はなしのつづき

畔 黒白

はなしのつづき

 市川さんとはじめて話したのは、夏の暑さ残るなまぬるいどしゃ降りの日のことだ。家と学校のちょうど中間ぐらいの場所にある小さな公園に僕はいた。この公園には茶色いのら猫が一匹住みついていて、僕は学校の行きかえりにその猫の様子を見に来ていた。いつも茂みのそばにいるその猫は最近やっとなつき始めて、僕がしゃがみ込んで手の甲を近づけると顔をすりよせてくれるようになった。

 その日は夏休みが終わり学校が再び始まって、休みぼけの抜けない長い長い一週間をようやく乗り越えたあとの日曜日だった。僕は部屋でぱらぱらと漫画を読んでいた。けれどだんだん窓にぶつかってくる雨粒の数が増えて、空がごろごろと鳴き始めるうちに不安で居ても立っても居られなくなった。

 傘を閉じたまま手に持ってはしった。傘をささないことより、ふつうの運動靴を履いて出たことをはしりながら後悔した。頭や体がぬれる事よりも、靴下がじんわりと浸っていく感覚がその時はすごくいやだった。公園に着き、息を切らしながら茂みのほうを見て僕は目を丸くした。だれのものかは分からない、透明なビニールに水玉がぽつぽつと描かれている傘が、開かれた状態で屋根をつくるように置かれていた。そしてその傘の下で、あの猫が体を丸めて眠っていた。僕はその場に立ち尽くした。気持ちよさそうに目を閉じているその猫は僕の存在にすら気づいていなかった。

 

 どれくらい時間が経っただろう。ぼうっと猫をながめていたら、急に後ろに気配を感じた。振り返ると、男の子が傘をさして立っていた。けれど僕は不思議に思った。その子はスカートをはいていたのだ。僕はすこし間をおいてようやく思い出した。

「市川さんか」

 僕がそう言うと、彼女はきょとんとした顔で首を傾げた。

「誰だっけ?」

 それが彼女の最初の言葉だった。同じクラスの市川紗香いちかわさやか。幼い男の子のようなあどけない顔立ちに、髪は短く後ろは刈り上げられていて、授業中は後ろの席から彼女のうなじがいつも見えた。彼女は我々男子だけでなく女子にさえも、授業の合間に雑談をするような親しい人はいなかった。真剣な表情で黙々と本を読んでいて、誰かに話しかけることも、話しかけられることもなかった。後期が始まるころにはクラスの誰もが彼女を一匹狼として認め、すこしおそれていた。

 僕は立ち上がって市川さんに自己紹介をした。

「同じクラスの、宇山大勢うやまたいせい。なまえ順でひとつ後ろの」

 彼女はうなずきながら「ああ」と言った。そして彼女は「風邪ひくよ」とだけ言ってその場を去ってしまった。その時はじめて、自分がまだ傘をさしていなかったことに気がついた。


 彼女の忠告は見事にあたり、つぎの日僕は風邪をひいてしまった。前期は学校を一度も休まなかったのに、後期早々にして僕の皆勤賞はなくなった。翌朝学校に行くと、僕はクラス中の男子からひっきりなしに肩をたたかれ、「がんばれ」とにやにやしながら謎のはげましを受けた。ふしぎに思っていたら、朝のホームルームで先生に僕が図書委員になったことを告げられた。ちょうど昨日委員決めが行われたらしく、勝手に決められたのだ。そしてもうひとりの図書委員が、市川さんだった。

 毎週決まった曜日の昼休みに図書室の受付をするのが図書委員のおもな仕事だ。僕らの担当は水曜日。案外楽そうだしわるくないなと思っていたら、後期から新しい仕事が追加されていたことを知った。それが学級新聞だ。ふたりでつくり、クラスの中で週に一回配らなくてはならないのだ。

