少年の恋は 彼女の後に

志央生

少年の恋は 彼女の後に

物語において、偶然は存在しない。すべては起こるべくして起こり、なるべくしてなるのだ。つまり、偶然ではなく必然性が物語の根幹をなすわけだ。

 だが、待ってほしい。もし仮にこれが現実と考えた場合、すべての起こり得る偶然は必然へと昇華したとしよう。そうなると、ストーカーという存在を認めることにならないか?

 つまり、必然ばかりではなく偶然も存在しなければリアリズムに欠けてしまうわけだ。

 ゆえに宣言しよう、私がこうして彼女と出会ったのは必然ではなく、単なる偶然であり、決して後を追いかけストーキングしていた訳ではないと。


 私が彼女と出会ったのは、忘れもしない今から8年も前になる。私が住む町に、彼女の一家が引っ越してきたのだ。近所へのあいさつ回りをするために、親に連れられ彼女も私の家を訪れた。親の後ろに隠れて、こちらに顔を出すこともない彼女に抱いた私の思いは、嫌悪感だった。

 出会いなどはこんなものだろう? それに、最初は嫌悪感だったが今では彼女のことが好きでたまらない。要するに、どんな負の感情も恋する心の前では何の意味も持たないということだ。無理に理解されるつもりもない、だから私の昔話をもうしばらく聞いてもらおう。

 私が彼女に恋心を抱いたのは、彼女が引っ越してきてから一年が経ったころだ。同じクラスになったことがきっかけで少しだけだが言葉を交わすようになり、私は彼女の優しさに惚れてしまった。なにが言いたいかは分かっている。なんという、ちょろい男なのか。自分でも理解しているほどだ。

 こうして、私が彼女への恋心を抱いてから7年が経つ。私の思いは胸に秘めたまま今日も今日とて彼女の後を歩いて帰宅するのが日常になっていた。

 彼女の後ろ、距離にして15メートル。これが私と彼女の距離感だ。前を歩くわけでもなく、隣を歩くわけでもない。彼女の背を追う、この位置が私にとっては安心する場所になっている。

 いつもどおり、川沿いの道を歩きながら私は前を歩く彼女の背を見つめていた。肩まで伸びた黒髪が歩くたびに揺れる。顔は見えず、いまどんな表情を浮かべているのかはわからない。きっと、今私が見ている世界より、よほど綺麗なものを見つめているのだろう。決して、彼女の黒髪が綺麗ではないと言っているわけではなく。私の眼光に見える黒髪は美しいなどという言葉では形容しがたいのだ。そう、ある種わかる人にはわかる芸術に近いかもしない。ゆえに私から見た彼女の髪は世界の芸術に並ぶほどの魅力を持っているということだ。

 突然彼女が足を止める。私もそれに合わせて静止して彼女の動きに注意していると、何かを見ていることに気が付いた。私は彼女の視線の先を確認すると段ボール箱に入った子猫がいることが分かった。昨日の帰りまでは見かけなかったことから、昨晩か今朝早くに捨てられたのだろう。かわいそうに、と思いつつ私は立ち尽くしていた。

 すると彼女は子猫のそばに行き、優しくその頭を撫でた。その慈しむ彼女の姿は私の眼には聖母のよう映ってしまう。だが、残念なことに彼女も私もこの子猫を拾ってやることはできない。さしていうなら、今は学校に行く道中であり、校内への動物の持ち込みは規則に反しているためだ。

「ごめんね」

 彼女は悲しそうな顔をして子猫の頭から自分の手を除ける。気持ちよさそうにしていた猫は去っていく彼女に可愛らしい鳴き声を響かせ呼び止めようと必死になるが、彼女は一度も振り返ることなく歩いていく。私も止めていた足を動かして彼女の背を追いかける。子猫の前を通り過ぎる前にちらっと、見る。そのこの世の残酷さを知らぬ無垢な目が私を見つめていた。


 彼女は学校において孤高の存在である。それは彼女の美しさに学校中のだれもが平伏し、敬服している、という訳ではない。あえて言うなら彼女は少しばかり特殊なのだ。

 思い返せば、彼女の特殊ぶりは小学校のころからである。私が淡い恋心を抱いたころにはすでに彼女の特異性は開花していた。それがなんなのかと問われれば、彼女を盲信する私の口からはとても言えない。というよりも私には関係ないことだ。そう、愛という絶対的な感情の前に好きな相手の特異性など些末な問題である。

