ガス欠

あべせい

ガス欠



 とある山深い里。

 県道沿いの小さなガソリンスタンドに、疲れきったようすの中年男性がふらりと現れる。ジーンズのズボンにブレザー、頭にはハンチングを被っている。

 スタンドの事務所を覗くが、だれもいない。

「ごめんください」

 応答がない。

「ごめんください。ゴメン、クダサァイッ!」

 2度目はあらんかぎりの大声を出した。

 すると、事務所の奥のドアが開いて、身長190センチはありそうな大男がのそりと顔を出し、大儀そうに事務所の外までやってきた。

「なんだ?」

 ハンチングの男は、大男を見て、ちょっと怯むが、そんなことに構ってはいられない、といった風に気を取り直し、

「ガソリンがなくなって……」

「ガス欠か。きょうはこれで2度目だ」

「エッ」

 ハンチングには大男の言葉の意味がわからない。それより、早く何とかして欲しい。

「どこだ、車は?」

「ここから1時間ほど登ったあたりです」

「やっぱりな。待っていろ」

 大男は軽四輪トラックを運転してくると、横に乗れという。ハンチングは大人しく従った。

 軽四は、上り坂の県道を走る。

 車が古いせいか、かなりアクセルを踏んでいるが、エンジン音が大きいだけで、スピードは出ていない。

 右側は山肌、左は谷だ。紅葉の季節で、赤や黄色に染まった木々が、次々に現れては後ろに遠ざかる。

 ハンチングの男、塩未能戸(しおみのうと)は、ハンドルを握る大男の横顔を見て、どこかで会ったような気がしてきた。

 ここは、南アルプスの麓の小さな集落だ。

 人口800人余り。農業と林業に、川魚の養殖が主な産業になっている。

 道路は次第に幅が狭まり、勾配はきつくなる。舗装はされているが、何年も補修されていないのだろう、あちこち窪みができ、昨晩の雨が水たまりになっている。

 すでに10分近く走っている。

「もうすぐだと思うのですが……」

 助手席の塩未が遠慮がちに言った。しかし、大男は無言だ。

 さらに5分。

 と、突然、

「止めてくださいッ」

 塩未が叫ぶように言った。

 車は急停止する。

「どうした。何もないだろうが……」

 先には、坂道しかない。

「あの、あの木……」

 塩未が助手席から、右側の山肌から突き出ている真っ赤に色付いた、一握りほどの太さの楓の木を指差している。

「あれが、どうした?」

「あの木を目印にしたンです。車から離れるときに……」

「しかし、何もないじゃないか」

「オカシイ」

 塩未は乱暴につぶやいて車から降りると、楓の木が枝を垂らしている下あたりに行った。

 大男も続く。こんなバカなことがあるものか。この男に騙されたのだろうか。

「見てください。ここ……エー、お名前は?」

 塩未は尋ねた。

「北原だ。北原岳夫……」

「ぼくは塩未といいます。北原さん。ここ、ここを見てください」

 北原は面倒そうに塩未のそばに近付き、彼が指差す路面を見た。

「何もないだろうが……」

「いいえ、これ、お米です。米粒です」

「うむ?」

「ここに来る途中の直売所で買ったお米です」

「えェー?……」

 北原は道路に顔を近付け、道路に転々と落ちている米粒を見た。

「玄米だな。これがどうした」

「どうした、って? 彼女が目印に落としたンですよ」

 塩未の顔は真剣味が増している。

「彼女? なンだ、それ」

「ぼくの恋人です……」

 塩未はそう言ったが、本当は彼の不倫相手だ。

「いないじゃないか」

「だから、だから、誘拐されたンです」

「誘拐!?」

「そうです。だから、車の窓から、玄米を落としていった……」

「それは、あんたの妄想だ」

「妄想なンかじゃ、ありません。現にこうして、玄米が坂道を下るように続いている」

 道路のちょうど真ん中あたりを、塩未たちがやってきた方向に、ほぼ直線に玄米のすじが下っている。登ってくるときは、気がつかなかったようだ。

「どんな車だ?」

「国産のクーペです」

「クーペだ? いまどき、クーペなンか乗るやつはいない」

