CODE26 暗い欲望(4)

 ぼくは唐突に目を開いた。

 ――濃密な液体に体が浮いている。


 ほの暗い部屋の中にある大きな水槽。

 ガラス越しにスーパーコンピューターの放つデジタル光が仄かに点滅している。いつの間にこんな水槽を設置したのかは分からないが、地下室の一角のように思えた。


 体中がけだるく、力が入らない。目に見えない透明な鎖のようなもので両手両足が拘束されているようで、自由に動けなかった。

 さっきまで一緒にいたはずのミサは消え、あれほど一体感を感じていたマーク1もどこかへ行ったようだった。


 微かな光が反射する透明なガラス壁。その向こうに藤田博士がいる。いつものように、大きな機械の塊のような椅子の中に埋もれるように座っていた。

「やあ、ご機嫌いかがかな」

 相変わらずの穏やかな声。


 ぼくは応えようとしたが声は出ず、代わりに泡が巻き起こった。体を包む液体の感触は、限りなくリアルなのに、不思議に息は苦しくなかった。

「うまくいくと思ったんだが、中々思ったようにはいかないものだね」

「どういう意味ですか?」

 泡を巻き上げながら、言葉を絞り出す。


 藤田博士が機械の椅子から飛び降り、床に降り立った。

 体が自由に動かないはずの博士が、だ。水槽に外側から手を当てると、こちら側へと手のひらが入ってきた。続けて、まるですり抜けるかのように、体全てが入ってくる。


「気付いたと思うが、ここは私が君の脳に送り込んだヴァーチャル・リアリティの世界、いわば私の作った仮想空間だ。私の趣味で、スーパーコンピュータールームを模しているが、ひらたく言えば、煙の魔神がやってることと同じだ……と、これを見れば納得するかな?」

 博士が肩をすくめ、微笑んだ。


 見る見るうちに、髪の毛が増えて黒くなり、顔の皺が消えていく。

 若返ると同時に、顔の皮膚が一枚はがれたかのように、邪悪で狡猾な表情が現れた。

「私の脳を復活させる実験……。君も知っての通り、雷のせいで失敗したのだが、全くの失敗だったというわけではなかったのだ。幸運と言うべきなのか、不完全な状態で私の脳にもマーク2がインストールされた。いわば、不完全なコピーだな。そして、スーパーコンピューターにはオリジナルが残った」


「博士の中にもマーク2が……?」

「ああ、そうだ。そのおかげで、元の知性を保てている。この機械の椅子のコンピューターと自分の脳、そしてマーク2の不完全なコピーとの融合……でな。そんな時に知ったのが、マーク1と完全に融合した君の存在だ。うらやましくてしょうがなかったよ」


「もう一度実験すればよかったんじゃないですか」

「ああ、そうだな。私の頭にあるのは不完全なプログラム。だから、さっき捕まえたんだよ。煙の魔神のオリジナルをな」

「え? じゃあ……さっきのあれで」


「ああ、そうだ。もう、この頭には完全な煙の魔神がいる。今では、完全に私の中で調和しているよ」

 あの凶暴な煙の魔神を自分の中に融合したという博士の言葉に呆然とする。そして、ぼくはある可能性に思い当たった。


「でも……それじゃ、問題解決じゃないですか。もう、病気も克服したってことですよね。なぜぼくたちを解放しないんですか?」

「まだ、計画が完了してないからね」


「計画?」

「ああ、魔神が言っていただろ? 美沙ちゃんをキサキにするとかなんとか。奴は自分自身のコピーを残したいと思っていたようだが、もっといい計画があるんだ」

「何のことですか?」


「バグズマーク1と融合した君というプログラム、それに、仮想空間で煙の魔神から逃げ続け、半ばプログラムのようになった美沙ちゃん。二人の融合したAIが欲しくてね」

「言ってることが分からないです……」

 ぼくは、博士の狂気に満ちた目を見つめて言った。


「ぼくらは人間ですよ!」

「いや、いや、本当は分かっているんだろう?」

 博士が立てた人差し指を左右に振った。


「君たち二人が、仮に肉体的に死んだとして、本当にこの世から消えると思うかい? 二人のデータは自律的に動くプログラムとしてコンピューター上に永遠に残るはずだ。今の君たちは、自律型AIと言って差し支えない。つまり、私に融合させるベースプログラムを作るための素体としては申し分ないというわけさ。私は今の不完全な私から、新たな天才、それも進化した電子的な人類、完璧な天才に生まれ変わるんだ!」

