CODE18 二人の研究者(2)

 案内された部屋は、病室とは思えない広さだった。

 真っ白な壁に大きな窓が、空を切り取るように開いている。抜けるような青空と白く大きな雲。窓際に置かれた白磁の花瓶には、大きなひまわりが活けられていた。

 中央に、大きな車輪の着いた機械の塊があった。中心には椅子があり、埋め込まれているかのように老人が座っている。


 頭の両側を大きな取っ手のようなものが挟み込み、そこからはコードが幾本も伸びていた。椅子には幾つものスリットやスイッチ、それにダイヤルが付いている。老人の右側に据え付けられた液晶画面には、メーターやグラフのようなものが映し出され、絶えず動いていた。


「ようこそ。椎名啓太君。ずっと、会いたかったよ。君は、私の先輩のようなものだからな」

 戸惑うぼくの耳に、機械的な音声が聞こえてきた。

 老人は口を開いていない。椅子の前に設置されたスピーカーからその声は流れてきたようだった。


「藤田博士なんですか?」

「そうだ」

「なぜ、そんな機械に座ってるんですか?」


「加納博士に聞いただろう? アルツハイマーでな。この椅子に組み込まれたコンピューターで脳の機能を補っておるんだ。それに、実験の影響か、足も口も動かんようになってしまってな。今では、話すのも機械任せだ。少し不便だが、なに、何事も慣れさ」

 スピーカーから朗らかな笑い声が響いてきた。作られた音声なのに、不思議と暖かく優しい雰囲気が伝わってくる。


「ところで椎名君は、なぜ、今日は私を訪ねてきたんだ?」

「それについては、私が説明しましょう」

 加納博士が説明を始めた。時折、聞いたことのない専門用語が混じる。説明は意外に長く、その間、ぼくはぼうっと部屋の中を眺めていた。


 光沢のある石の床――、木や革製の重厚なベッドやソファー、品の良い絵画、静かでほどよい空調。そのどれもが、高級感を感じさせる。テレビでしか見たことの無いような調度品に混じって、無機質なコンピューターやケーブルが設置されているのが何とも無粋な感じだったが、藤田博士の治療には欠かせないのだろう。


 部屋の中を眺めながらそんなことをつらつらと考えていると、

「なんと! そうだったのか……」

 藤田博士の驚く声で、現実に引き戻された。

「美沙ちゃんがそんなことになって、それに椎名君も巻き込まれておるとはな……。本当に数奇な運命だ」


 藤田博士が車椅子を動かし、加納博士からぼくに視線を移した。

「それに、脳に見せられた幻覚が、実際に現実にもフィードバックされるなんて、ファントム・ペインと呼ばれる現象に酷似しておるな」

「ファントム・ペイン?」

 聞き慣れない言葉に思わず質問すると、加納博士が口を開いた。


「ああ、強すぎる幻覚は時として、人の体そのものに影響を及ぼすのさ。例えば、信心深いキリスト教信者の手のひらに、釘で打たれたような跡ができたり、催眠術で熱い鉄の棒を押しつけられたと錯覚した人の手に火傷ができたりね」

「加納博士、説明ありがとう。だが、君の能力は、自らも武器を出して相手に認識させるんだろう? そのダメージまでもね……」


「え、ええ」

「なんと言えばいいのか……脳が作り出した幻影、いわばファントム・ブレインってところかな。マーク2はデジタルデータを音で君の脳へ送り込み、幻覚を現実のこととして認識させる。だが、君の中にいるマーク1は、君の脳に流れる微弱な生体電流を増幅させ、相手の音波に干渉し、武器を出現させているに違いない」


「本当にそんなことが可能なんでしょうか?」

「実際にできているじゃないか。もちろん、私が今話したことは仮説に過ぎないが、それが、最も合理的な説明だと思うよ」

 藤田博士が自信満々な顔でうなずいた。


「博士が開発した脳の中身をデジタルデータ化するシステムを魔神は盗んだんですか?」

「ああ、あの実験が失敗した日だな。マーク2は私の頭の中身を盗み見たに違いない。私の記憶を抽出するシステムは、デジタル音を聞いた際の脳の反応を詳細に分析し、データベース化したものがあってのことでね。つまり、音のパターンによって、どのような脳のデータが抽出されるかが、決まっているのさ。マーク2は、それを応用して幻覚を見せているんだろう」