「20年以上前の製造です。中古で買って、調子がいいから乗り続けています」

「調子がいい? 新車を買う金がないと言え」

 ナニィ! 塩未は、相手が自分と同じくらいの背格好なら、蹴飛ばしているところだ。しかし、いまは、由布子を探すほうが大事だ。

「お願いです」

「どうしろと言うンだ」

「この玄米のすじを辿って、車を走らせてください」

「おい、おれはガス欠だと聞いたから、ここまで来たンだ。ひと探しなら、自分でやれ。といっても、本当に誘拐だったらな……」

 北原は考える。この男の言うことはどこまで信用できるのか。

 朝も、ガス欠だと言って来たやつがいた。それは、女だった。20代後半の若い女だった。手ぶらだったから、店に常備している携行缶にガソリン4リットルを入れ、代金はガソリン代に携行缶代をプラスした。

 歩いて車に戻るというから、軽四に乗せておれが運転した。ただ、この塩未という男が指示した楓の木までは行かなかった。もう少し手前だった。女は「ここでいいです。もうすぐ連れが来ますから」と言い、だれもいない路上で降りた。

 てっきり車があるのだと思っていたおれは肩すかしを食った格好で、女の言う通りにした。仕方ないだろう。女をなんとかしようなんて気はなかったが、なんだかはぐらかされたようで気分はよくなかった。女の連れが車で来るンだったら、なんで携行缶にガソリンを入れさせたのか。おれは頭を傾げながら給油所に戻った。いまから、2時間ほど前のことだ。この男と、あの女には何か繋がりがあるのだろうか。

「お願いですから、早く、この玄米を辿ってください。彼女にもしものことがあったら、あなた、責任がとれるンですか!」

 塩未は、もう崖っぷちに立たされている。

「あいつに逃げられたら……」

 と、つい口が滑った。

「逃げられたら? どういうことだ」

 聞き捨てにならない言葉だ。北原は、空を仰いだ塩未の暗い眼を見た。

「いえ、女房と朝出かけにケンカしたものですから……」

 塩未は内心、シマッタ!と思ったが、ここは肝心なところだ。

「ガス欠に腹を立てて、ぼくを置き去りにしたかも知れない、ってことです」

「そういう女なのか、あんたの女房は……」

 聞かれて塩未は、家の中で横たわっている女房のことを改めて考えた。亜佐実は、ケンカになると無鉄砲なことをするが、夫を山中に置き去りにするような女じゃない。そうは思うが、由布子の立場だったらわからない。

「お願いですから、この玄米をたどってください。お礼はさせていただきますから」

 北原の眼が、「お礼」ということばに反応して、ピクリと動いた。

「ヨシッ、乗れ!」

 北原は軽四に戻り、塩未は再び助手席に乗った。

 北原は、道路の真ん中あたりを一直線に下る玄米を辿りながら、静かに車を走らせる。

「塩未さん。あんた、本当にガス欠だったのか?」

「勿論です。燃料計は『E』の下までいっていました。それでも車を走らせていたら、突然エンジンが止まって。でも……」

 塩未は自信がなくなった。

「一度エンストしても、燃料タンクにガソリンはいくらか残っているものだ」

「じゃ、彼女がエンジンをかけて走らせた……」

 由布子は免許を持っていない。しかし、持っていなくても、ノークラだからまっすぐ車を走らせるくらいはできるかも知れない。

「この坂だからな。エンジンがなくても、車は走るだろう」

 北原は、塩未がシフトレバーをニュートラルにして給油所まで坂道を下って来なかったことを、不思議に思った。傾斜角が10度以上あるから、この勾配なら、充分可能だ。

「気がつかなくて。ぼくはふだんあまり車を運転しないものだから……」

 本当だろうか。北原は、助手席の男を信用してはいけない気がしてきた。

「アッ!」

 2人が同時に声を発した。

「北原さん、左です」

「わかっている」

 玄米のすじが、左にカーブしている。県道から反れて左に入る道が現れた。

 道幅2メートル弱、舗装はしていない山道のようだが、車が走った跡の轍はある。しかし、車の通行は少ないのだろう。轍ははっきりしたものではなく、轍でないところは、雑草で覆われている。

