土着

 穴を出て聖と別れてから、既にいくつかの滝をくぐり、朝葉とつゆは再びずぶ濡れに戻っていた。

「あの滝をくぐったら、着くみたいだよ」

 朝葉が指差す先に、強烈な水流を叩きつける滝が見える。

「わたしのせいで、ずいぶん回り道になってしまったわね」

「いやー、あれはわたしでも怖いよ。手滑らせたら終わりだもん」

 穴から村の中心部へ至る最短の道順には、ビルの三階ほどの高さがある石の梯子を登る必要があった。梯子と言っても、岩盤の表面を削り取ってくぼみを作っただけの、いかにも危険な物だった。当然、つゆは見上げただけで断念した。

「ここの村人たちは器用に登ってたわ」

「手に吸盤が付いてる人向けの梯子なんだよ。じゃないと雨で滑るし、危なすぎるって」

 二人は勢いをつけて、最後の滝に飛び込んだ。太鼓を叩くような激しい水音に、つゆの折り畳み傘が壊れそうなほど揺れる。ビニール傘を聖の変装に貸し出している朝葉は、滝に打たれるまま走り抜ける。

 向こう側へ出ると、崖をくり抜いて整地したような、幅広の空間が伸びていた。ざっと数えるだけで二十人ほどの村人が表に出ているのが見える。地面には作物や水産物と思われる物が広げられ、見慣れぬ器具が立ち並び、作業に勤しむ者、動き回る者、立ち話をする者など、それぞれが思い思いの午後の時間を過ごしている。壁面には居住区と同じようにいくつも横穴が掘られているが、ちらりと除くその内部でも何やら作業中の姿が見えるため、居住用の穴ではないのだろうと思われた。

 二人が近づくと、気づいた者からしずしずと神々に向き直りひざまずきはじめる。朝葉が手を伸ばし、大きな声でその動きを制した。村人たちはまたのっそりと持ち場に戻っていく。

「だいぶ神様としての振る舞いがサマになってきたわね」

「ほんと、慣れってのは怖いねえ」

 二人は心なしか背筋を伸ばして、広場に入っていく。


 メインストリートと呼ぶにはささやか過ぎる小道の両脇に、機械文明にはほど遠い素朴な暮らしを感じさせる生活用品や農機具が並んでいる。ただし、使い方の見当がつく物は一つもない。

 二人は物珍しそうに見回しながら、その中の一つに近づいた。蔓草を細かく編み込んで作ったむしろの上に、摘み取られたさまざまな植物が並んでいる。

「さっき食べた野菜だわ」

「あのプチプチした木の実もあるね」

 筵の脇にかがんで作業する村人に、朝葉が声を掛ける。短い言葉のやり取りが交わされる。

「村の人の食べ物を、こうやってそれぞれの家族に合わせた量に分けて配るんだって」

「お金が存在しないのね」

「みんなが平等に暮らしてるんだ」

「けれどいつかは、その平等に満足しない人も現れてくるんでしょうね」

「上の村を作った人も、そうだったのかな」

「どうかしらね……」

 並べた食料に、小粒の雨が降りかかっている。村人は頭の傘を広げたまま、黙々と作業を続ける。

「こんな雨の中でも、みんな外に出てるんだ」

「まるで気にせず作業してるわね。当たり前のように」

 朝葉は細い雨の落ちてくる方を見上げる。

「空はこっちにあるのに、雨はあっちから降ってくるなんて、不思議だね」

「そうね。重力が働いてるってことは、この垂直の大地にも、どこかに底があるのかもしれないわ」

 二人は果てもなく落ちていくような、その空を見下ろす。

「雨が止まない世界ってあるのかな?」

「降ったそばから雨雲に水蒸気が供給され続ければ、ずっと降り続けるんじゃないかしら」

「この縦になった世界のてっぺんに、めちゃくちゃでっかい雨雲があるってこと?」

「そうかもしれないわね。あるいは、この世界が雲の中にあるのかもしれない」

「ああ、それで、空があんなに白いんだ」

「想像の話よ」

 さらに歩いていくと、立ち話をしていた二人の村人が、神々に気づいてまた身を低くした。朝葉が声を掛けると、おずおずと立ち上がる。

「この村の信仰について聞いてみたいわ」

「おっけー」

 今度はしばらく話し込んでいた。つゆは周囲を観察しながら、話が終わるのを待つ。村の中に、宗教を感じさせる偶像や装飾がないかと探してみたが、それらしき物は見当たらなかった。

