第28話 焦る?
「え、暮羽ちゃんケガしたの!?」
キッチンに立つ佳織は、夕飯作りの手を止めて、リビングのソファにスーツを放り投げた紘平の方を見た。
「ああ、つっても、突き指な」
頷いた紘平が、そのままネクタイを解いて襟元を緩める。
用無しになったネクタイもソファに投げた。
腕時計も外してしまいたいが、それより先にするべきことがある。
紘平は爪先をキッチンへ向けた。
先に帰っていた佳織は、いつものように週末買い込んだ食材をシンクに並べて、お手軽晩御飯の準備中だ。
ただいま、からいただきます、まで30分。というのが今の佳織の目標らしい。
手の込んだ煮込み料理は週末の課題にして、とにかく、早くて簡単で、美味しい料理をモットーに包丁を握る。
料理に拘りの無い紘平は、佳織の作る料理に文句をつけた事は一度も無い。
家事は最低限しかこなしてこなかった独身男性らしく、妻の家事仕事には一切口を挟まない、お任せ主義だ。
「晩飯なに?」
キッチンを覗いて問いかけると、佳織が冷蔵庫を指差した。
1週間の献立をある程度決めておく彼女らしく、本日のレシピが張り付けてある。
「お手軽豚カルビ丼と、ナムルと、具だくさんスープと、卵あんかけ」
「そーよー。ほら、いい匂いしてきたでしょ」
下拵えとして、カルビ用のタレに豚肉を付け込んでおいたのだ。
いい匂いのするフライパンを覗き込んで紘平が笑みを浮かべた。
「美味そうな匂い」
「食欲そそるでしょー」
「そうだな」
頷いた紘平が佳織を抱き寄せた。
「・・食欲だけじゃない」
小さく笑って佳織の首筋に唇を寄せる。
以前、紘平が料理中にちょっかいを出して、鍋を焦がして以降、キッチンでじゃれるの禁止条例が施行されている。
が、隙あらば悪戯をしかけるのが紘平だ。
佳織が本気で怒るギリギリのラインを見極めて、飽きもせずちょっかいを出す。
身を捩った佳織が、フライ返しを握った右手の肘で紘平の腕を押さえた。
「も、こら・・・邪魔しないっ」
眉根を寄せて剣呑な表情で言い返す。
紘平は肩を竦めて佳織から離れた。
「ほんっとに、あんたって・・・っん」
と、ほっと息を吐いた佳織の唇をすかさず奪う。
怒った佳織を宥める様な、優しいキス。
離れた唇で笑みを象って、直純が言った。
「もうしないって」
「それ、毎回言ってるでしょ!ったく」
フライパンをかき混ぜながら佳織が溜息を吐いた。
「そーだっけ?」
「そーよ。それで、なんでまた突き指?」
「ああ、なんか金庫のドアが閉まってきたらしい」
「え!それ、滅茶苦茶危ないじゃない」
「まーな、たまにあるよな」
「骨折した人もいたでしょ?」
「確かに。それにしたって、アイツの慌てようったら無かったらしいぞ」
思い出し笑いをしながら紘平が言った。
電話を切るなり駆け出したという直純。
慌てた部下の慧が、問いかけた所、医務室!とだけ言ってそのまま猛ダッシュ。
後に残った慧は、ポカンとしながらも、直純が置いて行った書類を仕分けして、スケジュールの確認を行ったらしい。
「へー・・・まあ、あの可愛い暮羽ちゃんが怪我なんて言ったら、慌てるわよね」
残り野菜が全て投入された大鍋をかき混ぜて、味見をしながら佳織がしみじみ頷いた。
目に入れても痛く無い位可愛がっている細君だ。
慌てるのも無理はない。
「国際部の営業メンバーは仰天。女子社員はさすが相良さん、とか言って盛り上がってたらしい」
「あー分かるわー」
只でさえ社内の人気を集める国際部のエースなのだ。
いつも冷静で穏和な切れ者と噂される直純が、妻のピンチに脇目も振らず駆け出すその姿に、女子社員がよろめいても無理はない。
「なんだよ、その言い方」
「だって、相良よー?絶対取り乱したりしなさそうな男が、自分の為に必死になるってのがいいじゃない。女の子の憧れよー」
懇切丁寧に説明した佳織を見返して、カウンターテーブルに陣取った紘平が、冷たい目線を返した。
「お前がそれを言うなよ」
「えーなんでよ、いいじゃない。私だってそれなりに憧れるわよ?」
けろりと言い返して、佳織が鍋の火を止める。
時計を見ると、帰宅から40分が経っていた。
紘平に邪魔された分を差し引いても、5分ちょっとオーバーしている。
やっぱり、野菜類はカットして冷凍保存か?
更なる時間短縮の技を考えていると、紘平が思い切り不機嫌な声で告げた。
「お前は憧れるなつってんだよ。なんでよりによって直純に・・」
嫉妬全開の紘平を見つめ返して、佳織は鷹揚に笑って見せる。
「紘平、あんたねぇ、自分の男友達に妬いてどーすんのよ」
「男友達とか、同期とか関係あるか!」
やけにきっぱりと言い返して、紘平が胸を張る。
そこは自慢するべきところではない。
「何言ってんのよ・・・いーでしょ別に。私はもう結婚してるわけだし。相良だって結婚してるし、何があるわけでもないし。同期の男友達がかっこいいんだよ、って別にどこにでもある話じゃない。しかも、愛妻家で素敵って話してんのに、どこにヤキモチ妬くとこがあるわけ?」
全く以て理解できない!
呆れた表情で言い返して、佳織は炊飯ジャーから炊き立てのご飯を大きめの丼によそう。
丼もの日は、ご飯は帰宅時に合わせて焚くようにしている。
炊き立ての方が美味しさが2割増しだと自負しているからだ。
白米の上に、豚カルビをたっぷり載せて、紅ショウガとねぎを載せる。
我ながらいい出来だ。
けれど、佳織の満足げな表情とは反対に、紘平は眉間に皺を寄せている。
物凄く言いたい事があるらしい。
「俺だってなぁ、お前に何かあったら焦るっつの。そんなもん、直純だけなわけあるか!俺がいつでも余裕だと思ってんなよ」
頬杖を突いて、こちらを見つめ返す紘平。
強い眼差しを受けて、佳織が慌てたように視線を揺らした。
紘平の愛情は、いつも心地よい温度で佳織を優しく包み込む。
けれど、時折、佳織が受け止めきれない位に強く激しくなる。
そして、そういう時の紘平は一向に容赦がない。
余裕がない、と威張られても困るんですけど・・・
ちらりと浮かんだ意地悪な発言はのみ込む事にする。
くすぐったい位に、紘平の気持ちが嬉しかったから。
けれど、同時に物凄く恥ずかしかったので、早々に戦線離脱する事にする。
「分かってるわよ」
おざなりに返事をして、視線を逸らす。
「佳織」
予想通り紘平の声が追ってきた。
佳織は慌てたように口を開く。
「そんな事、付き合う前から知ってます。今更言う事ないでしょうに」
出来上がったばかりの丼をカウンターに載せると、紘平が嬉しそうに微笑んだ。
「分かってんなら、他の男を誉めるな」
「はいはい・・・ご飯の前に、スーツとネクタイ、片づけてきてよ」
照れ隠しに素っ気なく言い放つ。
紘平が席を立ちながら小さく言った。
「何だかんだ言って、お前は分かりやすいよなぁ」
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