第35話
もう体調も元通りになってきた日、とうとうその日を迎えた。今までいろいろなものを視てきた。でも、視た日を迎えるのにこんなにも緊張するのは初めてかもしれない。そわそわとおちつかないまま、手元に視線を落とす。趣味だから、と言って許可をもらって刺繍をしているのはいいのだけれど、あまり進んでいない。
用意してもらった飲み物に口をつけるも、気持ちが落ち着くことはなかった。それはそうだよね……。あの日から聖騎士様は見かけていない。きっと王城で勤めを果たしてくれているのだろう。
この国の王位継承者をめぐる不安定な争いは軽くだけれど知っている。今ここで第二王子が暗殺でもされたら、疑いの目は第一王子に向く。だけれど、継承順位的に王太子は第一王子になる。そうなったら、きっと様々な思惑の元、王城が割れる。その結果として、いかに市井があれるか、私は知っている。絶対にこれは阻止しないと。でも……。
手を動かさず、思考ばかりが空回りしている中、ノックの音が聞こえた。一人になりたいと伝えたから、今ここには私一人しかいない。誰だろう、と思いながら返事をすると、入ってきたのはラシェットさんだった。
「ラシェットさん?
どうかされたのですか?」
「今少しいいかな?」
「もちろんです」
どうせ刺繍に集中もできなかったし。そう思って部屋に招くと、ラシェットさんは私の正面に座った。
「体調は?」
「もう大丈夫ですよ。
せっかくリミーシャさんから一週間のお休みを頂いたので、ゆっくりしているだけで」
「そうか」
そういうと、ラシェットさんは良かったと言ってほほ笑んでくれる。だけれど、その表情はどこか緊張をはらんでいるように思えて。内心少しおびえながら、用事を聞いた。
「実はね、今度結婚することになったんだ」
「結婚、ですか?」
思ってもいなかった内容に、きょとんとしてしまう。ラシェットさんが、結婚。……え⁉
「え、結婚されるんですか⁉」
「そう。
今度と言っても、もう少し先だけれどね」
「おめでとうございます!」
そ、そっか、ラシェットさん結婚されるのか。確かにどうなんだろうか、とは思っていたけれど。でも、今まで全然婚約している方がいる気配もなかったのに。
「それで、急なのだけれど……。
フィーアの体調さえよければ、明日連れてきてもいいかい?
君に紹介したくてね」
「私に紹介してくれるのですか?」
結婚する前に? 律儀だな、と思っていると当たり前だろ、と返された。いやいや、決してそれは当たり前ではないと思うんだ。だって私はただの居候だから。
「少ししたら彼女もこの家で暮らすようになるから、ぜひ仲良くしてあげて」
「そ、それはもちろん。
でも、私ここにいてもいいのですか?」
新しい家族ができるのに。まだこの家に私の居場所はあり続けるのだろうか。そう思っての発言に、ラシェットさんは怒ったような顔をする。
「当たり前だろう。
フィーアはもう家族の一員なんだから」
「ラシェットさん……」
「休んでいるところ、急にすまなかった。
また後で」
「はい」
私のことを、家族だと言ってくれた。本物の私の家族は弟以外、あんなにも冷たかったのに。いつもいつも、この家は私にそんな温かさをくれる。私はこの家に何もあげられないのに。ああ、どうして私はこの家の本当の子供ではないのだろう。どうして、私は……。
ぐっと、一度強く目をつむる。ひとまずは、今日が終わってからだ。今後どうしたらいいのかは、それから考えればいい。
それよりも、楽しいことを考えよう。ラシェットさんへのお祝いは何がいいかな。誰かに純粋な気持ちで渡すのは初めてだから悩んじゃう。せっかくだから相手の方とお揃いがいいかな。ちょっと無理を言うことになるかもしれないけれど、リンガー布店に頼もうかな。それに刺繍を入れて。そうだ、リベア君は元気かな。
そんなことを取り留めもなく考える。そうしていると、意外なほど時間があっという間に過ぎていく。明日相手の方を実際に見てから色とかいろいろ決めよう、そう思って布団の中に入り込む。ベッドの中で目をつむると、どうしても今王城で起きているであろうことに思考が行ってしまう。今日を乗り越えられたら。そうしたら、これからのことに向き合おう。
目をつむって、少し寝ては起きて。そんな浅い眠りを繰り返す。全然ちゃんと眠れない。仕方がないけれど、これは少しつらい。空がうっすら明るくなるまでそれを繰り返していると、不意に窓が開く音がした。慌てて目を開けて窓の方を見ると、そこには聖騎士様が立っていた。
「聖騎士様……」
「起きていらしたのですね」
その人はいつもよりもラフな格好で、困ったような笑みを浮かべてそこに立っていた。
「パルシルク殿下は⁉」
「お怪我一つなく無事ですよ、ご安心ください。
犯人もうまく捕らえられましたから、きっと主犯も割れるでしょう。
あなたのおかげです」
ああ、ああ……。よかった、本当に良かった。私は何もできなかった。この最良の結果をもたらしたのは目の前の聖騎士様と殿下と騎士たちだ。安堵からこぼれる涙を止めることもできないまま、私は首を横に振る。
「まだ朝まで時間があります。
どうかお休みください」
「あなたも、休んで。
心から、感謝を」
この時間にここにいるということは、どれだけ飛ばしてきたのだろう。少なくとも今夜は寝ていないはず。よく見れば格好もボロボロだ。
「もったいなきお言葉です」
そう言って、聖騎士は去っていった。きっと私のことを気遣って、こうして来てくれたのだろう。防がれた暗殺の話は市井には降りてこないから。聖騎士が去った後、私はようやく安心して眠りにつくことができた。
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