リフレイン・ラビリンス~反芻思考の迷宮~

こへへい

迷えるスケープゴートよ

「いらっしゃい、君が足立香帆君だね?」


そんな声と共に、私は扉をガラガラと閉じる。


科学準備室には、埃がキラキラと陽光に照らされていた。ガラスケースには丸底フラスコや試験管等が、装飾のように光を乱反射させている。


真ん中には茶菓子が入った器を乗せた大きな木の机があり、教室で良く使うイス4つがとり囲んでいた。


そんな棚を横目に、白衣を着た男は優雅にカップの中身をすすっていた。仄かに薫るコーヒーの香りが、鼻腔を撫でた。


コトンとカップを机に置いて、私に向き直った。


「それで、迷宮に迷って困っているのだったな、メールで見たよ」


「...信じてくれるの?あんな意味のわからないことを」


私はこの高校に存在する「お悩み解決サイト」というのにメールを送った。悩みを送った。今自分には悩みを抱えているから、それを解決したいと。


その具体的内容というのが、「迷宮からの脱出」だった。


そんな世迷い言を良くもまぁ信じられる気になったものだ。余裕な態度にすこしの苛立ちすら覚える。


「ま、とりあえず話を聞こうじゃないか」


「はぁ...」


この男は、取りあえず話を聞いてやろうという人間なのだ。解決なんてしない。話を聞くだけ。そして「仕方がないよ、諦めなさい」という解決策しか提示しない。どうせそうに決まっている。


結局のところ、具体的な解決策なんてありはしないのだ。この反芻する迷宮に、私の心は永遠に迷い続ける。そして時間ばかりが過ぎていく。


「やっぱり、というのは、他にも相談した人がいたということかい?ご家族かな?」


「そうだけど」


私の目は反抗心に満ちていたと思う。


「それで、社会はそういうものだから卒業まで待っていようよと、そんな事を言われたんじゃないのかい?今は我慢の時だと」


まさに言い当てられた。そう。復讐しようにも、奴らに攻撃しようものならば、それは私の敗北を意味すると言われた。悪者である彼らを攻撃することは、彼らの土俵に立つことに等しい。だから諦めて、気にしないで、自分の事に集中すべきなのだと。


正しいことだと、よくわかる。だからこそ嫌だった。何で、気にしないなんて言えるんだ。心にナイフを突き刺されて気にしないことなんてできるんだ。無理だ。


「なんでそこまで分かるのよ」


「迷宮というものはね、抜け出す術が分からないから迷宮なのさ。だが考えるべきは、何故自分が心に迷宮を作っているのか。それなんだよ」


「迷宮を、作った...」


『私は心に迷宮を作ってしまい、永遠に出ることはできません。私は迷宮の中で、永遠に行動に起こせもしない復讐を繰り返してしまうのです。だから、私をここから出してください』


文面はそんな感じだった。私のいじめは校内でも広く知れ渡っており、その事情を話さずとも伝わるはず。否、それで伝わらないくらい無関心な人間なのかどうか、挑戦的に試している節があった。そんな気分でメールの文面を考えていたように思う。


「迷宮を作った目的が分かれば、外側から対処ができる。作成者は自分なんだから、ばか正直に正面衝突する必要なんてないのさ。長方形の迷路の入り口から入って迷路に辿るよりも、外周すればいいという話さ」


小ずるい例えをする。しかも例えられても良く分からないし。


白衣の男は、私に指をさして言った。


「現状を把握しよう。今、君は迷宮にいる。ここに君の肉体はあるのかもしれないが、心はここにいない。何を訳のわからないことを言っているのかって?そう感じることこそが、君の心がここにないって証拠なのさ。迷宮に囚われているという、ね」


「そんなことわかってる、だから出してほしいのに」


口々と説教垂れるだけで、結局こいつも他の人と変わらないのだ。やはり頼りになれる人間なんていやしない。


「冷静にはなれないだろう。だが現状を把握することこそが、迷宮を抜け出す第一歩なのだ」


白衣の男は続ける。


「では何故心に迷宮を作るのか。それは復讐したいけどできないから、妄想のなかでそれを果たそうという願いがそうさせているからだ。君の本能と言ってもいい。復讐、したいだろう?」


