第5話 無いものねだり
1年という期間が長かったのか、短かったのかは分からない。
佳織の答えから察するにふたりが過ごした12か月は、酷く曖昧なものだったのだろう。
友達というには長く、恋人というには短い時間だったということだ。
だからあの時の彼女の答えは・・・・・
☆★☆★
馴染みのジャズバーの片隅。
フロアのど真ん中に設置されたグランドピアノの横に張り付いて、珍しくジャズ以外の曲を気持ちよさそうに響かせるのは、馴染みの女の子。
佳織はグラスを傾けながら心地よいアルトに微笑んでカウンターの中のマスターに問いかけた。
「ねえ、なんでスタンドバイミー?」
「お客さんのどうしてもってリクエスト」
「へえ・・・・じゃあ、私のリクエストも多恵に歌わせてよ、マスター」
佳織のセリフにマスターは片眉を上げて、顔に皺を刻んで朗らかに笑った。
穏やかな声で答える。
「佳織のリクエストなら仕方無ないなぁ・・・何がいいんだ?」
「カントリーロード」
飛び出した曲名に紘平とマスターは顔を見合わせる。
佳織はその視線を受けてちらりと笑って、グラスを口に運んだ。
「いーでしょう。聴きたいの」
頷いたマスターが歌い手のもとへリクエストを伝えに向かう。
数分後笑い交じりの曲紹介と共に、柔らかいピアノの音色が流れ始めた。
オレンジのライトを目を細めて眺めた佳織が、口元に穏やかな笑みを浮かべる。
この瞬間の佳織の、何とも言えない穏やかな表情がこのうえも無く好きだった。
彼女の言いたい言葉全部、この笑みの中に潜んでいる気がする。
無性に。抱き寄せたく、なる。
「・・・九州支社に異動が決まった」
「・・・・・・・そう」
ぽつりと呟いた言葉に込められた真意は見えない。
次の言葉が彼女から発せられる前に言を継ぐ。
「一緒に行こう。こっちにおいてったりしない」
けれど。
「・・・今までありがとう。一緒には行けない」
何に対してのありがとう。なのか、どうしても、問い返せなかった。
この1年がその一言で一瞬にして消え去って行ってしまうような気がしたから。
俯いたままの佳織の表情は揺らいでいたのだろうか?
僅かでも。
★★★★★★
切りだされた一言。
これが、プロポーズだったのか。
それともただの、一緒にいよう。だったのか。
訊き返すこともできないまま。
”いけない”の答えを出した佳織に、紘平は驚きもしなかった。
たぶん、こうなることを、心のどこかで予感していたんだろう。
佳織がその手を握れないことを。
打って変わって明るい口調になった彼が、グラスをテーブルに戻して自嘲気味に笑う。
「1年じゃ足りなかったかぁ」
そんなことない。
ここまで来れたのは、間違いなくあんたのおかげ。
揺れなかったわけじゃない。
何度も何度も無意識のうちに夢見た。
この人の隣で歩く未来を。
でも、どうしても踏み出せない気持ちが、ある。
”ごめんね”と言えば、彼を傷つけることは分かっていたから。
”ありがとう”だけを残そうと思った。
彼が、自分とは違う素敵な人と良い恋愛が出来る様に。
このまま立ち止まったりしないように。
取り残されるのはひとりでいい。
もう誰も泣かせたくない。
この手を握るのは、自分自身だ。
首を振って笑ってみせた。
口を開けば泣いてしまうことは分かっていたから。
未練なんて残しちゃいけない。
いつまでも”恋が怖い”自分でいいんだ。
静かなピアノの音と共に曲が終わる。
佳織は握った掌に力を込めた。
「楽しかったよ・・・・辞令はいつ?」
「2週間後には正式辞令が下りる。来月から向こうで仕事かなぁ」
「そっか・・・送別会、やったげる」
同僚に気持ちを切り替えた、佳織の微妙な変化に気づいたのか、紘平が少し躊躇うように佳織の指先に触れた。
いつもの強引な彼らしくない、壊れものに触れるみたいな、細やかなしぐさで。
「・・・俺だって、そんな簡単に気持ちは変われないから。離れたとしても、ずっと佳織を好きなままだ。そんな簡単に諦めきれっかよ・・・」
震えていたのは紘平だったのか、佳織だったのか。
ただ分かっていたことは、意地も、見栄も、プライドも関係なく。
純粋に彼を好きだった、それだけ。
どうしたって口に出来ない、大事な一言。
胸の奥底にしまい込んだ“恋心”は封印されたも同然で、そう簡単に目覚めはしない。
もう、誰も好きにならない。
どんなに懐かしくても、寂しくても。
穏やかで、緩やかな、この毎日を愛しているのだ。
精一杯の日常を。
嵐、大雨、そんなんいらない。
★★★★★
「あ・・・辻さん!」
廊下を歩いてくる相良の可愛い彼女を見つけて、佳織はにこりと微笑む。
「お疲れ様ぁ。暮羽ちゃん」
愛想良し、挨拶良し。
どこに出しても恥ずかしくない娘っこね。しかも、最近めっぽう女度が増して綺麗になったし。
こーりゃ隠したくもなるわよねぇ・・・・
こういう愛情表現のしかたは、なぜか紘平と相良は似ていた。
穏やかなフリをしているけれど、切り込む人間は絶対に許さないところとか・・・
社内に散らばる志堂の血筋を見る限り、愛妻家が多いしなぁ・・・(本店に戻ったばかりの次期社長然り)末端の分家とはいえ、紘平にも血は受け継がれているわけか・・・
だから、あんなにまっすぐだったのだ。
佳織が戸惑う位に。
「こっちにご用ですか?」
「うん。工程管理にちょっとねー」
資料を取り寄せついでに、同期の亜季の顔を見に行こうと思っていた。
「工程管理・・・」
「同期がいるからね」
「あ・・・・」
思い当たる節があったのか暮羽が表情を暗くする。
彼氏の同期への微妙なヤキモチも可愛い。
「亜季なら心配要らないって。相良とはただの同期だよ」
「・・・あ・・えっと・・・」
「あんな甘ったるい顔のヤツ見たこと無いよ?すごくあなたを好きなんだと思う。自信持っていいよ。大丈夫。暮羽ちゃんが気付いてなくても、ちゃんとまわりの人間には相良のベタ惚れ具合は筒抜けだから」
「・・・・・・はい・・・あの・・すいません」
照れて真っ赤になれるその素直さが、羨ましい。
かけらでも自分にそれがあったなら。
あの時、強がらずに”行かないで”と泣けたんだろうか?
