに。
風花は孝太に駆け寄り、「孝太君、怒っていいんだよ!」と言う声が怒りで震えているのが自分でもわかった。
「いや、いいや」
だが、意に反して孝太は風花にそう答え、プールではしゃぎ回る先輩たちをただじっと見ている。
「なんで。今年このプールで最初に泳ぐのは孝太君のはずだったんだよ。あの人たちは何もしなかった人じゃん!」
まだ怒りが収まらない風花。
「だから、構わないって。海潮高に水泳部ができた。プールに水も入った。ここまでたどり着けただけで、本当に今はそれで十分なんだよ、俺」
孝太は目を細めて笑った。どうやら本心らしかった。
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