「この道はどこに続くンですか?」

 塩未は不安そうに前を見ながら尋ねる。

「知らン。走ったことがない」

 塩未は、北原の言ったことばが信じられない。給油所からわずか10数分の距離だ。観光客ならいざ知らず、毎日走っているだろう。脇道を知らないってことがあるだろうか。

「とにかく、行ってください。玄米が落ちているンですから……」

 と言いかけて、

「ないじゃないか」

 北原は怒ったように言い、車を止めて降りた。

 脇道に入って数メートルのところで玄米のすじは途切れている。塩未は北原に続いて車から降り、地面に顔を近付けて玄米が途切れているあたりを見た。

「おかしい。玄米がなくなったのか……」

「どれくらいあったンだ?」

 北原も塩未のそばにしゃがんで、地面を覗いている。

「2キロ詰めです」

「2キロなら、使いきったのかもな」

 そうかも知れない。塩未は考える。昼食をとるために寄った道の駅で、併設されている直売所のなかを見て歩いているとき、由布子が言った。

「お米があると、わたしって安心できるのね。家が農家だったから。この先、どうなるかわからないじゃない。これ、買っていかない?」

 指差したのが、この土地で穫れた玄米だった。おれが「白米のほうがうまい」と言ったら、

「玄米で買って、食べる前に精米したほうが、ずっとおいしいのよ。百姓の娘の言うことは聞きなさい」

 だから、玄米にしたが、同じ買うのなら、5キロか10キロだろう。それなのに、

「味見なンだから、2キロで充分よ」

 と言う由布子に負けた。

 しかし、由布子が最初から、道に少しづつこぼしていって、道しるべにするつもりで買ったのなら、こういう事態が予想できたということなる。塩未は、わからなくなった。それに、

「もう少し、間隔を空けて落としていけば、まだまだ使えただろう」

 北原の言い分はもっともだ。由布子という女がわからなくなった。

 塩未と由布子は同じ進学塾の講師。社員ではなく、非正規雇用だから、いつでも解雇させられる。

 深い関係になって3ヵ月。塩未は38才。22才の由布子は、大学を中退して、進学塾に来た。若い由布子の体に溺れたのだが、最初から由布子には若い男のかげがちらついていた。「サトル」という名前で、頻繁に携帯に電話がかかる。従姉弟だと言ったが、信用できるわけがない。

「北原さん、とにかく、もう少し、奥に行きましょう。先に行けば、何かわかるかも知れない」

「この先でUターンできなかったらどうする」

 北原は車を心配している。塩未は、軽四くらい、いくらでも買ってやる、と思った。あの車には、亜佐実が郵便局から横領した1億3千万円の現金が隠してある。由布子も知らないところに。由布子と2人で再出発するには、充分な金額だろう。

 亜佐実にはかわいそうなことをした。昨日遅く、郵便局に横領の事実がバレたため、今朝早く、自宅でクスリを飲んで自殺した。睡眠薬はおれが内科クリニックに不眠症を訴え、1年がかりで溜めこんだものだ。だから、亜佐実の自殺は、正しくは自殺ではない。自殺未遂を企んだ、というのが正しい表現だ。

 自殺をすれば、世間の風当たりはやがて治まる。横領した金は、逃亡中の夫がギャンブルや女に使ったと言えばいい、と教えた。

 しかし、亜佐実が飲んだ睡眠薬は、助かる分量ではないはずだ。おまえが出所すれば、そのときおれは必ず戻ってくる。亜佐実は、おれが、横領した金で安楽に暮らそうといったのを真に受けて、1錠で効くところを、20錠飲んだ。明らかにおれの殺人だ。妻殺し。おれはロクな死に方をしないだろう。若い由布子と暮らしたいためだけに、だ。

