サレ妻、異世界へ行く

一矢射的

第1話



 胡蝶徳子は思わず我が耳を疑いました。

 長年の連れ添いである旦那に思わぬ浮気を告白されたのですから、それも まったく無理からぬことでした。それまで丹念に積み上げた日常をたったの一言で崩壊せしめるもの……それが浮気の告白。この極限下において心の平静を保つことなど到底出来ない相談でした。



「はぁ、もういっぺん言ってごらん? 私以外の誰を愛しているって」

「だからな、異世界で一緒に冒険している仲間の子、赤毛のルシアナちゃん」

「どうやら私の聞き間違いじゃなかったようね、このアホンダラ。指輪をくれた時にレストランから見た夜景は一生忘れぬ百万ミリオンダラァーだったというのに、今の貴方はアホンダラー」



 この修羅場において、なおウィットに富んだ軽口を叩きながらも、徳子の脳裏には様々な想いが去来していました。

 人の想いというものは塗り絵のように一種類のクレヨンだけで色をつけるものではなく、油絵や水彩画よろしく様々な感情を塗り重ねて完成するものなのでした。

 その中には旦那である吉光との素敵な思い出を惜しむ感傷も若干ながら含まれていましたが、それよりも絵具の大部分は「コイツ、とうとうゲームと現実の区別もつかなくなったのかな」という冷め切った侮蔑でしかありませんでした。更には「私も 遂にサレ妻の仲間入りか」といったドス黒い諦観もそこには含まれていました。

 説明しておきますと、サレ妻とは、ネット上のスラングであり浮気を「され」た妻の略称を指すものでございます。


 深い溜息を零す徳子に、旦那である吉光は言い放ちました。



「冗談じゃないんだって。俺は真剣だよ。異世界ファンタズムでとんでもない魔物と戦い、幾多の困難を乗り越え、仲間と旅を続けていたら、そこに人生の真実を見出したんだ」

「へぇへぇ、なんとまぁ、薄っぺらい人生だこと。トールキン先生(ファンタジー小説の開祖というべき、イギリスの言語学者にして幻想作家)もびっくり」

「そうやって……お前がいつも俺を蔑んでばかりいるから!」

「蔑まれるようなことばかり言うからでしょ、アンタが」

「あー、もう沢山だ! お前なんかに比べたら、ルシアナちゃんは天使だ。優しくて、身も心も強く、おまけにオッパイも大きいからな」



 今年で三十歳を迎え、近頃前髪が寂しくなってきた男性の台詞とは思えません。

 ですが、そうと知りつつも、彼を選んだのは他ならぬ徳子。

 馬鹿な子ほど可愛い……そんな母性あふれる思考がもたらした悲劇でございます。

 しかしながら、優しさからくる我慢には限界があるものです。



「知らないわよ。異世界だろうと、どこにでも消えちまえ」

「けっ、言われなくてもそうすらぁ! こんな毎日が働いて寝るだけで過ぎる世界なんて、もう真っ平なんだよ。これでコチラに何も未練はない、サヨナラだぜ」



 おや、それはつまり徳子の存在が彼にとって未練であったという事でしょうか。

 少なくともこの瞬間までは。


 そこに気付いた徳子が顔を上げた時、既に吉光は台所で冷蔵庫の扉を開けている所でした。無論、この状況で呑気に夜食をとろうというわけではありませんでした。


 扉の中からあふれる光はLED灯の人工的な明かりではなく、まばゆい太陽の日差しでした。室内に吹き込む一陣の風はオレンジの香りがしました。

 居間の時計は、ちょうど午後の十一時を示しているのにもかかわらず。



「言ってなかったっけな。ここが異世界の入り口なんだ。いつも冷蔵庫の冷えが悪いのは多分、それが原因だよ。まぁ、俺が居なくなれば元に戻るだろうさ。それじゃ、アバヨ! 愛していたぜ!」



 立てた指二本をさわやかにコメカミへ当てると、吉光は冷蔵庫の中へと飛びこみました。バタンと音を鳴らして扉が閉まり、後はいつも通りの日常的な沈黙があるばかりでした。


 起きた別離を受け入れることも能わず、徳子は茫然ぼうぜんとリビングで立ち尽くしていました。どうにかショックから覚めて動けるようになると、徳子は恐る恐る冷蔵庫を開けてみました。


