ビター・スイーツ
宇月朋花
本編
第1話 甘さはいらない
その昔、思い描いた眩い未来。
みんなに分け隔てなく平等に注がれると勝手に信じていたありがちな幸福の絵図は。
・・・とうとうこの手の中に落ちてくることは無く。
ようやく現実に気づいて、目の前にある道をひたすらまっすぐ歩くことを決めた26の秋。
・・・願ったのは普通の幸せ、ただ、それだけ。
★★★
コピー機の稼働音と、データ処理を行うパソコンの起動音。
ざわめきと、話し声、どこかで電話の鳴る音。
「佳織さーん。書類のチェックお願いしまーす」
送られてきた備品発注のメールをチェックしていた辻佳織は、部下の声に視線を上げた。
我が総務の華、川上友世だ。
最近、営業部の大久保君と付き合い始めたってのはガセじゃなかったんだ・・・
つやつやのお肌に幸せオーラが滲んでいる。
「はーい、御苦労さま。元気になって良かったよ」
ついこないだまでの心ここにあらず状態では、年末のバタバタを乗り切る戦力の頭数には入れられない。
いつもニュートラルで、マイペースに仕事をこなすタイプだったので安心していたのに・・・
やっぱり恋愛すると変わるのねー・・・女らしさが2割増と見た。
佳織の言葉に友世は慌てて頭を下げる。
「す・・・すいませんでしたっ・・ご迷惑をお掛けしました」
「迷惑じゃないけど、心配はした。ま、順調なのは良いことですよ」
「佳織さんー・・・」
「忘年会では色々聞かせてもらうからねー」
「その前に、2人でお茶行きましょう」
ふわんと微笑まれれば、同性だってクラっとする。
雰囲気込みでめちゃくちゃ美人なのだ。
「おっけー。じゃあスケジュール見てメールするわ。・・うん、こっちも承認依頼課長に回しておきます」
渡された新規発注のコピー機の見積もりを指で弾いて佳織は答えた。
「よろしくお願いします。あ、佳織さん、今日はお昼どうされます?舞と外に出るつもりなんですけど・・・」
「帰り道にコンビニ寄って来てくれる?ドーナツ買ってきて。2個ね」
課長に頼まれている会議資料が時間までに上がりそうにないのだ。
小銭入れを友世に手渡す。
「手伝いますから無理せず言って下さいね?」
「ありがとね」
これが最後だと思った恋が、嘘みたいにあっけなく終って。
平凡な毎日を取り戻してから3年。
友世みたいにキラキラしていたのは、いつだろう?
物足りないわけじゃないし、不平不満があるわけでもない。
自分で選んだ日常を、自分の足で歩いてる。
世の女性が皆そうしているように。
ただ、違うことと言えば、寄りかかる相手がいないくらいのことだ。
自分のペースを乱されることもなければ、相手のペースを覗うことも乱すことも無い。
繰り返す毎日に、小さな寂しさや孤独は飲み込まれて行って朝が来て、夜が来る。
ただ、それだけのことなのだ。
「さー・・・やっちゃわないとなぁ」
新規店舗に搬入予定の備品の打ち合わせに出ている課長が戻るのは2時。会議は3時から。
拾ってきたデータ打ち込んで、グラフ作って・・・念のため5年分の資料付けて・・・
やることを組み立てつつ、店舗データのファイルを探しに席を立つ。
と、やけに懐かしい声が聞こえてきた。
振り返るまでもない、何度も何度も聴いた声だ。
「懐かしいでしょう?本社は久しぶりですもんねえ。東京支社に行かれてから何年ですっけ?」
「もう3年半になります」
「そんなになりますか?月1回は会議で顔合わせてるから実感湧きませんねェ・・・御家族もお元気で?」
「おかげさまで」
「そうですかー・・・あ、いたいた。おーい、辻さん!! 日高部長が来てらっしゃるよー」
隣の経理部の次長がニコニコと手を振ってくる。
佳織は数冊のファイルを抜きだして、ゆっくりと振り返った。
未練も、寂しさも、かけらだって見えないように。
胸を張って生きてるように。
「お久しぶりです。日高さん」
「元気そうだね・・・主任になったんだって?」
「私、来年で入社10年ですもん。出世もしますよ」
「・・そうかぁ。辻は真面目だから、伊藤さんも仕事しやすいだろう」
「口煩くて、課長困ってますけどね」
「面倒見が良い証拠だよ」
「そう言う風に育てて頂きましたから」
あなたの背中を追って、少しでも近づきたいと。
ずっと、ずっと思ってましたから。
「俺の下に来た時から、辻はもう今の辻だったよ。しっかり者で、後輩思いないい子だったよ」
「いまも、いい子ですよ」
「そうだね。・・・変わって無くて安心したよ」
その声は、本当に優しく響いて、忘れかけた記憶を揺さぶり起こす。
「こちらには会議で?」
「うん、新宿店の打ち合わせでね。また総務に面倒掛けるけど宜しく頼むよ」
「そーゆーことは、課長と本部長に言ってください」
「でも、結局仕事割り振るのは辻の仕事だろう?」
本社を離れて3年も経つのに、こっちの現状まで把握していることに驚きつつ、けれどこの人ならそうだよな、と納得もできる。
佳織は苦笑交じりに、昔の上司を見返した。
「精一杯頑張らせていただきます」
「伊藤さんにはよくよく労うように言っておくから」
昔のように、誘ってはくれない。
当たり前のコトなのにそれがやけに冷たく胸に響く。
この人と、自分を繋ぐ糸は完全に切れてしまったのだと、改めて実感する。
そう望んだのは自分で、納得したことだったのに、未だに痛む胸に違和感すら覚える。
「ぜひともお願いします」
「じゃあ、そろそろ行きましょうか日高さん」
「ええ」
「お疲れ様です」
「お疲れ」
柔らかい視線をちゃんと受けとって、同じように返すことができた。
この数年で培った大人の対応というやつだ。
あの手に触れることはもう無い。
あってはならない。
誰かを犠牲にする恋は2度と御免だし、祝福されない愛なんてまっぴらご免だ。
・・・・でも、あの人の隣にいられるだけで、その他のこの世界にある、綺麗なものや、美しいもの、それら全部みんな、丸ごと。
捨ててしまっても良いと思った。
そんな時が、たしかに、あった。
私にだって、友世みたいに、自分の中心が”恋”になる瞬間があったのだ。
他の何ものも入り込む余地も無い位。
完璧で、壮絶な、冷たくて、遠い恋が。
朝が来ることを心底憎いと思うほど。
痛くて、尊い恋が。
確かにこの胸にあったのだ。
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