第20話 彼女と家族
佳織の朝は早い。
紘平が起きる30分前には目覚めている。
独身の頃は朝、仕事に出掛ける前に絶対する事は朝刊のチェックだった。
これは昔の恋人で上司でもあった日高から習ったことだ。
流し見でもよいからまず新聞の一面はざっと目を通しておくこと。
テレビ欄のみ見ていた新入社員の佳織にとっては苦痛極まりなかったけれど。
おかげで他部署の上役との飲み会があるたびに”今どきの使えない大卒”扱いされずに済んだ。
そのうち、云われた事の意味と必要性が痛いほどわかった。
つまりは佳織自身の為だった。
無駄な事は絶対にさせないし、自分もしない。
そういう人間だと分かる前から、日高はいつも佳織を含めた部下全員に真摯で誠実だった。
そんな彼に憧れて今の佳織がある。
全て偏に日高のおかげだ。
悔しいけれど。
泣いた時間は消せないけれど、それでも出会えて良かったと思える。
そんなわけで今も佳織は寝坊しても必ず朝刊は読む。
酷いときは通勤中の電車でチェックすることもあった。
そう、つまり過去形だ。
今の佳織は朝刊チェックは勿論の事、もう一つ必ずしなくてはならない事がある。
夫婦で。
★★★★★★
「朝食はちゃんと一緒に食べよう」
そう提案したのは佳織だ。
営業職の紘平は残業は当たり前。
イレギュラーな飲み会や打ち合わせもままある。
2人がゆっくり食事を楽しめるのはせいぜい週末位のものだ。
せっかく結婚したのにそれでは意味がない。
夕飯が別になるなら、朝はちゃんと揃って食事をしよう。
この尤もらしい意見には裏がある。
佳織の母親は、実に多忙な人で、職業柄夜勤も多く、佳織とゆっくり食事を一緒にしたことは殆どなかった。
そんな話を結婚前に佳織の母親から聞かされた紘平は、この提案にいちもにもなく頷いた。
どんなに帰りが遅くなった翌日も、絶対に佳織と朝食を食べる。
それがコーヒー一杯でも構わない。
家族になった事で、佳織との間に2人だけの新しいルールが出来ることが純粋に嬉しかった。
こうして考えてみるとつくづく、佳織に惚れていると思う。
たまに紘平は思う。
俺はこんなに甘かっただろうか?
佳織が俺を変えたんだろうか?
問うてみても佳織の事だ。
いつものように曖昧に笑って誤魔化すか、黙り込むに違いない。
幸せこの上ない新婚生活。
紘平の唯一の不満は一向に佳織が甘えてくれない事だったりする。
いつもは目覚めても、佳織が起こしに来てくれるまで寝た振りをしている。
アラームが鳴って、すぐに起きれると佳織に知られたら、まず間違いなく次の日から
「朝よ~起きて~」の”樋口家定例行事”は省略される。
だから、結婚してから紘平はアラームが鳴っても自分から起きた事は一度もない。
最初の頃は佳織に
「こんな目覚め悪かったぁ?」
と呆れられたが
「昔から低血圧だって」
と言い切ってある。
結婚したんだから、これ位甘えても許されるだろう。
ところが、今日に限って佳織がいつまでたっても起こしに来ない。
アラームから10分経ったところで、紘平は痺れを切らした。
意を決してベッドから出る。
休日はともかく、平日は結婚してから寝坊したことがない佳織だ。
廊下に出るとコーヒーの香りがした。
すでに朝食の用意は出来ているらしい。
「佳織~?」
呼びかけてリビングのドアを開けると、一心に朝刊を読む佳織の姿があった。
紘平の声と足音に気づいて顔を上げる。
「あ、ごめん。もーそんな時間?」
「7時10分」
「げっ!ご飯しなきゃ…」
そう言ってキッチンに向かおうとした佳織が何かに気付いて振り返る。
「起きれたんだ」
「たまたまな」
慌てて紘平が言った。
ここで全てを無に帰す訳にはいかない。
「そんな必死に言わなくても」
「今日は偶然にも気分よく目が覚めたんだよ。奇跡的に」
「あーそう。着替えて来てー朝ご飯しよ」
それ以上詮索するつもりもないらしい佳織が、キッチンに戻っていく。
「おー」
紘平はおざなりに返事を返しつつホッと胸をなで下ろした。
☆★☆★
スクランブルエッグにハーブ入りソーセージトマトとアボガドのサラダと焼きたてパン。
食卓についた紘平が、ズラリと並んだ朝食メニューを見渡して、開いたまま置きっぱなしの朝刊に目を留める。
「そんな気になる記事があったのか?」
コーヒーを手に向かいの席についた佳織が、チラッと朝刊に視線を送ってから口を開く。
「別に…」
言ってから、慌てたように紘平の顔を見た。
これは佳織が困った時の癖だ。
突っ込んで欲しくない事だったのに、自分で墓穴を掘ったらしい。
その顔を見た紘平が朝刊を引き寄せた。
佳織がトーストを千切って口に運ぶ。
決して紘平と視線を合わせない。
こういう時は決まって”日高”の話題なのだ。
社会欄の片隅に独立企業の社長のインタビューが掲載されていた。
数年前まで日高の同期で仕入部門を仕切っていた男だ。
佳織が必死になって日高を追いかけていた頃、一番日高のプライベートに近かった人物でもある。
「佳織」
紘平が朝刊を閉じて、俯いていた彼女の名前を呼ぶ。
恐る恐る顔を上げた佳織の唇に触れるだけのキスをする。
「今更」
それだけ言って佳織の頬を優しく撫でた。
まるで叱られた子供のように心細い表情を見せる佳織。
いつもの快活な仕事中の彼女と正反対な顔。
どんなに怖くても不安でも、決しておくびにも出さない。
強がりが専売特許の佳織が紘平の前だけで表情を崩す。
紘平が口にするセリフ一つで彼女は泣いたり笑ったりする。
それはちゃんとわかっているのだけれど。
「たまたま、見つけちゃって」
「気にしないって。お前、俺をどんだけ懐の狭い男だと思ってんだ」
平然とコーヒーを口にする紘平。
佳織がホッと肩の力を抜いた。
「わかってるけど、この家にはそーゆう過去は持ち込みたくないのよ。いちいち思い出す私、見せたくない」
「そんなしょっちゅう思い出すのかよ?」
「だから!そーじゃなくて…紘平が心配するような事は少しもないけど。私が、嫌なの。一番好きな人と生活する場所には、あんたを好きなだけの私でいたいのよ」
思い切り不機嫌に言い放った佳織。
物凄い告白をされた紘平はゆっくり瞬きをして、目を細めて微笑んだ。
「佳織」
「なによ」
「俺な、毎朝本当は目ぇ覚めてた」
「え?」
「でも、佳織が起こしに来るまで起きたくなかった。朝の、ほんの5分も譲れない位、お前の事独占したいんだけどな?」
「っ…」
思わず言葉を無くした佳織。
そんな彼女の輪郭をそっと撫でる。
「俺の愛情は伝わった?」
「…うん」
「なら余計な心配すんなよ。お前はもう彼女じゃなくて家族、俺の妻だろ」
顎に添えられたままの紘平の指を握って佳織が何度も頷いた。
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