「だいたいわかったよ」

 つゆは先を促すように、無言で首肯する。

「信仰……というほど強い気持ちはないみたい。おばあちゃんから聞いた言いつけを守ってる……くらいのノリかな。そもそもなんとなく口伝えで代々伝わってるだけで、あんまり詳しい話でもないっぽいし」

「どんな話?」

「ええと、この世界がやばい状況になった時に、二本の手と二本の足を持った神々が、自分たちの肌の色と同じ青くてでっかい箱に乗ってやってきて……、それで、神様のパワーで世界を救う……みたいな、ありがちな話だよ」

「完全に、バスと、わたしたちね」

「だから神様に見放されないように、日々神様と自然に感謝して、つつましく暮らしましょう、ってことらしい」

「わたしたち、世界を救うと思われてるのかしら……」

「村同士の争いを収めてくれるくらいには思ってそうだね」

「申し訳ないわね」

 村人が付け足すように何かを言う。

「上の村には気をつけて……だってさ」

「え?」

「もともと信仰心がないらしいよ、上の村を作った人には。野蛮で、残酷なやつだって言ってる」

「嫌な情報ね……」

 礼を言って再び歩き出すと、独特な生臭い匂いが鼻をついた。

「この匂い……」

「さっき食べたお肉にかかってた、タレの匂いに似てるね。またお腹へってきた」

「食べたばっかりじゃない……」

 辺りを見回すと、どうやら匂いはほら穴の一つから漂ってくるようだった。

「高羽さん、ちょっとあそこに入ってみたいわ」

「え? うん、いいけど」

 二人はうっすらと湯気が漏れるほら穴に近寄った。

「うっ……、こりゃなかなか強烈だね……。姫、ほんとに入る……?」

「ええ、確かめたいことがあるの」

 穴に入ると、魚の腐ったような臭気はますます強くなった。それに混じって、かすかに別の薬品のような匂いが漂ってくる。朝葉は穴の中にいる村人の後ろ姿に声を掛けた。振り返った村人は、一瞬驚いたように硬直したが、やがて状況を理解して二人を招き入れた。

 立ち込める蒸気に口元を抑えながら穴の奥に進むと、かろうじて届く光の中に、白い湯気をもうもうと吐き出す水の流れがあった。剥きたてのゆで卵のような、化学的な匂いが鼻をつく。

「これは……温泉だわ」

 奥の壁からどくどくと流れ出す熱湯の奔流が、一メートルほどの幅に削り出された溝を通って、壁に掘られた別の穴へと勢いよく流れこんでいる。その流れをわずかに分岐させて、手前に作られた岩の貯水槽へと熱湯を流し入れている。

「あれは、何かしら」

 つゆが指差した先には、熱湯がなみなみと湛えられた水槽の上に、太いホースのような物が何本も横たわっていた。そのホースの先端は水槽の外側に垂れ、空いた口からぽたぽたと透き通った液体がこぼれ落ち、下に置かれた壺型の容器に溜まっていく。

「高羽さん、あの液体が何か聞いてみて。そしたら、一回外に出ましょう。中毒しそうだわ」

「そう? なんかちょっと、気持ちよくなってきたんだけど」

「……出るわよ」

 つゆに手を引かれながら液体について早口で確認すると、二人は転げるように穴から出た。朝葉が名残惜しそうに中をのぞき込んでいる。

「一周回って、おいしそうな匂いに思えてきた」

「一周回ってないわよ。ここの住人の嗅覚で素直にそう感じてるんでしょ」

 つゆが傘を開きながら言う。

「それで、なんて言ってたの?」

「ネろンドの油だって」

「ネ……、何?」

「ネろンド」

「何それ」

「さあ?」

 つゆが眼鏡の下から眉間を押さえた。

「だって、姫が急かしたから」

「そうね……。悪かったわ」

 そこへ、穴の中から先ほどの村人が顔を出した。前側の二本の腕で、先ほど穴の中で見た極太のホースらしき物を抱えている。しかし、それがただのホースでないことは一目でわかった。一メートル半ほどの長さに沿って二列の小さな突起がずらりと並び、その一つ一つに吸盤のような丸い形状が貼り付いている。薄い灰色の表面はヌルヌルとして光沢があり、油を塗りつけたように滑らかだ。