 藤田博士が目を赤く光らせた。


「何回も言わせるな。君と美沙ちゃんの赤ちゃんとでも言うべきプログラム。それが欲しいんだよ。美沙ちゃんと相思相愛になるのは、まんざらでもなかっただろ? 二人が生み出すプログラムこそが、私を進化させる最高の触媒になるはずだからな」

「馬鹿なことを言っていないで、早く解放してください!」


「馬鹿? これだけ言っても分からないのか……」

「何を言って……」

 話にならない。ぼくは博士を説得することを諦め、鎖を引きちぎろうと暴れた。だが、手足を繋ぐ鎖はびくともしなかった。


 ぼくのそんな様子に博士は眉をひそめると、指を鳴らした。

 その途端、ミサがぼくの前に現れた。一糸まとわぬ姿で、透明な十字架に、手足を鎖で縛られ、顔は下にうなだれている。

 さっきは、助けられなかった。でも、今度は違う。ぼくは正気だ。ミサを助けないと。

「ミサ、ミサ!」

 ぼくは必死でミサに呼びかけ、手足を動かしたが、鎖はびくともしない。そして、ミサもうつむいたままだった。


「せっかく、魔神の捕まえていた美沙ちゃんをこうやって、君の前に連れてきたんだ。結構、強情なでな。君も見ただろう。あの透明な壁を取り払うのも大変だったんだぞ」


 目の端にニヤニヤと笑う藤田博士の顔が映った。

 ――このまま、思い通りになってたまるか。ぼくは、目を閉じようとしたが、抵抗は無駄だった。目に見えない力でまぶたが上下にこじ開けられ、ぴくりとも動かない。

「まだ、抵抗するか? わからない奴だな」

 藤田博士がそう言うと、鎧が弾け飛び、身につけていた、ジーンズとTシャツも溶けるように消えた。

 ミサの手足を縛っていた戒めがほどけ、滑るように、間近に来た。顔が上がり、閉じていた目が開く。先ほどと違う、その潤むような瞳は、ぼくを激しく引きつけた。

 博士がぼくの欲望を煽ろうと、操っているに違いなかった。


「あ……。ケ、イ……タ。逃げ……」

 微かな、だけどはっきりとした声が、ぼくの耳に突き刺さった。ミサも戦っている。ぼくは鎖をガチャガチャと鳴らし、戒めに抗った。

「くそっ。離せ! ミサ、必ず助ける。意識をしっかり持て!」

 ぼくは首を振って叫んだ。


「全く、失礼な奴だな。せっかく美沙ちゃんを好きにできるチャンスを作ってやってるというのに……」

 抵抗するぼくに対して、哀れむような顔で藤田博士がぼくを見た。そして、肩をすくめると、大きくため息をついた。


「まあいい。それじゃ、別のオプションだ」

 博士が再び笑った、

「な、何をするつもりだ?」


「分かるだろう? 君に頼もうと思ってたことを私自身がするのさ。今から、美沙ちゃんを私が抱いて、素体のAIを作るよ。それを私に融合する……。ぼくの中の魔神もそれを望んでいるよ。まあ、その前に君は消去するがな」

 博士の目が赤く光った。同時に目の前の景色が、また変わった。

 ぼくの目に映ったのは、遠い記憶の彼方に埋もれていた場所、そして決して忘れることのできない大切な記憶だった。

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