「博士のシステムを応用したと?」

「ああ、まず間違いない。全く、なんてAIを作ってしまったことか? なあ、加納博士……」

「藤田博士の脳のデータのせいで進化したんじゃないか、とも思いますがね」

 二人はまるで、冗談を言い合うかのように、軽口を叩いた


「まあ、それは、それとして……」

 藤田博士は話を切り上げ椅子を回転させると、ぼくの顔をのぞき込んだ。

「何です?」

「提案があるんだが……」


「は、はい」

「美沙ちゃんに会ってみないか?」

「え!? ええ、ぜひ!」

 突然の提案に、ぼくの心臓は跳ね上がった。

「……でも、いいんですか?」


「ああ。少し、君の意見も聞きたい状態になっていてね。加納博士さえよければ、私はいいと思うのだが」

「私は構いませんよ」

 加納博士の答えを聞いて、藤田博士が再びぼくの方を向いた。


「実は美沙ちゃんの病室はこの近くなんだ。早速行こうか」

「はい!」

 勢いよく返事をしてから、ぼくはことの重大さを認識した。本当に生身のミサに会うなんてこれっぽっちも思っていなかったのだ。心の準備も、体の準備も、何もかも、全くできていなかったが、このチャンスを逃がすわけにはいかない。

 ぼくは、少しだけめまいを感じながら藤田博士の後についていった。


      *


 ミサの病室は、藤田博士の部屋とほぼ同じ造りだった。

 広い部屋に置かれた小さなベッドにピンクのパジャマを着たミサが眠っている。博士の部屋と同じように窓際に大きなひまわりの活けられた花瓶があった。

 ミサ、ミサ!

 声に出さずに呼びかける。涙が溢れそうになり、目の前の景色がにじんだ。手の甲で涙を拭くと、ミサの側まで歩いて行く。


 真っ白な肌、柔らかそうな髪。軽くカールのかかった長い睫毛が、瞼を彩っている。仮想空間で会った時のミサ、そのままの美しさだった。

 ミサの周りには様々な機械が置かれ、点滴用の管や計測用のケーブルが繋がれていた。

 たまらなくなって、すぐ側に行こうとしたその時、目に見えない何かに邪魔をされ、それ以上近づけないことに気付いた。掌を前に出すと、空気の壁のようなものがあることが分かる。


「これは、何ですか?」

「今朝、十時過ぎ、突然こんなことになったんだ。美沙ちゃん自身がマーク2と同じような能力で、ここに壁があるように感じさせているのかもしれない……」

「それは魔神にミサが連れ去られた時間……」


「やはり、そうか……」

 ぼくは、透明な壁に向かって拳を打ち据えたが、壁はビクともしなかった。

 壁の向こうでは、ミサが眠っていた。その様子を見ていて、ぼくはふとある可能性に思い当たった。


「ひょっとすると、魔神のところでも、こうやって守ってるのかもしれません」

「それは、ありうる話だな」

「どうにかできないんですか?」


「うむ。そのためにも少し試したいことがある。そこの椅子に座ってこれを付けてくれないか?」

 博士が椅子からコードを伸ばしたヘッドフォンのようなものを渡してきた。

 ぼくは言われるがままに、一人がけのソファに座り、ヘッドフォンを被った。


 突然、目の前が真っ暗になった。

「これは!? 博士! 藤田博士!」

 途方に暮れて辺りを見回すと、真っ暗な空間に、幾つもの光の線が交錯した。飛び交う様々な光の線が目の前で回り始め、形をなそうとするかのように絡まり合う。


「私の声が聞こえるかね?」

 唐突に藤田博士の声が聞こえた。

「驚かせて、すまない」

 それまで意味のない形を成していた光の線が、まるで針金を曲げて作った人形のような形へと変化した。小さな目を開いて、にっこりと笑ったそれは、藤田博士にそっくりに見えた。


「藤田博士なんですか?」

「ああ、そうだ。私の開発した脳のモニタリングのための端末をつけてもらったんだ。この部屋全体がそのための装置でね。元々は、美沙ちゃんの治療のために据えた機械なんだが……」

 ぼくは、呆然と光の線で出来た藤田博士を見つめた。


 この何かの冗談のような状況に、軽く笑いがこみ上げてきたが、反射的にそれを飲み込んだ。

「啓太君、どうした?」

「いえ、何でもないです」

 ぼくの様子を見て、光の線でできた藤田博士は、怪訝な表情を作った。


 何から何まで、常識外れのこの状況に、ぼくも普通ではいられない感じだった。

「実は、一連の実験の副産物で、患者の脳に直接アクセスする方法を確立したんだ。肝心の美沙ちゃんの治療には、使えなかった機械だが、君の脳のマーク1にアクセスしようと思ってね」


