第9話


 走廊をパタパタと走る音に雪琳は顔を上げる。手元に半分ほど刺繍を入れ終わった手巾ハンカチがあった。それを方卓の上に置くと、今から来るであろう人物の姿を思い浮かべた。


「雪琳!」

「香杏、今日はどうしたの?」

「饅頭、貰ってきたから一緒に食べない?」

「わ、嬉しい」


 籠に乗った饅頭を見せる香杏に雪琳は手巾を片付けた。


 おう香杏こうあんは雪琳と同じく、才人の位階を賜り桂花宮に暮らしている。年が同じ二人はどちらも伽に呼ばれることもなく、また呼ばれたいとも思っていなかった。そんな香杏は雪琳にとって後宮内で唯一本音で話すことができる友人だった。


 蒸したての饅頭を頬張っていると、正面に座る香杏が雪琳をジッと見つめていることに気付いた。


「どうかした?」

「雪琳、最近何かいいことでもあった?」

「どうして?」

「なんか、表情が明るいから。前はもう少し沈んだ表情を浮かべることも多かったでしょう?」


 この友人は、見ていないようで意外と人のことを見ている。手の中にあった饅頭を口に入れると、どうしようか少しだけ悩んだ。ううん、悩んだなんて嘘だ。本当はこの友人が顔を出したときから聞いて欲しくて仕方がなかった。あと数日来るのが遅ければ、雪琳の方から饅頭を片手に香杏の部屋を訪れていたかもしれない。


 雪琳は湯飲みに入れた茶を飲み干すと、香杏を手招きした。


「ここだけの話に、してほしいんだけど」

「するする。で、どうしたの?」

「……私、ね。好きな御方ができたの」


 緊張と、それからほんの少しの胸の高鳴りを覚えながら声を押し殺すようにして、間違っても走廊には聞こえないように気をつけながら雪琳は言う。香杏はどんな反応をするだろうか。驚くだろうか、それとも一緒に盛り上がってくれるだろうか。


 そわそわしながら香杏の顔を見た瞬間、雪琳は自分の中の高鳴りが静まっていくのを感じた。香杏は感情をなくしたかのような表情で雪琳を見つめていた。


「雪琳、あなた……っ」

「ごめんなさい!」

「よかったね!!」

「え?」


 先程の反応からてっきり怒られると、もしくは呆れられるとばかり思っていたので、香杏の言葉に一瞬ついていくことができなかった。


「呆れてるんじゃ、ないの?」

「なんで?」

「だって、さっきの香杏。怒ってるみたいな表情をしてたから」

「あれは驚いちゃって。まさか雪琳の口からそんな言葉が出てくると思わなかったから。でも、ようやく雪琳の幸せそうな表情の理由がわかった」

「香杏……」


 自分のことのように嬉しそうに言う香杏の姿に、雪琳は安堵の笑みを浮かべた。そんな雪琳に香杏は目を輝かせて身を乗り出す。


「それで? どんな人なの? と、いうか誰? まさか主上だなんて言わないでしょう?」


 当たり前のように言う言葉に雪琳は苦笑いを浮かべてしまう。後宮内で『好きな人ができたの』と言う雪琳も大概だが、『主上だなんて』などと言ってしまえる香杏も凄い。


 誰なの? ともう一度尋ねる香杏に、雪琳は意を決して口を開いた。


「あの、その、太監、なの」

「太監? 雪琳が好きになるような年齢の人っていたっけ? あっ、もしかして年上趣味?」

「ううん、私たちとそんなに年は変わらないはずだよ。庭園の管理をしているのだけれど見たことない?」


 饅頭に齧り付きながら香雪は首を傾げる。その拍子に垂らした髪がふわりと揺れた。饅頭を頬張る姿と女性的な容姿があまりに似つかわしくなくて笑ってしまいそうになるのを慌てて堪えた。


「うーん、ちょっとわかんないかな。ねえねえ、それでその人のどこが好きなの?」

「えっと……優しくて、誠実で、ちょっと厳しいところや生真面目すぎるところもあるんだけど、私のために言ってくれているのが伝わるの」

「凄い。雪琳がその人のことすっごく好きなのが伝わってくる。わー、いいなー。私のそんな恋がしたい! 決められた人とじゃなくて本当に好きになった人と結ばれたいなぁ」


 後宮にいてそんなことができるわけがないと香雪もわかっている。後宮にいなくても、親に決められた相手と結婚することの方が多い。好きな人と結婚できる可能性なんて僅かほどしかない。雪琳の両親のようなことの方が稀なのだ。そんなのみんなわかっている。


 わかっているからこそ、夢見てしまう。もしかしたら、とほんの僅かな可能性に思いを馳せて。


「どうやったらそんな人に出会えるのよ。ね、出会いは? 太監って後宮にいるけれど、私たちみたいな下級妃と関わることって少ないでしょ?」

「えっと」


 雪琳は香杏に秀峰とで会ったときのことを話して聞かせる。甘く切ない雪琳と秀峰の話は、まるで市井で流行っている恋物語のようで、香杏はときめきを隠せないといった表情を浮かべている。


 一通り話をし終わる頃には、香杏が持ってきた饅頭は空になり、二杯目の茶を飲み終わっていた。三杯目を淹れる雪琳を見ながら、卓に頬杖をついた香杏は嬉しそうに言う。


「でも、雪琳が好きになっちゃうような人って気になる! ね、今から行ったら会えるかな?」

「え、えっと、その」


 歯切れの悪い答えに、香杏はにんまりと笑った。


「もしかしなくても、このあと会いに行く予定だった?」

「……そう、ですね」

「よし、行こう!」

「え?」

「私も見てみたい! ね、いいでしょ?」


 香杏の勢いに押され雪琳は頷いてしまう。どこか気恥ずかしさと、けれど好きな人を大好きな友人に紹介できることの嬉しさに心を弾ませながら。


 庭園へと向かう道中、雪琳は香杏から秀峰のことについて質問攻めに遭う。二人でどんな話をしているのかとか、どんなところに惹かれたのか、とか。


 もうすぐ庭園の入り口が見える。そんなとき、ふと思い出したように香杏は言った。


「そういえばその太監の名前は?」

「あれ? 言ってなかったっけ?」


 雪琳の視線の先に秀峰の姿が見えた。手を振る雪琳に秀峰は頭を下げる。「秀峰!」と声をかけようとした雪琳よりも早く、すぐそばから驚いたような声が聞こえた。


さい秀峰様……?」

「え?」


 雪琳は思わず隣にいた香杏を見つめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る