白狐の道行き

大和詩依

第1章 孵化昔日

第1話 日常

 同じような日々を何百回、何千回と繰り返してきた。そしてこれがわたしにとっての「普通」であると思っていた。


何も、考えなくていい日々。


何も、選ばなくていい日々。


何も、手を伸ばして求めなくていい日々。


――ただ与えられるものを待っているだけの日々。


 これ以外を知らなかった。これしかないのだと思っていた。


 時間がくればご飯を食べ、時間がくれば言われたことをし、また時間がくれば休息を取る。こんなことをもう何度繰り返したのだろうか。正確な数なんて分からない。


 そしてこれから先も、体が機能を停止して、肉が腐り、骨が砕け、やがて土に帰るまで。きっとこれがわたしの全てなのだろうと。疑うこともせず、死んだようにただ時が過ぎていくことだけをぼんやりと感じていた。


 しかし、そんなことはなかった。変化は突然やってきた。耐えられないほどの爆音と、焼けるような熱い炎。逃げ惑う人々の悲鳴。


 そして、自分の手を引く小さく頼りない手と視界に映る黒い髪を持つ少女。変わらない日々を打ち破ったのは、破壊と少女という正反対のものだった。



         ♢♢♢♢♢



 少女は、気がついたらここにいた。記憶が全くない訳ではない。今いる場所に来るまでのことはさっぱり覚えていないが、ここ数年の記憶ははっきりしている。だから、元からここで産まれたのか、それとも別の場所から連れてこられたのか想像することしかできない。


 少女は今いる場所がどのような場所か知らない。ただ、自分の生活圏となっている場所よりも外にはもっと広いものがあるということだけは確信していた。それがなぜなのか今はまだ分からない。 


 自分が持つ記憶を最初の方まで遡ると、いつも食事を届けに来る人にここはどこか聞こうとしていた。だが帰ってきたのは、まるでその言葉を聞いていないかのように食事を置き、部屋を去っていく冷淡な態度だった。


 たまにいつもと違う反応が返ってくるが、


「知る必要はない」


 という拒絶の言葉や、腹のあたりへの暴力であった。暴力は当たりどころが悪ければ、胃の中身がせり上がってくるような感覚があるし、攻撃が当たった直後は蹲るほど苦しかった。だがそんな痛みも数時間すればなくなる。


 食事のたびに「ここは、どこ」と拙い言葉で話しかけたが、次第に声を出すまでに時間がかかるようになり、ついに質問することができなくなった。


 それどころか、自分がいる場所を知るために頭を動かすと、心臓の鼓動がいつもより大きく速くなってしまう。その時は決まって、はやく元に戻れと思った。


 少女はその時、なぜ体が変化するのか、分からなかった。なぜ自分がその状態が早く落ち着けばいいのにと思ったのか、分からなかった。なぜこのような状態になることをする時にいつもより行動が遅くなるのか、分からなかった。


 理由は簡単だ。この状態を指し示す言葉を知らなかったからだ。


 言葉を知っている人が、少女からこれは何だと聞かれたら、ほとんどの人が「恐怖」だと教えるだろう。だがここにはそれを教える人は居なかった。


 少女が自分から何かをしようとすると必ず心臓の鼓動が大きく速くなり、直ぐにでもこの状態から元の鼓動が気にならないくらいだった時に戻りたいと思うようになった。


 しばらくして少女は自ら動くことをやめ、与えられるものを受け取るだけになっていた。そうして日々はより単調に、ただ同じ動作の繰り返しになっていった。


 そんな生活が続いてどのくらいの月日が過ぎ去っていったのだろうか。時間なんてものは少女には分からない。教えてももらえない。


 ただ、腰の真ん中あたりまでだった白い髪は膝裏ほどの長さになり、与えられていた服から見える手や足の長さが伸びた。だからそれなりに時間は経過していたのだろう。


 その頃には、ただ与えられるものを受け取る生活は当たり前となっていた。食事を与えられればそれを摂取し、やることが与えられればそれをこなし、痛みを与えられれば耐え、休息を与えられれば次の行動に備えて体を休めた。


 何も与えられない時は部屋の隅で膝を抱え、ただそこに在った。


 少女は何も変わらない。いつも同じように在る。変わっていったのは周囲の与える側の人だった。ある日与えられたやることをこなすと、与える側の人は


「成功だ。あとは量産さえできれば実戦に投入できる」


と少女たちには見せない顔で呟いた。


 ある日痛みに耐えれば、


「だいたい限度は見えた。これを我々が手に入れることができれば……!」


 と誰に伝える訳でもなく叫んだ。


 ある日与えられた食事を食べ、普段よりも動きにくくなった体に鞭を打って与えられたやることをこなせば、


「これは有効だ。他のものにも効くか試すぞ」


 とあわただしげに実験結果をまとめた紙を掴んで部屋を出ていった。 


 これが少女の日常。これが少女の普通。この先、万に一つも自らの行動パターンが変わることはないと思っていた。


—もしも、与えられた痛みを受け取らないことが出来れば。


 そんな思いが頭の片隅に浮かぶ。これは今までのパターンからあり得ないということが分かっている。思うだけ無駄だ。


 どうせまただめだったと少し軽くなった心が、その三倍も四倍も重くなる。何も意識しなくともずっと繰り返している呼吸のリズムが狂って、喉のあたりを手で掴みたくなる。


 どうせ後で元より心が重くなるならば、いっそ軽くなんてならなくていい。ほんの少し間だけなのだ。


 だから少女は今日も、そんな心が軽くなる思いを握りつぶし、諦めで覆って隅に投げ捨てるのだ。

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