 今日は水曜日だったので、僕らは早くも昼休みに仕事をすることになった。市川さんと図書室の受付に並んで座る。彼女は前期も図書委員だったからか、まるで本職の人のようにてきぱきと仕事をこなした。やがて受付に来る人も減り、僕らはすこし暇になった。僕は思い切って話しかけてみた。

「学級新聞、来週からだけどどうする?」

 彼女は前をまっすぐ見つめながら言った。

「わたし、小説を載せる」

 意外な言葉にびっくりした。

「しょ、小説?」

「うん。わたし小説書いてるの。それを新聞で連載しようと思ってる」

「すごいね……どんな話?」

「未来のみえる猫が、みんなを助けるために頑張るお話」

「おもしろそう!」と言った時、初めて市川さんが笑顔をみせた。ほんのちょっと口角が上がっただけだけど、とっても嬉しそうだった。

 

 原稿を市川さんにもらって、僕がレイアウトや印刷をした。回を追うごとに僕らの新聞、というより彼女の小説はクラスの注目を集めていった。市川さんは一躍人気者になり、昼休みは彼女の机の周りがおしくらまんじゅうのようになった。「本が読めないよ」と彼女は不満をもらしていたけれど、その表情はまんざらでもなさそうだった。

 ふたりで仕事を重ねるうちに、気がつけば僕は四六時中市川さんのことを目で追うようになっていた。

「大勢くん。これ、今週の原稿」

 水曜の昼休みに図書室で原稿を受け取り、金曜日に皆に配るのが僕らのお決まりになっていた。

「おう、ありがとう」

 僕らの関係はまるで作家と担当編集者のようだった。話すのは仕事のことばかり。僕は市川さんのプライベートに踏み込めないでいた。「一緒にかえろう」なんてとてもじゃないけれど誘えなかった。


 十月のおわりのことだ。その日の教室はずっとうす暗くて、朝から蛍光灯の電気を全てつけていた。黒に近い灰色の雲は昼ごろに雨を降らしはじめ、瞬く間に大豪雨となった。僕は窓の外を見て頭をかかえていた。心配はしていたけれど、やっぱりこうなったか。くぐもった雨の音が聞こえるなか、つっかえつっかえに文章を音読する同級生の声にやけにいらいらした。

「先生、体調がわるいので保健室にいってきます」

 しけった教室のなかに透き通るような声がひびいた。市川さんだった。彼女は先生の許可をもらうと、なぜか傘を持って急いだ様子で教室を出ていった。


「先生」

 僕は立ちあがった。

「頭がいたいので僕も保健室にいってきます」



「やっぱり、市川さんだったんだね」

 茂みの前に立つ彼女の背中に、僕は言った。

「気づいてたんだ」

 彼女は振り向かない。茂みの前に開いて置かれた水玉の傘がみえる。

「さっき市川さんが教室を出る時にとった傘の模様でやっと分かった。そんな気はしてたんだけど、ずっと聞けないでいた」

 僕は手に持っていた自分の傘を開き、市川さんの上に持っていった。

「ありがとう」

 彼女はそうつぶやいた。そしてこう言った。

「あの日、びしょぬれだった大勢くんにもこうやって傘をさしてあげられたらよかったのに」

 僕は市川さんの隣に並んで、茶色い猫を見下ろした。猫は傘の下から僕らを交互にみている。

「もどろう」

 僕らは互いに片方の肩をぬらしながら、学校までもどった。ひとつの傘をふたりで共有しているあいだ、僕らは一言も話さなかった。僕は視点が定まらずあたりをきょろきょろしながらあるいていたし、市川さんはずっと下を向いていた。