 そこには昼間スーパーで買った見切り品のお惣菜そうざいパックがあるだけでした。

 混乱する徳子の頭にボンヤリと浮かんだのは「これは吉光の会社になんて言い訳したら良いのだろう」という至極当然の疑問。失踪後の段取りぐらいが関の山なのでした。



 そうして、押し付けられた後始末に右往左往していると瞬く間に数日が過ぎたのでございます。とりあえず「鬱になった旦那には長期休暇が必要」だと会社は納得してくれたようです。そこから先はどうしたら良いのか、もう考えたくもありません。



「あーもう、ウンザリ。ここの家賃だって私一人で払えって言うの? もうヤダヤダ。私もこんな暮らしよりいっそいっそのこと異世界に行ってしまいたいわ」


『その言葉を待っていました』

「なに? 貴方は? ご、強盗?」

『違います。ワタクシは強盗ではなく、むしろゴッドネス。疲れてうたたねしている貴方の夢に、こうして慈悲深き女神が参上しました』


 ある晩、徳子の夢枕に立ったのは古代ギリシャを連想させるケープ姿の金髪女性でした。パピヨンの仮面を身につけジャラジャラした金の鎖を腰に巻いている所なんていかにも女神という風情ふぜいなのでした。

 辺りの様子も、いつの間にか自室ではなくなり地平まで続く一面の雲海へと変わっていました。それはあたかも天国のような景観なのでした。

 異世界ファンタジーに疎い徳子でも、流石にピンときました。



「つまり、ウチの旦那を異世界に勧誘したのはアンタってわけ?」

『ピンポーン! その通りなのです。どうか女神イシュタムとお呼び下さい』

「なんでことをしてくれたのさ。お陰で我が家は大変なことになったのよ」

『その悲しみ、お察しします。けれど、私の作った異世界は「万人が夢を叶える場所」なのです。分け隔てなく人の願いを受け入れる理想郷。それが夢幻界ファンタズム。貴方の旦那だけを差別するわけにはいきません』

「何をゴチャゴチャと。結果、人の家庭をブチ壊したんでしょ」


『フーム、それは心苦しい話ですね。イシュタムは神である以前に女性。貴方の気持ちが判らなくもないのです。そこで特別に、サレ妻には機会を与えましょう』

「サレ妻、言うなし! 肩書きジョブみたいに言うな……って機会?」

『そう、新たな幸せを掴む機会です。ファンタズムでも指折りの男性を紹介しましょう。旦那が異世界で浮気をしたというのなら、妻である貴方にだってその権利があるはず。おー、サレ妻よ、浮気されてしまうとは情けない。今一度蘇り、恋愛をやり直すのだ。なんちゃって』

「クソが」

『悔しいですよね? さぁさぁ、浪費した青春を取り戻すのです。夢幻界は全ての夢を受け入れますから』

「薄汚い夢もあったものね……まったく」

『全女性の夢でしょう? 王子様に愛されるなんて』



 徳子は少し考える素振りを見せてからうなずきました。



「それも良いかもしれないわね。アイツが見ている景色がいったいどんな物か、少し興味があるし」

『賢い選択をなさいましたね。では素敵なセカンドライフを……うふふ』



 女神が指をパチリと鳴らすと、たちまち辺りは目もくらむ光に包まれたのでした。

 そして気が付くと、徳子は吹き抜けのある大きな広間に立ち尽くしていました。


 ―― な、なにこれ? 私、どうなっちゃったの?


 そこへ歩み寄ってきたのは、燕尾服えんびふくにオールバックの執事っぽい老人でした。

 片眼鏡をランプの灯火で光らせながら、老人は慇懃いんぎんに一礼しました。



「これはこれは。ようこそいらっしゃいました、異世界の客人殿。我が主より、くれぐれも失礼のないよう仰せつかっております。腐れ海のほとりに立つ魔王城は、万全を期して貴方を歓迎いたします。どうかごゆるりとお過ごしくださいませ」

「ま、ま、ま、魔王城!??」



 何やら聞いていた話と違うではありませんか。

 異世界の素敵な王子様はどこにいるのでしょう?

 何とも波乱含みですが、サレ妻の異世界生活はこうして始まったのです。


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