不敵に笑う。白衣の男の言葉を咀嚼して、飲み込んで、消化不良で吐き出して、それをまた咀嚼して。


そりゃ、したい。


トイレにいるときに水をかけられたらかけ返したい。

画鋲を靴に差し込まれたら、その画鋲を顔にぶっ指したい。

筆箱をなくされたら、そいつの筆箱を目の前で奪い、中身をバキバキに破壊したい。

角に追い込まれて暴力を振るわれたら、暴力を振るい返したい。

机に落書きされたら、机に落書きし返したい。

教科書が隠されたら、教科書を隠し返したい。

美術の作品をごみのように扱われたら、そいつの大切なものをぶっ壊したい。

髪の毛を引っ張られ、引きちぎられたら、そいつの毛根から引っこ抜きたい。

好きな人を暴露されたら、そいつの好きな人への歪な認識を世界中に知らしめてやりたい。


殺されたら殺し返したい。


大切なものを壊されたら、大切なものを壊し返したい。


「う、ううう、」


頭がおかしくなる。気持ち悪い。嫌だ、こんなの、こんなことをしても、どうせまたエスカレートするだけだ。

嫌だ。嫌だ。嫌だ。


怖い。怖い。


いつの間にか、膝が地面についていた。床の木目は、人の顔にも見えなくもない。笑っている?いや、これはただの床だ。こうやって気を紛れさせないと、正気を保っていられないから。


頭上で、白衣の男は続ける。


「そう、それなんだ。君は復讐がしたい。だけど頭のなかでしかそれができない。エスカレートするだけだから。行動を起こしても、雪だるま式に被害が増えるだけだから」


「どうしたらいいの。あんたも結局そうやって説教するだけ!」


もういいよ。

言葉にできたか定かではなかった。悲しみに紛れた声は、この静かな空間だからこそ、彼の鼓膜を響かせた。


「良くない」


白衣の男は、それでも言った。


「何故迷宮を作るのか。それを定めていないじゃないか。ちなみに何故迷宮を作るのかというと、『復讐したい』という気持ちと『復讐できない』という現実で齟齬が生じているからなのさ」


男は一人で続けようとする。私は耳を傾けることしかできない。話が、入ってこない。


「ま、そろそろ頭がおかしくなっているだろう。クールダウンでもどうかね?」


見上げると、白衣の男は私を見下ろすばかりだ。手をさしのべるくらいすればいいのに。いや、自分で立てということか。


立ち上がると、机にはコーヒーの入ったカップがもうひとつ置かれている。湯気が夕暮れの光を受けて、白くヒラヒラと空気中を漂っていた。


気づけば茶菓子等も置かれている。ソファに腰かけると、私は包みを剥がし、キットカットに食らいついた。甘いチョコレートにかじると、さくっとウエハースのような食感が歯を楽しませた。割らずに2本同時に食べると、なんだか贅沢な気持ちになる。


「いい食いっぷりだな」


「う、」


がっついてしまった。ニヤニヤと白衣の男はこちらを見てくる。顔にどんどんと熱が帯びてきていた。


サクサクとおやつを食べていると、すこし落ち着いてきた。甘味は人を幸せにしてくれる。


「さて、君の願いと現実に齟齬がある。そこまでは話したね?復讐したいけどできない。けどしたい。そうして無限の負のスパイラルに陥っている」


「う、うん」


「それこそが迷宮。それが君を苦しませる正体だ。確かに君をいじめる人間が表面的には悪いけれど、今は君を苦しめていないだろう?つまり、今君が苦しんだのは、君のなかだけの話なんだ」


「それは分かったけど、だからってどうすればいいの?さっきから現状把握ばっかり。さっさと具体的なことを言ってよ」


「逃げろ」


「え、」


男の眼差しは、本気だった。本気でそう言ったのだ。

本気で、逃げろと言ったのだ。


「端的に言ってそれしかない。悪を滅することもできないし、悪に屈することもできないのならば、逃げるしかない。自分を守るために、自分の人生をこれ以上無駄にしないために」


分かりやすい。それしかない。そんなこと言っても、


「転校しろってこと?あんな奴らのために、私がわざわざ逃げないといけないの?」


「そうだ。逃げないといけないんだ。環境に適応できなかった生物は環境に淘汰されて、絶滅するか別の環境を探すしかない。だから、逃げるしかないんだ。そして新しい環境を見つけて生きていくしかない」


男の目は、険しくも、本気だと分かる。だけど、


「そんなのやだよ、私が、まるで負けたみたいじゃない!」


「負けたんだ、君は負けたんだよ」


「だから、逃げろって...」


そんなの、ダメだ。負けたら認めることになる。奴らが正しかったって、認めることになってしまう。自分が間違っていたなんて、認めたくないから。


「負けていいんだよ、君は環境に屈してしまったのさ。だけど負けても、生きてるんだから。生きていれば、またやり直せる」


「やり直すって、そんな簡単に...」


「ならこう考えな、『君の人生を彼らに食い潰されていいのか?』って」


時間、人生。

私の人生は、私のためにあるはずなのに。迷宮に囚われて、今まで彼らのスケープゴートとして良いように使われていたのか。


涙すら出てこない。そんな現実を知ってしまったら、そんな角度で見てしまったら、今までの自分がバカらしい。


「意は決したかね?」


私は立ち上がった。日も暮れようとしている。日はまた昇るけれど、私の夜は、私が明かさないといけない。


「もう来ないことを願っているよ、君はもう迷える子羊でもスケープゴートでもない。環境を選べる一人の人間なのだから」

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