 だが、これはあくまでも私だけの話なのだ。集団において浮いた人間は攻撃の的にされる。その標的にされたのが、私が盲信してやまない彼女だったということだ。

 もちろん、私が黙って彼女が孤高で居続けることを傍観しているほど腰抜けではない。一度は剣を取り、集団に切り込んでいくほど血気盛んだった。その結果、この学校にはもう一人孤高の存在がいる。そう私である。私の場合は孤高ではなく、孤独なのであるが。

 そのため、私に校内で話しかけてくる輩は誰一人として存在しない。いや、少しばかり訂正しよう、誰一人ではない。ただ一人話しかけてくれる女性がいる。それは同じ校内で孤高のポジションに立っている、彼女であるわけだ。これもまた、私の中で彼女に心酔要因かもしれない。それでも、交わす言葉は「おはよう」と「また明日」の二言のみ。質素にして簡素な言葉のやり取りだが私にとっては、この二言を聞くために学校に来ている節がある。

 そして、もう一つ私にとって幸運といえるのは彼女が私の席の隣ということだ。こればかりは、神様という不確かな存在に感謝せざるをない。授業中は彼女の横顔を見るのに必死で勉強などそっちのけだ。これが災いしてこの間のテストでは過去最悪な点数をたたき出したのはここだけの話になる。


 ○


 運命とは不連続性の果てに存在するものだと思う。それは、確定した未来などなくいつも激しく未来は書き換わっているからだ。だから、わたしは自分に自信を持っている。

 兎にも角にも、何が言いたいのかわからない人のために、簡潔に伝えるならばわたしには気になっている人がいるという話なのだ。もちろん、これがわたしの一方的な思いであり、それが彼にとっては迷惑かもしれない。それでも、わたしは彼のことが好きでたまらないのだ。仮に、恋という感情の重量を量ることができたとしてもどの機械も測定不能の数値をたたき出すだろう。それほどまでに、わたしの彼の思う気持ちは大きいということだ。

 思い返せば、わたしのこの気持ちが芽生えたのは八年も前に遡ることになる。


 彼との出会いは、わたしが彼の住むこの町に引っ越してきた時から始まる。近所へのあいさつ回りだと母親に連れられ各家々を訪れていたときだった。わたしはとある家で彼と初対面した。あのとき、わたしは咄嗟に母親の後ろに隠れてしまうという失態をしてしまう。当時のわたしは活発で誰とでも遊べるほど社交性があったはずなのに、彼を見た瞬間にわたしの顔が熱くなり心臓が高鳴ったのを今でも覚えている。

 何のことはない、ただ一目惚れなのだ。しかし、厄介なのは彼を思い続けて8年という歳月が過ぎていたこと。初恋であるところの彼への思いを終わりにしようとしたが上手くいかずに年月だけが過ぎた。

 気が付けば、彼の目に留まろうと必死になって行った数々の奇行がわたしの周りから人を遠ざけていた。その結果、わたしには友人と呼べる人間がいない孤高の存在になっていた。いや正しく言えば孤独なのだ。だが、わたしにとって救いだったのが彼も同じく学校内では孤高の存在になっていたことだ。その理由は知らないが、わたしが気付いた時にはすでに彼も私と同じような扱いを受けていた。こうして、妙な親近感をわたしは密かに感じているわけで。

 さて、わたしの個人的かつ恋の話はここまでにして今朝会った猫の話をしよう。


 わたしはいつも通り彼の家の前をさも偶然のように通りかかり歩いて学校に向かっていた。時間は決まって7時40分、彼はその時間帯になると玄関から出てきて私の後を追うようについてくる。わたしはこのためだけに彼が家を何時に出るかを調べ上げた。その結果分かったのが、先ほど述べた時間だ。

 彼がわたしの背後を追ってきているのを感じると、ついぞ私の表情筋が緩くなってしまう。その時のわたしは頭の中で妄想にふけっている。彼が実はわたしのことが好きで、こっそりとつけている。そんなありもしない妄想をしながら川沿いの道を歩くことが習慣になっていた。そんなわたしの視界に段ボール箱が見えた。そこに小さな泣き声で鳴く子猫が一匹いることが分かった。

 わたしは足を止めて、その猫を見ていた。不意に後ろをついてきていた彼の足音が止まったことに気が付く。どうやら、わたしが子猫を見ていることを察したらしい。ここでわたしは考えた。彼の目に映るわたしのイメージを向上させる方法。それは、ギャップ萌えだ。この答えにたどり着いたわたしは別段好きというわけでもない子猫に近づき頭を撫でると、気持ち良かったのか目を閉じて頭をこすり付けてきた。そのあとすぐに手を放して子猫の前から立ち去ろうとして、一言だけ謝罪した、「ごめんね」と。


 こうして、わたしは彼に響いたかわからないギャップ萌え攻撃を敢行し学校についた。自分の教室で、席に荷物を降ろすと同時に彼が隣の席に座る。そこでわたしはこの日初めてとなる言葉を彼に投げかける。

「おはよう」

 その一言をかけると彼は、少し困った顔をして「おはよう」と返してくれる。そのあとの展開は一切ない。各々が自分の時間を過ごす。無論、孤高の存在であるわたしに声をかけてくる物好きなどおらず、それは彼も同じことのようで互いに本を読みふけり授業までの時間をつぶす。

 そうしてようやく始まった授業でわたしは彼の勉強する姿に現を抜かす。その瞳が、黒板を向いている間は見つめ、彼がわたしの視線に気づきそうなタイミングで黒板を見る。これを繰り返していた結果、この間のテストで自分史上最低点をたたき出してしまったのは秘密である。

 

 ○


 私は崇拝する彼女の凛とした背の魅力に引き付けられるがまま帰り道を歩いていた。道は変わることなく、今朝と同じで川沿いを一定の距離を保ったまま彼女と共に進む。ふと、私の視界に段ボールに入った子猫が映りこむ。どうやら、私たちが学校という閉鎖的空間に閉じ込められている間、この猫も長方形の箱の中に閉じこもっていたようだ。それにしても、いまだこの世の穢れがないほど純真無垢な瞳をしている。

 私は何を思ったか彼女の背を追う足を止めて子猫へと近づいた。そして、抱きかかえるとそのまま家に持ち帰ったのだった。

 一体なぜこの猫を拾ったのか、私は自身に問いかけ続けていたが解を得ることはできなかった。女神とも言える彼女よりも、道端に捨てられこの世を恨むことすら知らない子猫を拾うなど気が狂ったのかと私自身を疑ったものだ。

 だが考えてみればこの猫の頭を今朝、彼女はその情愛に満ちた手で触れていた。つまり、今私がこの猫の頭を撫でれば彼女の温もりを間接的にでも感じることができるのではないだろうか。そうだ、そうに違いない。私は食事を与えた猫の頭をそっと触る。

 ふんわりとした毛が私の手に反発して押し返してくる。その感覚というのは病みつきになりそうなほど心地よいものだ。さらに、ここに彼女の手が触れたと考えるだけで永遠に触っていられそうな気がしてくる。しばらく私は彼女の温もりと子猫の柔らかい毛を堪能した。

「いつまで触っておられる」

 私の耳に突如として声が聞こえた。それは今までに聞いたことのない、涼やかで幼さを感じさせるものだった。辺りを見渡すが、ここは私の家で自身の部屋である。中には私と子猫以外には誰もいない。とするならば、今聞こえた声は妄想たくましい私が生み出した幻聴ということになる。

 だが、いかに私が妄想することにおいて他を圧倒するほど秀でているとはいえ幻聴が聞こえてしまうほどではない。ならば私に今声をかけてきたのは誰なのだ。

「聞こえていないのか、いつまで触っているつもりだ」

 再び聞こえた声は、怒りが篭っていた。どうやら私はこの声の主を怒らせることをしているようだ。思い当たる理由など私には無いし、まずこの声の主が誰なのか自体分かっていない。ふと、私は今しがら聞こえた言葉を思い出す。「いつまで触っているつもりだ」と声の主は言った。そこで私は撫で続けていた子猫を見ると、不満げに私を見上げていた。

「やっと気づかれたか」

 私が撫でていた手を離すと、猫は語り掛けてきた。どうやら私の頭はついにおかしくなったらしい。人語を話す猫などこの世に存在するわけがない。と、するならば私の精神を疑うほかないではないか。

もちろん、私自身はなにも異常はないと思っている。それでも、こうして人語を話す猫というものが出てきてしまうのだ。病んでいるに違いない。

「旦那、何を寝ようとしてるんで」

 子猫は布団にもぐった私を揺さぶってきた。どうなっている、私の幻聴と子猫の行動が重なり過ぎている。私は頭までかぶっていた布団から顔を出して猫を見ると、愛らしい顔をのぞかせていた。


 こう見えても私は順応するのが早いと定評がある男だ。そのため、子猫が人語を話すと言った世にも奇妙な出来事さえ受け入れていた。

 私の部屋にある折り畳み式の机に乗り鎮座する猫を私はじっと見つめていた。まったくもって何故こんな面倒な猫を私は拾ってしまったのかと後悔していた。普段であれば私はとっくに寝床で横になり、今日一日の彼女の行動を思い返し悦に入ってるのだ。それが今日に限り子猫の相手をせねばならないとはどういう了見か、と問いただしたくなる。

「旦那、顔が怖いです。わらってください」

「無理だ、私の顔はいつもこんなものだ」

 すでに猫との会話に慣れつつある。二時間にも及ぶ、猫との攻防戦の賜物ともいえる。猫は終始笑っている。が私は終始膨れっ面だ。理由など語らずともいいことだ。だが、私はこの猫とは相いれないことだけはわかっていただきたい。

「それでは旦那、命を助けてくれたお礼をさせてください。できることであればお役にたたせていただきます」

 猫は深々と頭を下げる。その姿は、人間で言うところの土下座に当たるのだろう。残念なことに猫の土下座はただの伏せをしただけにしか見えなかった。

 さて、この猫は人語をしゃべることは分かったのだが、つぎに言い出したのはお礼だった。今の私が求めるのは、この猫としゃべり無駄に過ごしてしまった時間を返せということくらいだ。

 しかしながら私も良識というものを持ち合わせている。ゆえに、ほかの形でこの猫にはお礼をしてもらう。

「実際どのくらいのことならできる?」

 子猫の言うことを鵜呑みにしているわけではないが、念のための確認はしておく。これでできることの範囲を見極めよう。

「そうですね、できる範囲と言われると曖昧です。旦那の願いを言っていただければできるかどうかを判断します」

 私の中で立ち込める苛立ちを抑えて、自分の中で願いを考える。しかしながら、頭に浮かぶは彼女のことばかりだ。いつもの習慣を怠るだけで私の体は彼女のことだけでいっぱいになっている。禁断症状ともいえる、がこれも一つの恋愛感情だと私は思っている。そう、愛の形など人それぞれ、それこそ十人十色である。

 私が頭の中で、誰かに言い訳をしているとある考えが頭をよぎる。私と彼女が付き合えたなら、と何度も妄想したことがある。今ならその妄想を実現できるのではないか。

「なら、私と彼女を付き合わせることは可能か?」

「無理です。人の心を変えることはできません、があなたとの縁をつなぐ手伝いはできます」

 子猫は大見得を切る。それを聞いた私は頷き、猫に私と彼女との縁をつないでもらうことをお願いした。


 ○


 子猫を拾い一夜が明けた。目覚めた時には子猫の姿はなく、夢であったような感覚を覚えた。しかし、部屋の散らかった惨状を見て私は現実であったことを悟った。

 私には日課ともいえる行動がある。それは朝食を食べ終わった後、自室にて家の外を見ることだ。カーテン越しに外を見て、彼女が家の前を通り過ぎるのを待つ。これを始めてからもう5年ほどになる。いまでは、ベテラン刑事の張り込みくらいのすごみがあるのではないだろうか。

 かくして、私の朝は始まるわけだ。朝の登校は彼女のあとを、学校からの下校は彼女のあとに。こうした一方的な関係性を私は続けている。これが少しばかり歯がゆく思っていたのは事実なのだ。だからこそ、子猫のお礼というものに頼ったのだ。

 私としてもそんな姑息な手は使いたくはないが、私自身が行動できるほど器量の大きな男でない。こんなことでもしなければ、彼女との距離は縮まることがないことを知っているからこその苦肉の策だ。

「だが、いったい私と彼女をどう取り持つつもりだ」

 いつものように彼女の後を歩きながら私は独り言をつぶやいた。彼女との距離は15メートル、私はこの7年間で一度たちともこの距離感を詰めたことがない。一歩でも踏み込めば壊れてしまうほどの繊細な間隔だと私は思っている。

だが、私は7年間という長い年月を経て、ついに踏み込もうとしている。たとえ、それが人の手、いや猫の手を借りてだが。これは進歩と言っても過言ではないほどの私の心境の変化である。

私は猫がもたらすであろう彼女との縁に期待して歩く。



彼の様子が少しばかりおかしい。そう思ったのは今朝のことだった。彼女の勘、もとい女の勘というものだ。わたしは探るように後ろを歩く彼の様子を手鏡で確認していた。

「いま、口が動いた?」

 わたしは驚くべき光景を目撃してしまった。彼がこの7年間、後ろを歩いているとき口を開いたことなどない。それが今日、彼は口を開いたのだ。

 いったい何と口にしたのか、そればかりが頭の中を埋め尽くしていく。今からでも、彼の元へ行き先ほど口にしていた言葉はなんだったのかと問いただしたくなる。だが、わたしの脳は非常に都合よくできている。彼の先ほどの言葉は私について思っていることを口にしたのではないだろうか。

そう、もしかしたら「実は君のことが気になって」や「もう止まらない愛のラビリンスから攫いに来たよ」などと、おおよそ彼が言わなさそうな言葉を妄想する。彼はキザなセリフなど使わない。これはわたしの勝手な彼の想像ではなく事実である。彼は簡潔な言葉で会話する。その冷めたような言葉がわたしには心地いい。

さて、ひとしきり妄想を終えたわたしはもう一度手鏡で彼を確認する。一見するといつも通りの彼であるが、どこか嬉しそうな顔をしている。彼のうれしそうな顔を見ると自然とこちらまで嬉しくなる。これが彼の持つ魅力の一つかもしれない。ただ、この意見に関してはわたしだけの感性のようだ。



気が付けば、すでに学校は授業を終えて下校時刻になっていた。その間になにか彼女との縁をつなぐ出来事があったかと聞かれれば何一つなかった。

「何も起きずか」

 私は誰にも聞こえないほど小さな声で言葉を漏らす。ちらりと隣の彼女を見ると、着々と帰りの身支度を進めている。何も起こらなかった、そもそも子猫の言葉を鵜呑みにして期待している私も随分と馬鹿だな。他の任頼みでは何も変わらない。そんなことは昔から知っているというのに。

 自分の浅はかさを恥じている間に彼女は教室を出て行ったようで、私も慌てて彼女の後を追いかけていった。すこし歩くとすぐに彼女の後姿を見つける。昇降口から出ていく彼女を眺めていると、彼女を囲むように複数の男子生徒が現れる。

その特異な状況に私は驚愕した。前にも述べたことがあると思うが私も彼女もこの学校において、孤高の存在である。そんな彼女に話しかけてくる者はいない。それが今日に限り、声をかけてくるなど少しばかり変ではないか。

私は下駄箱の陰に隠れて様子をうかがうが、どうも穏やかでない。彼女は眉間にしわを寄せて男たちを拒絶しているのは明らかだ。しかし、複数の男に囲まれれば彼女も成すすべなくどこかに連れ去られていく。私は、彼女を追おうと昇降口を出るがすでに男たちの姿はなくなっていた。

完全に出遅れた、あのとき物陰に隠れずに彼女を助けに入ればよかったのに。と公開をすることかできない。

「旦那、約束通り機会を用意しました」

 私の足元から昨日聞いた涼やかで幼さを残す声がした。声の主を見るために足元に視線を向けると子猫が一匹座っている。その顔はニヤケ顔をしている。

「いまのどういう意味だ」

「そのままです。今連れ去られた旦那の想い人を救出してください。そうすれば縁が結ばれます」

 子猫は立ち上がり「案内します」と言い歩き出す。私は言いたいことを飲み込んで猫の後を追いかけた。今は彼女のことが心配である。


 猫の後を追いかけてたどり着いたのは使われていない部室だった。この中にいるのかと猫に聞くとしゃべることなく頷く。私は若干の恐怖を抱きながら扉に手をかける。

「お邪魔します」

 私は扉を開くと、拘束された彼女が真っ先に目に入ってきた。その眼には、涙を浮かべていた。それは、そうだろう何もわからないまま連れ去られ拘束されれば抱くのは怖いという思いだけだ。

「てめぇ、何勝手に入ってんだ」

 扉の近くにいた男が私に凄んできた。しかし、今の私にはその凄味がまったくもって効果がない。私は平和主義者であることは言わずともわかるだろう。ケンカなどという物騒なこととは無縁の男だ。だが、どんな平和主義者もときには暴力に訴えるときがある。

 そう、信仰する女神を汚そうとする存在がいるのならば私のくだらない平和主義など投げ捨てることを厭わない。

 私は生まれてこの方、人を殴ったことのないこぶしを初めて振るうことになった。


 ○


 わたしはいったい何が起きているか理解できないままでいた。帰ろうと思った矢先に昇降口で柄の悪い男たちに捕まり、どこかの部室まで運ばれた。逃げ出そうと抵抗したが、男数人が相手ではさすがに分が悪く、拘束されてしまった。

 非力なわたしは、自分のこれからされるであろうことを考えて涙を浮かべていた。彼のために日々、手入れしてきた体がほかの男によって汚されてしまう。そう考えると涙があふれ出しそうになっていた。

 そこに彼が颯爽と合わられたのだ。

重く開いた扉から、顔を出した彼は拘束されているわたしを見てしまった。すごく恥ずかしかった。彼にこんな姿を見られてしまうとは、もうお嫁にいけない。だから、彼にもらってもらおう。彼が来てくれたおかげでわたしの体の純潔は守られた。

ただ、わたしを助けるために彼が傷つく姿は見たくない。来てくれたことは嬉しい。それでも彼が傷つくならわたしの体くらい差し出すくらい安いと思ってしまう。そんな彼に扉近くにいた男が凄む。今すぐにでも殴りかかりそうな勢いだ。

わたしは目を瞑ってしまった。室内に殴られた音が響いた、その音はたった一撃で収まる。わたしは目を開けることが怖くて、じっと目を閉じる。

「おおい、お前なにやって」

 別の男が驚愕の声をあげている。わたしは何が起きているのかを確認するために薄ら目を開く。

 そこに広がるのは私の想像とは全く違う光景だった。床に倒れているのは愛しの彼ではなくわたしを連れ去ってきた男たちだった。わたしの中で彼がさらに輝いて見える。そっと、彼がわたしに近づいていくる。まるでおとぎ話のお姫様のよう、閉じ込められたお城に王子様が助けに来るというベタな展開だが嫌いになれないような甘い状況。

 いつもなら、これがわたしの妄想で終わるのだが今回ばかりは現実で変えられない。もうわたしの頭はパンク寸前だった。歩いてくる彼がいつも以上にカッコよく、わたしは彼になんて声をかければいいのかと考えることに必死である。普段の妄想であれば泉のようにあふれ出るというのに、大事なときには何も浮かばない。

 彼は優しく、わたしの拘束を解いていく。そのときですら、わたしの近くにいる彼の感覚を味わおうとする卑しい女である。わたしを縛るものがなくなり、晴れて自由の身になったわたしは彼に俺を言おうとしたのだ。

「あ、あの」

 彼は私の顔をまじまじと見つめてくる。その顔の距離にわたしは動揺を隠しきれず、お礼さえいうのを忘れてその場から立ち去ってしまったのだ。


 ○


 こう見えても、私はかつて空手を習っていた。そこで習ったのは、無暗に人にこぶしを振るってはいけない、ということだった。それから、私は人に暴力を振ることのない平和主義者になっていた。

 つまり、私が目の前で倒れこむ男子生徒を生産することができるのは過去の自分の研さんのおかげでもある。ちなみに言う必要がないかもしれないが私が空手などという興味のない武道を習ったかというと、彼女のためである。幼少期の私は悪から大事な人を守るヒーローに憧れていた。そして、そのために武道を学んだ。

 生かされることはないと思っていたが、思いがけないところで使うことになった。それも彼女のためにという元々の目的のために。

 さて私は半分以上怒りにまかせて男を殴り、勝利を手にした。ここからが重要ではないのか、私が彼女との距離を縮めるなら今しかない。

 私はそう思い、彼女に少しずつ近づいていく。すでに彼女の目から涙は消えており、安どしているように見えた。いつもとは違う彼女の表情を見れたことに私は今すぐそこで飛び上がりたくなったが、平静を装い彼女のもとへ行く。

 彼女を拘束していた縄を解いて、私は彼女の顔を覗いた。頭の中は先ほど、拘束を解く途中で触れた彼女の手の感触と肌の繊細さであふれかえっていた。何とも言えない、手の弾力に、白く透き通る肌が彼女を神々しく見せていたが、触れた瞬間から彼女はさらに別次元の存在ではないのかと私の中で考えさせられた。これ以上先の存在なれば私は一生拝むこともできなくなりそうだ。

 こんなどうしようもない、私の思考を現実に戻したのは彼女の声だった。恥ずかしそうに、口ごもりながら「あ、あの」と声を発する。その透き通った声は、今から私に天啓でも下してくれる天使のようにも感じとれてしまう。だが、彼女はその先の言葉を口にすることなく、立ち上がり部室を出て行ってしまった。

 こうして私と彼女の縁は、微妙な形で結ばれた。

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