「はあ」

「早く美沙ちゃんも助けなくてはいけないだろう? 説明するよりもやって見せた方が早いと思ってね」

「そ、そうなんですね」

 博士の説明が今一つぴんとこなくて、ぼくは要領を得ない返事を繰り返した。


「今、君は私の姿を脳の視覚を感じる部分、大脳皮質の聴覚野と呼ばれる部位で見ている。いや……そこへ私が直接アクセスして見せていると言った方が正確かな」

光の線でできた藤田博士が目の前でゆらゆらと揺れている。


「これを我々は、ブレインダイブと呼んでいる。君の脳の奥に隠れた深層的な記憶や心理に直接、響くように働きかけ、質問をするんだ」

「はあ」

 はっきりと返事をしないぼくの様子に、博士は笑った。


「まあ、いい……。少し、説明の仕方を変えようか。椎名君は、人は嫌なことやショックだったことを忘れることができるって聞いたことがないかい?」

「聞いたことがあるような気がします」


「忘れることで精神的なバランスを取っているとも言えるんだが、実はそれは忘れているのではないのだよ……。本当は覚えているが、意識の奥底にあって記憶を呼び出せなくなっているだけなのだ。まあ、体験するのが、一番なんだろうな――」

 ぼくの様子を見て、博士がそう言った。


「よし、煙の魔神は君を知っているって言っていたそうだね。それに、頭の中の声も知ってるふうだったんだろう? 本当に覚えはないのかい?」

「記憶はありません。ただ、あの悪夢……最初に煙の魔神と会った時に見た虫の化け物については、どこかで見たような気がするんです」


「なるほど。じゃあ、質問を変えよう。君はあの地獄の中をどう生き残ったんだ?」

「え?」

「君の奥底にあるマーク1の持つ記憶。あの地獄のようなジャングルの中をどう生き残ったのかを訊きたいのさ」

 博士の質問を契機にしたかのように、記憶の奔流があふれ始めた。


 デジタルのドット絵でできたジャングル。それがぼくの中にある人としての知識と結びつき、生々しい記憶へと変換されていく。

 むせ返るような匂い、苔むした倒木、見上げるほどの大木、背丈ほどもあるシダ類――。


「目の前にジャングルが見えるね……加納博士が実験で作った環境だが、それは、マーク2とマーク1たちが生死を賭けて戦った戦場なのだ」

 突如、鋭い牙の生えた大きな口が現れ、反射的に身をかがめた。


 巨大な虫の化け物が幾匹も大きな口を開けて襲いかかってくる。

 走り回り、転げながら、化け物の攻撃を辛うじて避けた。そこら中に虫の化け物があふれ、お互いに攻撃し合っていた。

「マーク1の記憶は、融合している君の記憶でもある」


 ふと、自分の手足を見ると、いびつに筋肉が盛り上がり、指が長くなっていた。体にはびっしりと獣毛が生えている。学校で獣化した時と同じだった。

 逡巡する間もなく、周りの虫たちが襲ってくる。考えに浸っている暇は無かった。大きく跳び上がると、木の枝に乗り移る。


 群の中心に、真っ赤な目を持った一際大きな虫がいる。そいつが動くと、そこに竜巻が出現したかのように虫の集団が弾け飛ぶ。

 そいつが一瞬、笑った。赤い大きな目が吸い付くようにぼくを見ている。

 叫び声をあげると、木の枝から飛び降り、逃げ出す。


 すぐ後ろに、そいつが迫ってくるのが分かった。吐き出す息の匂いや、草を踏みつける足音が伝わってくる。

 振り返ると、そいつが大きな口を開いていた。

 ぼくは奇跡的に攻撃をくぐり抜けると、柔らかな腹に噛みつき、肉を食いちぎった。

 その瞬間、不思議な感覚が体を貫いた。荒れ狂う力が充填されていくような感覚。


 すぐさま、強烈な体当たりで弾き飛ばされた。

 力を吸収したような感覚も、一時の錯覚であるかのように、そいつとぼくの間には、大きな力の隔たりがあった。

 隙を見て、地面を這いながら逃げ出すが、すぐに体の上に飛び乗られた。

 唾液がぼくの顔に落ちる。絶望的な恐怖。再び食われそうになる瞬間――映像が途切れた。

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