白地図を巡る
僕は気づけば、白い靄の中にいた。
自分がこれまで何をしていたのか記憶を辿っても、何もわからない。それどころか自分が何者かもわからない。記憶喪失ってやつだ。
「前に進んでくださいー!」
大音量で飛んできた声につられて、僕は前に歩く。靄ではっきりとは見えないけれど、僕の前にも後ろにも人がいて、運動会の行進のように縦一列に並んで歩いていた。
止まって歩いてを気が遠くなるほど繰り返していると、僕の前を歩いていた人の気配が掻き消えた。残されたのはふわふわしたミルク色の靄だけだ。
僕も同様に消えてしまうのだろう。
「これを」
真っ白な手がぬうっと現れて、僕のズボンのポケットに紙切れを入れた。
手だけで人の姿はない。
僕はまた一歩踏み出すと、何もない空間を踏んだ。背中を手で押されて靄を逆さまに落ちてゆく。
真っ白な手が靄の中から飛び出して、テーマパークのジェットコースターに乗る前みたいに手を振っていた。
僕は青のベンチに座っていた。頭から真っ逆さまに落ちていったのに、五体満足でベンチに座っている。
足元にあるスーツケースを開けると、男性ものの服が数日分入っていた。
「あなたが今回のお客様かね」
丸々太った男性に話しかけられた。男性の頭部はハトだった。
「あの……」
「この町では容姿に言及してはいけないんだ。君が私の顔について思うことがあっても、胸にしまっておきたまえ。私も君の顔について何も言うことはない」
僕は自分の顔をおそるおそる触った。モフモフしている。
「私はここの町長をしている。君が滞在する家に案内しよう」
町の住民の顔はみんな動物や花だった。動物園と植物園を一度に回っているみたいだ。
指差すのを我慢して、僕は町長のあとについていった。
「ここが君の滞在する家だ」
町長は赤い屋根の小ぶりな家に案内してくれた。僕はなぜだか既視感を覚えた。町長に案内される前から、僕が住む家だと分かった。
「滞在っていつまでですか? ここはどこですか? 僕は死んだんじゃないですか?」
僕は矢継ぎ早に町長に質問をした。あの白い靄では体も心も死に向かっていたのに、この町では若者のように気力で満ち溢れている。
「ここは天国でも地獄でもない。死後の世界ともまた違う。例えるなら『保留』の町だ。滞在日数は人による。この町を去る日は、君は誰に言われるまでもなく自ずと悟るだろう。私のように、死んでずっとこの町に留まる者もいる」
町長の説明に淀みはない。
「君は自分のことを思い出したかい?」
「いえ何も」
「地図をもらっただろう。見せてみなさい」
白い靄の世界で突き落とされる前に、もらった紙をポケットから出した。
真っ白な紙だ。
町長が紙を空にかざすと、ごうごうと風が吹いた。風がやむと、紙には一筆書きされたような、まあるい楕円が浮かび上がった。
「この町の白地図だ。あとは君が更新していきなさい」
「はあ……」
「私は町長室にいる。用があったらそこに訪ねてくるように」
またごうごうと風が吹いたら、町長はいなくなった。
家にはなんでも揃っていた。家具は備え付けで、テレビもベッドもある。冷蔵庫の中身だけは空っぽだった。
洗面所に鏡があった。僕の顔はあの白い靄で覆われていた。
振り払っても、ずうっとまとわりついてくる。
僕は何者だったんだろう。
どうもこの家の中も見覚えがある。リビングの椅子の脚に引っかき傷があるのも、『そういうもの』として知っていた。
しばらくして町の散策に出かけた。
「らっしゃい!らっしゃい!」
ねじり鉢巻きを巻いたキリンが客の呼び込みをしている。
この町に来て、空腹を思い出した。
料理はしないけれど、瑞々しい果物は好きだ。
僕は八百屋で果物を物色して、ブドウを一房買うことにした。お金は……この町の通貨はなんだろう。
「いくらですか?」
「うん? 兄ちゃんこの町に来たばかりなんだね。お金はこの町にはないよ。好きなだけ持って行った持って行った!」
僕は手にブドウをぶらさげて、八百屋を出た。
僕は町を回りながら、一粒ずつブドウを食べていった。ブドウに種はない。皮ごと丸ごと飲み込んで咀嚼する。
僕はふと後ろを振り返った。
ブドウの食べ方について小言を言われた気がした。
