第2話 ヒロイン死亡

『学び舎に血を捧げよ』

 それが迷比ノ宮私学園の正門に学園名と並んで掲げられた言葉。

 その正門の前に白い最高級国産車が停まる。

 学生鞄を膝に置いていた後部座席から運転手にドアを開けられて、私と玄武郎は登校生徒達が水の様に流れ入る正門に降りる。

「おはようございます、薔薇香様」

「おはようございます、玄武郎様」

 ガリアーノ・デザインのセンスのいい制服を着た生徒達は無言で登校していたが、私と玄武郎の周囲では次次と挨拶の声が沢山の鈴の音の如く鳴り響く。

「ごきげんよう」

 それに私は微笑んで挨拶を返す。玄武郎もだ。

 今朝の登校もいつもの光景だ。

 楯楼流家の子女に約束された、洗練された早朝の光景。

 正門をくぐり、私は縦ロールを揺らしながら高等部校舎へ。

 玄武郎は初等部校舎へ。

 まるで並べられたドミノが次次と倒れる様にかかる登校生徒達の声に挨拶を返しながら、私は校舎へと歩く。

 私の興味を惹こうと、取り巻き達が今朝の学園の、世俗の、上流階級の話題を挙げて先を争う。

 私はそれらにいちいち興味を持って、礼儀正しい感想を返す。

 ……完璧ですわ。

 今朝おろしたての清潔な制服の花の匂いを嗅ぎながら、私はふと一人思う。

 今日も完璧に日本有数の血筋を持つ良家の子女を演じている。

 お行儀のよい楯楼流家のお嬢様でいる事がどんなにストレスのかかるかを知る者は私以外にいないはず。

 大体ね、今どき、流行はやらないのですわよ。パーフェクトなお嬢様なんて。

 人間、誰だって欠点を持っているのが愛嬌ではございませんか。

 着た制服は一日で捨て、明日には新たな制服に袖を通す楯楼流家の私でも庶民の心は持っていますのよ。いや持っているつもりよ。

 これというのも自宅の部屋で、夜の勉強の合間に戯れにスマホをいじっていて偶然、古今東西のエッチな漫画を集めたアングラサイトに辿りついた日からの事。つまり約四年前。

 親の信頼によってフィルタリングがかけられていなかったスマホで思春期の甘い疼きに誘われて品性お下劣な漫画を読み漁り、そのサイトですっかり子供の作り方を学んでしまった私はお嬢様という仮面の下に荒っぽい愛の獣を棲まわせてしまったの。

 それまでの薔薇香は詩吟お作法日本舞踊、あれやこれやの良家のたしなみ。

 でも私のパソコンやスマホにはあれやこれやの品性お下劣な漫画小説動画にBLゲーム。それらの電子データがストレージの大部分を占め、毎夜ぐるぐる大回転していますのよ。

 人間、ちょっと腐れている方が美味しくてよ。

 こんな私の本性に家族もクラスメイトもお習い事の師匠も誰も微塵にも気づかない。

 私は良家、楯楼流家のお嬢様。そういう表向きの顔で今日も一日、学園の日をすごすの。

 ……それにしても今朝のファック・オフはヤバかったですわ。

 父に私が訓令にファック・オフなんて言葉を返したのもあるギャグマンガの影響なのですわ。だって、その言葉を思わず返したくなるタイミング、いわゆるお約束の流れだったのですから。

 ちなみにファック・オフは、失せろ、消えろ、出ていけ!程度の隠語だと思っていればおよろしくてよ。

 ああ、それにしても、今日もお上品な学園生活の一日が始まるのね。

 明日からの評判も構わず、いっそこの場で本性をはっちゃけてぶっちゃける事が出来たら、私の精神衛生上、どんなに解放感を得られるでしょう。

 それはとても素敵な甘美な快感でしょうね。

 しかし私はそれが出来ない。

 何故ならば、私は楯楼流家の長女ですから。

 楯楼流家の結婚は駆け引き。政略結婚で誰かに嫁ぐその日まで、私は清楚でゴージャスな優等生として金の鎖で身を縛り、生きていかなければならないの。

 プライベートな恋のないその運命に比べれば、お下品な妄想などどんなに可愛く些細なものではないのかしら。

 ああ、それにしても私の眼を楽しませる、超弩級に見目好みめよい天使の美少年でも通りがからなってくれないかしら。

 日常を受け流しながら、そう考えてた時でした。

「気をつけろ!! 暴れカバだ!!」

 突然の声がして、前方の人の群列が悲鳴と共に割れましたの。

 見れば、やや右、飼育部の動物園舎のある方向から体長三・五メートル、体重一トン越えの肥えた獣がこちらに走ってくる光景。

 地響く偶蹄。

 大きく開けた口から覗く巨大な太い牙。

 カバの速度は四〇キロメートル毎時を越え、嚙む顎の力は実に一トン。

「ああ! 皆様、早くお逃げになって! カバはその愛嬌に似合わず気性が荒い! アフリカでの野生動物による人間の死者は、この猛獣によるものが最も多いと言われているほどですもの!」

 などと私は漫画『美少年ZOO』で仕入れた知識とカバと主人公雪之丞が全裸で戯れる場面を思い出しながら、危急の避難を皆に呼びかけましたの。

 周囲の人間が逃げるのはまことに早かった。

 しかし、私は声かけのせいで逃げるのが一手遅れてしまいましたわ。

 気がつけば猛速で迫るカバの真正面。

 このままでは私は正面衝突。弾き飛ばされて、空中に螺旋の血風を舞わせる華麗なる屍となってしまう。

 頭の中ではこの緊急事態に走馬灯がフル回転。回避方法を脳が記憶から検索するが、その全てがお下劣漫画アニメの感動の一場面とは既に生をあきらめたの、私の生存本能!?

