傾国の美女

よしお冬子

傾国の美女

 新婚の芳香(よしか)がショッピングモールで清掃のパートを始めたのは、過去勤めた接客業で嫌なことが多々あって、なるべく人と接することのない仕事を…と探した末のことだった。

 パート仲間にはなかなか気のきつい人もいたが、いざ作業に入ってしまえば一人で黙々と作業ができるので、自分の性に合っていると思った。

 確かに身体はしんどいし、時給ははきっちり最低賃金の額。しかしショッピングモールでの買い物に社員割引が効くのは魅力的であった。

 パート仲間と一堂に会するのは朝礼と、昼食と、帰宅前。自分よりずっと年上の女性がほとんどで、まず会話が合わない。しかし話しかけられればにこやかに応じていたし、別段人間関係がしんどいことはなかった。

 数少ない同年代の中に、特におとなしい子がいた。玲子(れいこ)という。パートリーダーの姪っ子で、いつもひっそりと端っこにいた。仕事は主にリーダーとペアを組んで行っていて、誰であれ玲子に話しかければ、応じるのはリーダーだったので、他の同僚で玲子の声を聞いたことがある者はいない。

 玲子はセミロングで前髪は長く、目にかかっていた。それにごついフレームの眼鏡に大きなマスクをしており、ほとんど素顔がわからなかった。制服は本来ジャージにポロシャツであったが、玲子だけはダブダブのつなぎを着ていた。

 おせっかいなパート仲間が仕事していると暑いだろうに、ポロシャツにしたら?と声をかけたが、口から生まれたような、何でもズバズバ喋るリーダーがその時だけは言いにくそうに『体の線が出ない方がいいの。ちょっとトラウマがあってね。』と答えて以降、誰も何も言わなくなった。

 芳香にとっては、どこにでも変な人の一人や二人はいるものよね、という印象だった。最初は年齢も近いし仲良くなれたらと思っていたが、そのうちどうでも良くなった。

 ある日、芳香が職員用トイレの個室に入って用を足していると、手洗い場に誰かが入ってきた気配があった。気にせず個室から出ると、丁度玲子がマスクと眼鏡をはずし、目薬をさしているところだった。

 鏡に映った玲子の顔を見て驚いた。まるでアイドルのような、いやアイドルよりもずっと可愛い。こんなに可愛い子、今まで見たことがない。芳香は思わず、へぇっ、と気の抜けた声を上げる。

 ハッ、と鏡越しに芳香を確認した玲子は慌ててマスクと眼鏡をかける。見られたくないものを見られた、という感じだった。

『そんなに慌てなくてもいいよ、玲子さんってすっごい可愛いんだね、コンタクトにすればいいのに!』

 芳香はなんだか嬉しくなって、思わずキャッキャと声を上げて玲子に話しかけたが、目をそらし俯いて何も答えない玲子を見て、あ、何かまずかったのかな…?と冷静になった。

 沈黙に耐え兼ね、芳香は急いで手を洗い、逃げるように仕事に戻って行った。

『芳香さん、ちょっと。』

 仕事を終え、さて帰ろうとしたところリーダーに呼び止められた。何か失敗したんだろうか、考えてみたが思いつかない。おそるおそるリーダーの元へ向かう。

 同僚は全員帰り、ロッカールームにはリーダーと、玲子と、芳香の三人だけとなった。

 細い折り畳み式の机を挟んで、リーダーと玲子、その向かいに芳香がパイプ椅子に座る。

 リーダーはふーっと溜息をついた。

『…まぁ、いつまでもやり過ごせるとは思ってなかったから。』

俯いていた玲子は消え入りそうな声で

『すみません…。』

と答えた。その声は、なんとも魅力的で、鈴が転がるような声とはこういうことかと芳香は思った。

 目を丸くした芳香の表情を見て、リーダーはさらに深い溜息をつく。

『今日の…玲子の顔を見たことは誰にも言わないで欲しいの。』

 信じられないとは思うけれど、と前置きして、リーダーは玲子の事情を語った。

 ロッカールームには換気扇の音がカタカタ響き、うっすらと誰かが食べたお菓子の臭いが漂っていて、ああ、帰る前にゴミ集めて捨てなきゃなぁ、なんて、芳香はぼんやり考えていた。

 リーダー曰く、玲子は小さい頃からとても可愛く、芸能界からスカウトもあったという。ただ可愛いだけで済んでいた幼少期を過ぎ、中学高校と、年齢が上がって来るにしたがって、様々なトラブルが増えて来た。

 最初はちょっとしたストーカー騒ぎだとか、玲子にその気はないのに彼女を巡って男子が喧嘩をしたりだとか、そんなトラブルがいくつか。女友達も少しずつ彼女から離れていく。表だって玲子に大きな被害があったわけではないが、毎日とても寂しく、つらかったという。

 最初に大きな問題が起こったのは、玲子が高校2年になって1か月も経たない頃。担任が自殺したのである。

 40代の妻子ある彼は、玲子に心奪われ、しかし自分のような者では彼女にはとても釣り合わない。最初は玲子の担任として、同じ時間を過ごせるだけで幸せだと思っていたが、玲子を見る度、何をどうしても玲子に手が届かないことに絶望したと、遺書を残して命を絶ってしまった。