べたべたになった手をハンカチで拭こうと、ポケットに手を突っ込んだら、また白地図が出てきた。
思い立って町長のように白地図を高々と掲げ、風の訪れを待つ。町の白地図の中に八百屋が出現した。ブドウのマークもある。
町長は町を去る日は、自ずと分かると言った。その日まで、僕はこの町から出られないということになる。
やることもないので、白地図を埋めていくことにした。
この紙はどこに置きっぱなしにしても、僕のポケットに相棒のように戻ってくる。
気味が悪いとは思わなかった。
保留の町を巡って、地図を風に浴びせて街並みを更新していく。
ライオンが経営する喫茶店、上質な革の鞄屋、カスミソウでいっぱいの花壇。
引っ越したての町を探検するように、僕は毎日新鮮な驚きを味わった。
そして隣に誰かの気配を感じて、さっと振り向くのだけれどもやはり誰もいない。
ずっと昔にも誰かと、町を巡った気がする。
僕は小さなサボテンがたくさん売られている雑貨屋に入った。一週間に一度水をやれば、勝手に育ってくれる。
『ずぼらなあなたでも育てられるわね』
耳元でくすくす笑う声が聞こえた。
サボテンの花から風が吹いた。僕は急いで地図に風を当てた。地図に雑貨屋が記録される。
僕はサボテンを家に持ち帰った。
白地図を埋めていくたびに、誰かの輪郭が形作られていく。
「ああどうも。地図は順調かい?」
僕は町長を訪ねて、町長室へ行った。町長は首を左右に振って、座り心地のいい椅子を勧めてくれた。
「順調です」
「そのようだね」
町長は地図を見て、感心したように唸った。
シラコバトの秘書が紅茶を淹れてくれた。
町長は角砂糖をティースプーンでくるくる溶かす。
『紅茶は温度で美味しさが決まるのよ』
懐かしい声に囁きかけられた。僕は薫り高い紅茶を飲む。
「僕は一人でこの町に来たんでしょうか」
「あの日の入町記録には君だけだ」
僕は地図を埋めると、だんだん誰かの気配が濃くなっていくことを話した。
最初は性別不詳だった声が、柔らかい女性の声で固定された。女性は僕にことあるごとに話しかけ、僕はそのたびに心の奥底の火打石をカンカンと叩かれる。火が付く前に火花が消える。
「お客人は稀に『もう一人』連れがいると話す人もいる。君はその人が気味悪いとは思うか?」
「思いません。懐かしく楽しい何かを伝えてくれるのです」
「ほっほっほ。それならば結構」
町長は優しく微笑むと、僕に地図を返してくれた。
「君の町もいい町だね。私の町には鞄屋がないから君の町が羨ましいよ」
「どういうことですか?」
町長はどこからともなく、地図を取り出した。町の輪郭は僕の地図と同じなのに、そこにある物が違う。
「山なんてありましたっけ?」
「私の町だとあるんだよ」
「どういうことですか?」
僕は自分の地図と町長の地図を見比べた。
町長の地図はもう隙間なく埋まっていて、商店街の一つ一つのお店まで書き込まれていた。
僕の地図の位置には商店街はない。商店街の代わりに住宅地が広がっている。
町長の地図にある山は、僕の地図では湖だ。
「君の町と私の町は違うんだよ。私たちに限った話ではない。この町の住人はそれぞれ自分だけの町を見て生きている」
そんなこともあり得るか。
不思議なことをいっぱい体験したこともあり、僕はすんなりと納得した。
「町長さんは誰の町でも町長なんですか?」
「私は誰の町でも町長さ」
町長は上機嫌に笑った。
僕は料理をすることにした。
八百屋で野菜を、肉屋で豚肉を、養鶏場で卵を、米屋で米を手に入れた。
朧げに女性のシルエットが見えるようになり、彼女が指差すものを次々に鞄に入れた。
女性の言いなりになることが不快だとは思わなかった。女性は美味しいカレーを作ろうと主張している。僕のことを考えてくれているようなのだ。
僕も女性に話しかけたが、こちらの声は全く聞こえていないようだった。
『調理道具は一通りあるはずよ。ピーラーは二番目の引き出しに、まな板はラックに立てかけたもの』
「なんで分かるの?」
『鍋は炒めると焦げ付きやすいから、先にフライパンで食材を炒めてよ』
女性は物体に触れることができず、僕も彼女に触れることができない。
「あなたの名前は?」