 そして何よりも、そのホースは村人の巻きついた腕から逃れるように、ぐねぐねとのたくっていた。村人はその動くホースを二人に向かって持ち上げ、

「ネろンド」と、言った。


 完全に逃げ腰の二人を尻目に、村人はを抱え穴の奥に引っ込んだ。そうして岩の作業台にその大蛇のような身体を押し付けると、石の包丁で先端十センチほどをごりごりと切り取った。ネろンドは激しくのたうち回っていたが、切断面から黒っぽい体液をこぼしながら、やがて動かなくなった。

 村人は作業の手を止め、二人をじっと見つめている。

「なんか、こっち見てるけど……」

「見に来いってことかしら……」

 穴の奥から村人が表情の読み取れない視線をいつまでも投げ続けるので、二人は渋々作業台に近寄った。

 村人は待ちかねたように作業を再開する。まず息絶えたネろンドの身体を吸盤が下になるよう整え、上からぐいぐいと押しつけながら吸盤を作業台に貼り付けた。続いて手のひらほどの大きさの葉っぱで、表面のどろどろとした体液を何度もこそげ取るように拭き取る。その度に、飛び散った体液がつゆの制服に油っぽい染みを作った。ちらりとつゆの顔色をうかがうと、縁日のお面のような空虚な黒い穴が眼鏡の奥に透けて見え、朝葉をぞっとさせた。

 それから村人は石の包丁で、まっすぐに伸びたネろンドの背中と思われる側を、端から端まで一気に引き裂いた。タールのような黒い液体が、作業台を越えて、つゆの顔に飛び散る。つゆはゆっくりと、眼鏡についた液体を指でぬぐった。液体はレンズ全体に広がり、つゆの視界を覆う。音もなく眼鏡を外すつゆの顔を、朝葉は見ないことにした。

 村人は太い指と包丁を器用に使って、ネろンドの皮を丁寧に剥いだ。それから朝葉に向かって何かをつぶやいた。

「この皮はあとで使うんだって」

 露出した肉を、手早く数センチほどのぶつ切りにする。その肉片から、白っぽい脂身のような部分を切り離していく。残った半透明の肉を、薄く一切れ削いで、太い指につまんで二人の前に差し出した。まさにそれは、ついさっき食べたばかりの刺身だった。

 朝葉はつゆの顔を一瞥すると、すぐにその肉を自ら受け取って、口に入れた。

「ああ……、おいしいね。複雑な気分だけど」

 朝葉はのたうち回っていた蛇のような生物を思い浮かべながら、村人に礼を言う。村人はそれを聞いて満足そうに作業に戻った。

 次に村人は、剥いだ皮の切り口を、小さな骨のような針と細い革紐を使って縫いはじめた。外見に似合わず繊細な仕事ぶりで、すぐにネろンドの皮で仕立てたホースが完成した。空いた口の片側を縛り、もう一方の口から、よけておいた脂身をさらに細かく叩いて詰めていく。すべて詰め終わると、羊歯のような細かい歯の植物を詰められるだけ詰め、少し口径に余裕を残してゆるく縛った。村人は身振り手振りを交えながら朝葉に説明する。

「これをお湯の上に置いといたら、中で脂身が溶けて、ネろンドの油が取れるってさ。最後に詰めた草は、油を濾して上澄みだけを抽出する役割と、さわやかな風味をつけるためらしい」

「わかったわ。お礼を言っておいて」

 いつのまにかきれいになった眼鏡をかけ直し、つゆが足早に洞窟を後にした。


 朝葉が礼を言って穴を出ると、既につゆは傘を開き雨の下に立っていた。白い制服には書道筆を振り回したように黒い斑点が飛び散っている。

「ええと……、どうする? まだ、聞き込みする?」

「そうね、帰りもまた時間がかかりそうだし、一旦戻りましょうか。最低限、聞きたい情報は聞けたし」

「りょーかい」

 来た道を戻りはじめてすぐに、向こうから歩いてきた村長に出くわした。うやうやしく身をかがめる村長と朝葉の間に、短い挨拶が交わされる。

「そうだわ、上の村のバス停の正確な位置を聞いておいた方がいいんじゃないかしら」

「そうだね、聞いてみる」

「抜け道がないかも聞いてみて」


 会話はしばらく続きそうだった。つゆは垂直の大地を見上げる。頭上の彼方で、灰色の壁面が白いもやの中に消えている。

「市井さんは、大丈夫かしら」

 声にならないそのつぶやきは、止むことのない雨に洗い流されていった。

 

 

 

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