「北原さん。こうしましょう。あと50メートルだけ進む。それでも、クーペが見つからなければ、軽四はバックで戻る。そのときは、わたしが車の後ろに立って、車を確実に誘導します」

 北原はしぶしぶ、頷いた。再び、軽四はゆっくり進む。道はぬかるみ、濡れた落ち葉でときどきタイヤは空転する。

 両側は林だ。杉、松、ヒノキ、クヌギなど、雑多な木々で鬱蒼としている。道はわずかだが、下り勾配になっている。しかし、道が右に左に曲がっているため、前方は10メートルほど先しか見えない。

 30メートルほど進んだろうか、突然、色褪せしたグリーンの車体後部が見えた! 塩未のクーペだ。運転席のドアが大きく開け放たれている。

 北原はアクセルを踏み込む。軽四をクーペの後部バンパーにぴったり付けた。塩未は、止まりきらないうちに車から降り、前のめりに転びそうになりながらクーペまで走った。

 クーペの車内を見る。

 いない。ないッ! 由布子がいない。

 後部の座席シートが外され、背もたれに寄り掛かっている。そこに隠して置いた札束がそっくりなくなっている。由布子は、座席の下に金があることを知っていたのだ。

 塩未は由布子に、女房が郵便局の金を横領したことは教えた。3千万とウソをつき、その金はコインロッカーに預けてあると言ったが、運転しているとき、座席シートに目をやったのがいけなかったようだ。

 まァ、いい。仕方ない。あいつの取り分だと思えばいい。しかし、このままにしておくわけにはいかない。あいつが捕まれば、おれもやばいのだから。

 塩未は再び走った。まだ、そんなに遠くには行ってはいないはずだ。塩未はぬかるンだ道に足をとられながらも、懸命に走った。

「オーイ、この先は川だ。急流だ。気をつけろッ!」

 北原が後ろから追ってくる。北原はこの脇道を知っていたのだ。なのに、知らないと言った。なぜだ。

 塩未は考える。やつは、どこかで由布子とつながっているのかも知れない。由布子がこの村に行こうと言った。信州は彼女の故郷だ。この村がそうだとは言わなかったが、そうなのかも知れない。そうだと考えると、わかりいい。

 北原は、この脇道におれを入れたくなかった。結局は金だ。金が人間を狂わせる。

 いたッ! 塩未の眼が光った。由布子が落ち葉だらけの地面から起き上がろうとしている。傍らにあるトートバッグの持ち手を掴んだままのため、起きあがれないのだ。

 靴とズボンはドロだらけだ。バッグの縁から、札束が覗いている。3千万だ。あの女は、あの金を独り占めするつもりなのだ。あのバッグには、もともと2人の着替えが入ったいた。

 由布子の背後は、数メートルの斜面を下って急流に続く。

 由布子は観念したように地面にしゃがみこんでいる。塩未は、彼女のそばに立った。

「由布子! おれはおまえと暮らしたくて、こんどの計画を立てたンだ。今頃、警察は女房の遺体を発見して、おれを捜しまわっている。おれが失いたくないのは、おまえだけだ」