『ゆで卵を先に作っておきましょうかね。鍋を出して』
「僕のことを何か知っているんですか?」
『ほらほらお箸で卵をかき混ぜないと。黄身の中心が傾いちゃうでしょ』
一方通行の言葉を投げかけあって、僕らはカレーを作る。
「ねえ、僕たちは前にもこんなことを……」
『辛口にする? 甘口にする? あなたは辛口の方が好みよね』
女性は楽しげに、カレー鍋を眺めている。
その通り。僕は辛口のカレーが好きだ。今思い出した。
「君……は甘口が好きだったよね」
僕はカレーを甘くする方法を知らない。ルウ通りに辛口のカレーが出来上がった。
皿にカレーを盛る。僕の隣のテーブルにも皿を置いてみた。
初めて作ったカレーはなかなかに美味しかった。
冷めていくばかりで減らないカレーにはラップをして、冷蔵庫にしまった。
『喜助……』
女性のシルエットは男の名前を呼んですすり泣いていた。
保留の町に滞在して一か月が経った。女性の姿形は相変わらずぼんやりとしたままでも、彼女を愛しいと思う気持ちははっきりしていった。
地図を埋めるうちに、すかすかだった僕の中身が充実する。
地図を埋めるうちに、どこかの世界の記憶が蘇る。
『さあ今日もいい日になりそうね』
「そうだね」
よく晴れていて、雲一つない晴天だった。
この町で訪れていない場所は一つだけ。今日行けば終わる。
『どこに行くの?』
女性は物珍しそうについてきた。よく目を凝らすと、女性は麦わら帽子をかぶっている。
「いいところだよ」
僕はそっと彼女の手を引いて、繋いでいるということにした。
彼女の指には指輪が足りない。あるべきものを戻そう。
町といえ宝石店は立派なものだった。
ガラスケースの首飾りやダイヤモンドは、手を引っ込めてしまうくらい荘厳な光を放っていた。
僕は見覚えのある指輪の箱から指輪を選んで、そのまま女性の指に嵌めた。神様が空気を読んだように、この時だけ僕は彼女に触れられた。
『ああ。なんて素敵なの』
女性はうっとりと指輪を眺め、僕を振り返った。
指輪からごうごうと風が吹いた。僕は地図を風になぞらせて目を閉じた。
女性の唇が僕の唇に柔らかく触れて、それからなんにもなくなった。
宝石店も女性も声も跡形もなく消えた。
残ったのは地図と晴天だけ。
ごうごうと風が吹いて、八百屋を喫茶店を、肉屋を巻き込んで更地に変えていく。
「喜助さん、全部思い出したようですな」
「町長さん……」
町長は吹きすさぶ風に目を眇めて、そこにあった町を眺めている。
「僕は、この町はどうなってしまうのでしょうか」
「どちらもあるがままの姿に帰るだけのこと」
町長は葉巻に火をつけた。
「君が全てを思い出したら、君は現世に帰る。思い出せなかったら、このまま常世へ行く。最初からそう決まってたのだよ。保留は永遠ではないのだから」
「僕は……妻と同じところには行けないのでしょうか」
「奥さんはそれを選ばなかった。君にはまだやることがあるのでしょうな。ほっほっほ。君はそれはそれは可愛らしい猫さんだったよ」
町長は穏やかに笑う。
僕の頭から毛がボロボロと落ちた。人間に戻ってゆく。
さようなら、僕の好きなものたち。
私は目覚めると、病院のベッドで眠っていた。
病室のカーテンを開けると、白い鳩が群れをなして遠くの町へ飛び去っていくのが見えた。医者は脇見をしていた車に撥ねられて、生死の境を彷徨っていたと説明した。
私は妻に十年前に先立たれてから、ずっと一人で生活してきた。
目から涙が滴って、すーっと静かに滴って頬を流れてゆく。
醒めて欲しくない幸せな夢を見ていた。
残された私は現実を生きていかなければいけない。
杖がなければ十分に歩くことはできないけれど、退院したらとうに廃業してしまった八百屋を、とうに他人が住んでいる町を訪ねに出かけよう。
そうして話すことを命尽きるまでたくさん作って、妻と同じ場所に行こう。
短編置き場 鶴川ユウ @izuminuma
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。短編置き場の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます