5-2

 

          ※


 廊下を歩いていると、給湯室から聞き覚えのある声がした。

 上司が誰かを相手に自慢話をしているようだった。そのまま通り過ぎようとしたものの、自分の名前がかすかに聞こえた気がして、思わず足を止める。

 気配を消して立ち聞きしていると、衝撃的な内容が耳に飛びこんできた。

 「……丁度いい始末役がいて助かったわ。大損こいて俺が怒られる所だったけど、何とかうやむやにできたよ」

 心臓をきりで突かれているかのような、胸の辺りが締め付けられるような感覚がした。頭に浮かんだ悪い予感を、自分の中で必死にかき消そうとする。

「まぁせいぜいアイツができもしないプロジェクトで失敗すればいいのさ。俺アイツのこと嫌いだったからちょうどよかったわ」

 この期に及んでも、まだ真実を認めたくなかった。だが、その淡い期待は、次の瞬間上司の一言であっさりと崩れ去った。

 「あぁ、この話は川瀬にはするなよ? さすがに本人に聞かせるのは酷だろ」

 上司の高笑いの声が聞こえてくる。

 気が遠くなりそうなのを、拳を握って気力で耐えていた。

 ───自分がここにいるのが見つかるのはマズい。

 とっさにそのことだけが頭に浮かび、駿佑は自分の体を引きずるようにその場から離れた。ひとまず隠れたトイレの個室で、駿佑は力なく崩れ落ちた。その場からしばらく動くことができなかった。不意に喉(のど)元に生温かいものがこみ上げてきた。


          ※


「……それを聞いた時、怒りじゃなくてただただ頭の中が真っ白になった。正直、それからしばらくの記憶はほとんど残ってない……。次のはっきりしてる記憶は、にーちゃんからもらった手紙。そこまでの一月近くは、何してたか思い出せない。もう本当に仕事するのもバカらしくなって、仕事終わってなくても帰ることもあったし、休日出勤もしなくなってた。ぶっちゃけもうその時には大人しくしてれば上司は何も言ってくることもなくなってたしね。それで、今までそういう状況が続いてるって感じ」

 相変わらず父は仏頂面ではあったが、目尻がかすかに光っていた。

「……そうか。ちゃんと話してくれてありがとう。よく頑張ったな。お前は明日にでもその仕事を辞めなさい。そんなクズな会社にとどまる必要なんかない」

 父の隣では母が先ほどから泣き崩れている。幼子に言葉をかけるかのように、父は今までになく優しい口調で話しを続ける。

 「本当は『次の仕事のこと考えてから辞めろ』って言おうと思っていたんだが、とりあえず、今すぐその仕事は辞めなさい。それから考えても遅くはない」

 「ありがとう。正直今は日々の生活でいっぱいいっぱいで、次の仕事のことまで考える余裕はないんだ。だから、一、二ヶ月休みながら先のことを考えたいと思ってる。今ほど激務の仕事は嫌だけど、何か定職には就くつもりではいるから。ただ、ここ数年仕事しかない生活だったから、もう少しそれ以外の時間を持てるような仕事にしようとは思ってる」

 「わかった。考えているなら父さん達からは何も言うことはない。もう社会人なのだから、自分の責任で、自由に決めなさい。けれども、今度からは何かあったらちゃんと早い段階で相談しなさい」

 「うん。父さんにそう言ってもらって前に踏み出せるような気がしてきた。本当は今の環境を変えるのが怖かったんだ…。変化するのが怖かった。このままずるずると落ちぶれていきそうな気がして、会社辞めるのをためらっている所もあった…。けど、父さんの言葉を聞いて安心できた」

 目の前の二人に釣られて、駿佑の目も少し赤くなっている。

 「そうか…。変化ってものはいつだって恐れを伴うものだ。それを恐れていては進歩はない」

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