 由布子は、顔をあげ、暗い眼で塩未を見つめる。

「わたしは……」

 と言いかけた途端、由布子の目が輝いた。

 塩未の背後だ。同時に、周囲にバイク音が響きわたる。

「サトル!」

 塩未が振り返ると、5、6メートル後ろに突っ立っている北原の脇をすり抜けて、一台のオフロードバイクが塩未に突進してきた。

「あァーッ!」

 塩未はバイクを避けようとして転倒した。

 サトルは由布子のそばにバイクを停止させ、叫ぶ。

「由布子ッ! ゴムボートは手に入らなかった。急流下りは変更だ。危険だが、パイクで逃げ切ろう!」

「わかった!」

 由布子はそう言うと、バッグを抱えてバイクの後部座席にまたがった。そのとき、バッグがグニャリと歪み、その拍子に、いくつかの札束がバッグの縁から転がり落ちた。

「アッ!」

 由布子はバイクから降りようとする。

「由布子。ほっとけ! こいつらにやるンだ」

 サトルはアクセルを目いっぱいにふかす。ハンドルを大きく切って向きを変えると、しがみつく由布子を乗せたまま、猛スピードで県道方向に疾駆していった。

 塩未はドロにまみれた8つの札束を拾いあげた。北原が近付き話しかける。

「あんた、いったい何をしたンだ?」

「後生ですから、見逃してください」

 塩未はそう言って、札束を3つ北原に差し出す。北原は一瞬だけためらったが、結局受け取った。

 2人は無言で、軽四に戻った。塩未は、軽四の前にあるクーペの開いたままのドアを閉めた。

 北原は軽四の荷台から20リットルの携行缶を持ってきて、クーペにガソリンを注いだ。そのとき、

「それ……」

 北原はクーペの後部座席に、4リットルの携行缶を見つけた。由布子が給油所で北原からガソリンと一緒に買った携行缶だ。しかし、中身はない。空っぽだ。

 塩未は推理する。

 由布子とサトルはあらかじめ示し合わせ、クーペがガス欠になるのを待っていた。いつも懐具合がさみしいおれは、車の燃料は燃料計の半分以上入れたことがない。由布子はそれをよく知っている。だから、東京から信州に向かったとき、信州までは走れても、信州のどこかで燃料切れを起こすと読んだ。

 おれは、燃料計の針が「E」に近付くと、給油所に寄ろうと言い出した。しかし、由布子は、

「針が『E』を指しても、まだ最低10リットルはあるわ。安心して運転しなさい。それよりか、少しでも早く、東京から離れようよ。日本の警察はバカじゃないわ」

 と言った。

 ガス欠を起こす前に立ち寄った道の駅で、由布子は10分ほど、「トイレ」と言い、おれの前から姿を消したことがあった。あのとき、サトルのバイクにまたがり、給油所に行って携行缶にガソリンを入れさせたのだろう。そしてその携行缶は、サトルがバイクの荷台にでも乗せて、おれのクーペを尾行していたのだ。ガス欠になるまで。そして狙い通り、クーペがガス欠を起こし、おれが何も知らずに給油所まで行っている間に、由布子はサトルから携行缶を受け取り、ガソリンをクーペに入れて脇道に入った。

 サトルは何かの用事で、由布子と一緒に行くことが出来なかった。だから、最初の打ち合わせ通り、玄米を道しるべに落としていった。

 用事をすませたサトルは、クーペがガス欠を起こしたところに戻り、玄米を辿って由布子の後を追って来た。ざっとこんなところだろう。しかし、由布子と一緒にいられないサトルの用事とは何だろう……。

 塩未は、北原の軽四と前後に並んで車をゆっくりパックさせ、県道に出た。

 あとは逃げるだけだ。信州なンかにかまっていられない。塩未は、警察に捕まることを想定して、捕まる前にやっておきたいことがあった。

 

 東京地裁302号法定。

 「ゆうちょ銀行横領事件」の審理が行われている。

 塩未能戸が塩未亜佐実の証人として証言台に立っている。被告ではない。証人だ。

 亜佐実は幸い発見が早く、九死に一生を得た。1億3千万円を横領してその罪悪感から睡眠薬自殺を図ったが、未遂に終わった。塩未が亜佐実に説明した形になったわけだ。

 由布子はサトルとどこかでのうのうと暮らしている。塩未は亜佐実が逮捕されたと知って、警察に出頭した。妻の横領した1億3千万円を使ったどうしようもない夫として。

 拘置所に行き、亜佐実に面会したときは、一緒に逃げた愛人に捨てられたという情けない結末を告白すると、亜佐実は、

「そういう女だったのよ。わかってよかったじゃない」

 と夫を慰めた。

 亜佐実はそういう優しいところがある。能戸は、手の平に書いてきた文字を、2人を仕切っているアクリル板に押しつけた。

 亜佐実は声を出さずにそれを読んだ。

「すべて使ったのダ。2人の分は隠してある」

 1億3千万のうち、2千2百万円は、由布子とサトルが持って逃げた。3百万円は給油所の北原に口止め料として恵んだ。残りの1億円と、由布子がバックから落とした500万円は、信州上田の、或るところに隠してある。上田は亜佐実の生まれ故郷だ。