 当然その妻は何かあったんだろう、不倫でもしていたんだろうと激怒して玲子の元に怒鳴り込んできた。しかし玲子の顔を見て、しょぼくれたように帰って行った。…しばらくして子供を道連れに心中してしまったのである。

 玲子は高校を中退して、通信制の高校へと編入した。しかし、そこでも問題が起こる。スクーリングで玲子にひと目惚れした男子生徒が二人、立て続けに自殺してしまったのだ。遺書こそなかったが、件の担任と同じようなことを言っていたと噂になった。

 自殺こそしなかったものの、他の男子学生も恋煩いで体調を崩す者が続出しており、玲子はその高校も中退せざるを得なかった。

 その後も、玲子に心奪われた男性が、直後凄まじい劣等感に苛まれ、自殺未遂をしたという出来事が複数回あった。女性はただ、凄く綺麗、いいなぁ羨ましい、程度で済む場合がほとんどなので、女性ばかりのこの職場で、匿うようにして働かせているという。

 だが今日の芳香のように、何かの拍子に玲子のことを知って、それが他の男性に伝わってしまえば、また何が起こるかわからない。これ以上玲子を傷つけたくない。だからくれぐれも、頼むから誰にも言わないで欲しい、と言った。

 普段気の強さがあらゆる言動に出ているリーダーが、げっそりと疲れた表情で頭を下げる姿を見て、話半分に聞いていた芳香は急に怖くなった。

『…わ、わかりました。気を付けます。』

ようやくそう声を絞り出した。

それを聞いてほっとしたのか、リーダーと、その横に座る玲子は顔を見合わせ微笑みあった、そしてまた深々と芳香に頭を下げた。

 その後、芳香はなるべく玲子の方を見ないようにしたり、何とも言えない気まずさを感じてはいたが、日々の仕事をこなしているうちに、徐々に気にならなくなって行った。そもそも作業中は会わないし、元々話すこともないのだから。

 淡々と作業をこなし、時間までに終わらせて、そして帰宅。

 家に帰れば、芳香は慣れない家事を頑張った。掃除洗濯も手を抜かなかったし、色んな料理にチャレンジして、レパートリーも増やして行った。

 夫も仕事は忙しいながらも充実しているようで、夜にはお互い多少の職場の愚痴を言い合いながら晩酌を楽しみ、穏やかに過ごしていた。

 ある日二人は、勤め先のショッピングモールとは別方向にある、ホームセンターに買い物にでかけた。

 そこで、玲子にばったり出くわしてしまったのである。まさかそこで同僚に会うとは思わなかったので、お互い『あっ』という声を上げた。

 逃げるようにその場を小走りで去って行く玲子を見て、芳香の夫は苦笑しながら、

『何あれ、お前何したの?』

と言った。

『違うよ、同僚。』

『だって逃げたじゃん、さては、いじめてんじゃないの?』

芳香をからかうようにニヤニヤ笑いながら続ける夫に、芳香はついムキになる。

そして玲子の事情を喋ってしまったのだ。

喋ってしまった後で、芳香は我に返り、しまった…と思ったが、

『へぇ。』

と、夫は興味なさそうに答えたので、そのまま忘れてしまった。

…まさか、その後、夫が玲子に会いに行くとは全く想像していなかった。

そんな美人ならひと目見てみたいという、単純な好奇心だった。次の休日、芳香に嘘をついてパート先のショッピングモールを張って、怜子を見つけ、後をつけた。

マスクと眼鏡で、玲子の素顔はよくわからない。ここまで時間を消費したのだから、何らかの成果を得たい、手ぶらで帰ってなるものか。そんな気持ちで。

 声をかけても無視して小走りで逃げる彼女を追いかけ、ついには強引に玲子の眼鏡とマスクをむしり取ってしまった。

 玲子はそれが芳香の夫だとは気づかない。ただの変質者だと思い、叫び声を上げ、顔を手で隠すようにしてその場を走り去った。

 芳香の夫はその夜、交通事故で亡くなった。乗っていた車で、電柱に激突したのである。よそ見運転だろうと言われている。

 幸せな新婚生活が突然潰えた本当の理由を、芳香は知らない。ある日突然自分を飲みこんだ大きな不幸に、ただ茫然と立ち尽くすだけだった。

 玲子にしても、伝え聞いた同僚の身内の事故死が、自分と関わりがあるなどとは思いもよらない。ただ、彼女は今日も一日、いつものように、ひたすら顔を隠し、息を潜め、社会の隅で静かに生きる。この先もずっと、ずっとそうしていく。それだけである。

――そうしていれば、誰も不幸にならないし、自分も苦しまない。大丈夫、ここ数年何もないんだから。しばらく休むことになった芳香さんが戻ってくるまで、彼女の分も頑張らなきゃ。

 玲子はふーっと息をついて、仕事にとりかかった。

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