★★★★★★
なけなしの勇気を振り絞って、佳織の手を握った。
縮まらないならせめて、これ以上遠くへは行かないと彼女の心に刻みたかった。
抱きしめられなくても。
「なぁ。佳織・・・?」
聴こえてくるのは、懐かしいジャズナンバー。
時計は23時を回って照明は絞られている。
店のあちこちに散らばる、小さなざわめきにまぎれてしまわないように、佳織と視線を交えた。
一瞬視線を逸らした後、まっすぐにこちらを見つめ返してきた佳織は、仕事場で会ういつもの彼女だった。
その、オブラートの膜の奥に眠る佳織に問いかける。
「・・・・ちょっとでも俺のこと好きだった?」
一瞬きょとん、とした後、佳織が今までで一番柔らかく笑って見せた。
胸が締め付けられるような、穏やかな微笑み。
悔しくなるぐらい、愛おしいと思う。
この手を離すのが辛い。
「だいぶ、好きだった」
呟いた声に溢れる、彼女の目一杯の気持ち。
これ以上踏み込ませまいとする、必死の抵抗。
”忘れて”ということかもしれない。
良い思い出にして、また、別の人を探して。
「・・・・そっか」
紘平は息を吐いて笑う。
これは、まぎれもない真実だと思えたから。
そして同時に思う。
佳織の願いは、どれも叶えられっこない。
どうしたって、譲れないのはひとりなのに。
喉元までこみ上げた言葉を必死に呑み込む。
此処で踏み込めば、間違いなく佳織は逃げる。
そうして、もう二度と心を開こうとしないだろう。
1年かかってやっと取っ掛かりを掴んだのに。
何もかも終わりにはしたくない。
始められなかったのだとしても。
ドアを叩いて、無理やりにでも引っ張り出そうとしたのは紘平なのだから。
もう一度、佳織が誰かと恋をするのなら、その時、側にいるのはほかでもない、自分でありたいと思った。
どれだけ時間がかかってもいい。
過去形じゃなくて。
いつかちゃんと聞きたいんだ。
君が心から笑って云う。
”だいぶ、好きだよ”
★★★★★★
「佳織ぃ」
「うん。何、忙しいから1分で話して」
止む負えず営業部に出向いたら、案の定紘平に出くわした。
書類片手に足早に通り過ぎようとする佳織の手首をすかさず掴むのが紘平らしい。
・・・・扱いが手慣れててムカつく・・・
「5秒で済むよ。今日付き合えよ」
怒鳴りたくなる気持ちを必死に堪える。
ここは会社・・・私はれっきとした社会人・・・
呪文のように唱えて、佳織はどうにか平静を装った。
「・・・・・結構です」
「飲みに行く位いいだろ?」
「忙しいのよ。めちゃくちゃ」
「心配すんな。こっちも忙しい」
「・・・・・・あのねぇ」
いつものやりとりを始めそうになった所に割って入ったのは友世の彼氏、営業部の若手ホープだ。
「ほんっと・・・仲良いですねー」
余計なことは言わんでよろしい・・・
ジロリと紘平を睨み返して佳織が言い返す。
「同期ですから」
「・・・仲の良い同期ですから」
呟いた大久保の一言に佳織はピシャリと突っ込む。
「それはどうかしらねっ」
「上手いこと言うなぁ大久保」
「どーも」
「あんたは同調しなくていいから!とにかく帰るから!飲みに行くなりなんなり好きにしなさいよ」
善は急げと佳織は営業部を抜け出す。
仕事中、長居は無用だ他所の部署。お、うまい。一人で自分を褒め称える。
けれど紘平は飄々としたまま佳織に並んでくる。
くっそう・・・
歩幅の違いというやつだ。
「久々に多恵ちゃんの歌聴きたいなぁ」
「・・・・・・・・・あっそ」
「来なくてもいいよ」
「・・・・・あっそ」
「23時までなら待ってるから」
「あっそ!!」
どこまでもこちらの行動を把握しまくっている紘平の余裕ある対応が癪に障る。
・・・それより何より、なんでこんなカリカリしてんだ・・・・私・・・?
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