「証人は本当に1億3千万円も、使ってしまったというのですか」

 検察官の声が、塩未の思考を打ち破った。

「申し訳ありません。わたしだけではありません。由布子という職場の同僚も、ギャンブルが大好きで、一緒に競馬、競艇に使いました。もちろん、一部は、2人の食事代やホテル代にもなりましたが……」

 塩未は北原と別れたあと、南アルプスの麓から信州上田に車を走らせた。上田ではホームセンターで、防水シート、ストッカー、ポリ袋、懐中電灯を購入して、日が暮れるのを待った。

 上田の前山には、いまは朽ち果てた亜佐実の生家が残っている。

 ボロボロの屋根と壁があるだけの廃屋で、だれも住んでいない。寄りつく者もない。亜佐実の兄夫婦が駅に近い上田原にいて、前山の墓を守っていると聞いているが、自然石を置いただけの墓だ。墓参りをしているとは思えない。

 塩未は、亜佐実の生家の前にクーペをとめた。懐中電灯の明かりを頼りに、左右のドアの内張りを剥がした。

 中から、百個の札束が転がり出た。由布子はドアの開け閉めするとき、「やけに重いわ」と言った。気がついたのだろうか。いや、シートの下の札束にしか手をつけなかったということは、ドアの中までは気がつかなかったのだ。あいつは、その程度の女だ。

 塩未は、石油のポリタンク2個が入るストッカー3個に、札束を10個づつポリ袋にしっかり包んで入れていった。そのストッカーを廃屋の居間とおぼしき床下に、深さ1メートルの穴を掘り、防水シートを敷いてから埋め、さらに上からも防水シートを被せた。この作業に夜明けまでかかった。ぬかりはない。

「わずか1年ですよ。証人が愛人と深い関係になったのは、いつですか?」

「2年前です。誘惑されたのです。若い男がいるのに、遊ぶ金欲しさに、私に近付いて来た。私はそれに気がつかずに、最初は借金して金を作りました。しかし、あるとき、亜佐実のちょきん通帳をみると、百万単位の金がありました。で、つい手を付けました。それから、わけもわからず、金を引き出して……」

 ウソだ。おれは亜佐実に言った。もっともっと金を作れ、百万も1千万も、盗みには変わりない、と。1億円たまったら、2人で逃げて、人生をやり直そう。おれは、最初クーペのトランクに金を入れていた。亜佐実もそれを見て、安心していた。しかし、一時の気の迷いで、由布子を選んでしまった。不覚だった。

「そうして横領した1億3千万円を1年ですっかり使い果たしたというのですか。証人は宣誓しているのですよ。真実を述べると……」

「ウソはついていません」

 そのとき、証言台の背後から、声が飛んだ。

「ウソだ。おれは、そいつから3百万円、もらったゾ。それが、この金ダ!」

 塩未が驚いて振り返る。

 傍聴席の中央で北原が立ちあがり、札束を突き出している。北原だけではない。塩未は見つけた。

 傍聴席の出入り口に近い隅に、ニット帽で顔を隠した由布子の姿を。

 由布子は塩未と目が合うと、何かを訴えるように口を大きく開き、何度も動かしている。それは……、

「わたしが言わせているの。残りの1億円、山分けにするのなら許してあげる」

 塩未には、由布子の口の動きがそのように読みとれた。

                 (了)

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ガス欠 あべせい @abesei

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