 父さんの転勤が決まって引っ越すことを告げられたのは、その日の夜のことだった。


「そっか……引っ越しちゃうんだ」

「うん、十二月になったらこの町を出るって」

「じゃあ……」

「うん、市川さんの小説を最後まで見届けられない」

「わたし、大勢くんなしで頑張れるかな……」

「市川さんなら、大丈夫だよ」

 僕はすこし間を置いてからもう一度言った。

「大丈夫だよ。きっと」


 僕と市川さんの最後の一ヶ月がはじまった。市川さんの連載小説は新しい章に入った。今までは動物や人の命を助けてきた未来のみえる猫が、今度は男女の恋を助けるというものだった。僕と市川さんはあの日から公園の猫のところまでいっしょに下校するようになった。


 十一月最後の水曜日になった。

「これで原稿わたすのも最後だね。大勢くん」

「うん、今までありがとう。市川さん」

「こちらこそ」


 その日の夜、僕は彼女の原稿をじっくり味わうように何回も読んだ。


 猫は男女が互いに思いを打ち明けることなく、はなればなれになってしまう未来をみた。猫はそれを食い止めるために必死に男女のもとに交互にかけ寄っては、鳴き続ける。その必死さから意思を感じとった女の子は、思い切って男の子へ向けたラブレターを猫に渡したのだ。


 この場面で今週の話は終わっていた。


 とうとう最後の日がやってきた。気持ちいいほどの晴天だった。今日は金曜日で、僕は学級新聞を皆に配って図書委員の仕事を完全に終えた。配るなりクラスのみんなはくぎづけになって市川さんの小説を読んでいた。


 チャイムが鳴って、学校は終わった。僕はみんなからもらった色紙を大事にリュックにしまい、顔を上げた。

 市川さんが目の前に立っていた。

「いくよ」

「うん」

 いっしょにあるいているあいだ一言も話さないのは、あの日以来だった。

 僕らは猫のところへやってきた。ここが出発点にして、終着点。猫は相変わらず茂みの前で気持ちよさそうに寝そべっていた。

「そういえばこの猫が鳴いてるところ、見たことないな」

 学校を出てからはじめての言葉がそれだった。

「たしかに」

 市川さんは微笑みながら応えた。一方猫は大きなあくびをひとつして、またこてっと死んだようにたおれた。

 僕はしゃがみこんで猫に別れのあいさつをした。

「じゃあな猫。僕は旅に出る」

「なにそれっ」

 彼女は今までで一番の笑顔をみせた。でもほんの少しだけ、悲しそうにもみえた。

「市川さんの小説、最後まで読みたかったなあ」

「まだ来週の原稿、書けてないの」

 市川さんは猫をやさしくなでながら言った。冬のはじめのつめたい風が、ふたりを包んでいく。

「じゃあ、そろそろいくよ」

 僕は立ち上がった。

「うん。ばいばい」

「んじゃ、また」

 僕は彼女に背を向けた。一歩。また一歩とあるいていく。これでいいのか? ほんとうにいいのか?


 にゃー。


 聞こえて、ふり向いた。猫がなんとも眠たげな顔をこちらに向けていた。僕と市川さんは顔を見合わせた。そして、笑った。けれどやがて僕らの口角はもどっていって、また静かになった。


『あの』


 ほぼ同時だった。

「あ、いや、どうぞどうぞ」

 僕は彼女にゆずった。彼女も僕にゆずろうとしたけれど、やがてもじもじとしながら言った。

「あの……その……最後くらい、下の名前で呼んでほしいなって……」

 思ってもいなかった願いにおどろいた。けれど僕はやさしくうなずいた。そして力強くこう言った。

「紗香。最後じゃないよ。またいつか、またいつか必ずここにくるから。だからその時は、あの小説のつづきを読ませてほしい」

 彼女はうなずいた。なんどもなんどもうなずいた。

「まってる。まってるから」


 僕は再びあるき出した。卒業式のように桜は舞わない。でも、それでいいと思った。まだ終わらせたくないんだ。もうすこしだけ、もうすこしだけ待ってほしい。もうすこししたら、このはなしのつづきを書ける気がするんだ。だから、そのときまで……

 満足そうな猫の声が、遠くから聞こえた気がした。






 





 

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