 衝突まであと〇・五秒。

 その瞬間、美少女の死亡記事を思い浮かべたこの私の眼前に横入りした木刀を構えた一人の影。

「チェストーッ!」

 道着姿のリアルの美少年が物凄い勢いで木刀を振り下ろし、私に衝突寸前だった一トン越えの巨獣を迎え討って眉間に鋭い打撃を食らわせた。

 カバの足は微妙に左へよれて、私との衝突コースはまるで見切った如く正面衝突より高速で流れていく。

 私とその道着の美少年は暴走カバと一瞬の邂逅をし、アフリカの猛獣はぶつかる事なく私の後方まで十数歩走ってそして地面に屈して気絶した。

「楯楼流さん、大丈夫ですか。怪我はありませんか」

 少女の如き声で私に手を差し伸べる童顔の美少年。

 飼育部が大勢で気絶したカバの捕獲にあたる光景を背に、私は彼が差し伸べた手をとる。

 この童顔の美少年を私は知っている。あくまで一方的な知見のはずだけれども。

 迷比ノ宮私学園、高等部三年A組、出席番号一番、美剣士『朝霧蘭丸あさぎりらんまる先輩。

 強豪と名高い迷比ノ宮学園剣道部で今年こそ全国制覇の業を成し遂げるだろうと評価も高い、ベビーフェイス。

 私の頬は紅潮しました。

 何故ならば美形ぞろいの剣道部でもあまりにも私の好みにドストライクな美少年で、密かに遠方より眼で愛でていた殿方だったのですから。

 ああ、何という感動。私の眼がハート型ですわー!

 全てを答に出来ないもどかしさに私の心は打ち震える。危機一髪で救ってくれた美少年に心中の感動を全て伝えるのに何万語費やせばすむでしょう。

「……ありがとうございます、朝霧先輩! 助けていただいて本当にありがとうございます!」

 私はらしからぬほど無防備に思いの丈を眼前の美少年に告げる。これが真に恋だの愛だのいう感情かもしれない、そう思いながら。

 これは暴れカバに感謝する場面なのではないでしょうか。

 周囲で登校生徒がきゃんきゃんとした声でざわつきながら私達を囲む。

「怪我はなさそうで何よりですね」

 微笑む舌足らずな美少年に、紅顔の私がこの礼を返すにはどうすればいいかと心の底から考えた時。

 衣擦きぬずれの音が朝霧先輩の下半身より聞こえてきました。

 気づきました。

 カバの体当たりを見事かわした私達ですが、あの巨体の速さと牙の前にはすっかり無傷であるとはいえず、蘭丸先輩は回避の中で道着のはかまをすれ違いの牙に切り裂かれていて、今になって布地の傷が大きく裂けたのです。忌まわしきは地球の重力。腰を縛る紺の紐は切れてほどけて袴も下の白い下着も通り魔の牙に切り裂かれ、一斉に全ての布地が美しく引き締まった薄だいだい色の上を地滑りして足首の辺りに落ちていきました。

 美少年の裸の下半身が、学園のさわやかな空気と共に登校する衆目の前にさらされたのです。

 蘭丸様の『ぱおーん!』の美しい造形が最も傍にいる私の眼に焼きつきました。

「こ、これは……!」

 眼福がんぷくですわーっ!

 私の全身は喜びで爆発しそう!

「な、なんで!? ……、僕、恥ずかしすぎて死んじゃうぅっ!!」

 裸の股間のぱおーん!をさらした蜂蜜美少年スイーティストハニーは全身全霊を込めて恥ずかしがります。

 若い汗で匂いたつ大和おのこは今まで見たアングラサイトの古今東西の無修正漫画動画ゲーム画面でのどんなソレよりも麗しく、それを目撃した私の身体に大きな反応をもたらさずにはいられませんでした。

 つまり鼻の奥が熱くなり、私のたいへん形のよい両鼻孔から大量の赤い血がまるでロケット噴射の如く噴き出したのですわ。それはもう反作用で足先が地面からかなり浮くほど。

 凄まじい量と勢いはあっという間に体重の九〇パーセントを失血し、地面を赤く染め、私の肌をみるみる白磁の色に変えていったのです。

 勿論、周囲は新たなる悲鳴、私を気づかう同窓の友の大きな叫びであふれかえりましたが、それと裏腹に楯楼流薔薇香の意識は速やかに静かに暗くなっていきました。

 ……え、ちょっと待って。もしかしたら日本を背負って立つ私は美少年のぱおーん!を見たショックの鼻血ヴゥー!でここで死んでしまうのっ!?

 意識は状況に抗おうとしますが、現実はそれを許しません。

 暗転していく視界の中でもう一度、新たなる悲鳴が響き渡ります。

「キャー! 今度は朝霧さんがーっ!」

「大丈夫か! 蘭丸! しっかりしろっ!」

「誰か! AEDをっ!」

「保健の先生を呼んでこいっ!」

 え、朝霧先輩にも何か起こったの?

 その問いに答えてくれる者も時間もなく、出血多量で私の視界は暗くなります。

 やがて私は暗黒と静寂の中で意識と肌感覚がこの世界より切り放されていきました。

 楯楼流薔薇香の人生、ここで一巻の終わりでございます。

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