第7話
目が覚めると、房室の小さな窓から差し込む日の光はいつの間にか月明かりへと変わっていた。随分と眠ってしまっていたようだ。
顔を上げると、その拍子に目尻にたまっていた涙が頬を伝い
本来なら夕餉の時間だけれど、食欲が湧かない。何か少しでも食べた方が、とは思うけれど食べたくないものは仕方ない。一食ぐらい食べなくても大丈夫だろう。
雪琳はせっかく起こした身体をもう一度、臥牀に横たわらせた。重い身体が臥牀に吸い寄せられていくようだった。このまま眠ってしまおう。それで朝になったらもう一度、夏液池で探してみよう。
まどろみ始めた意識の向こうで誰かが雪琳を呼ぶ声が聞こえた。
「朱才人、太監がお呼びです」
「……太監が?」
扉の外から雪琳に声をかけているのは、桂花宮についている女官のようだった。憎々しげに雪琳を呼ぶ。手間を掛けさせるなとでも言いたいのだろうか。
それにしても、こんな時間に太監が何の用だろう。
「……っ」
太監が夜に妃嬪の宮を訪れる理由など一つしかない。
まさか、伽を……?
雪琳は不安に思う。ここまで伽を逃れてきて、今になって伽に呼ばれるなんて。主上の手つきとなれば、この後宮が閉じられる日が来たとしても外に出ることはできない。よくて寺院や道観に送られるといったところだろう。そんなの、嫌だ。けれど、雪琳に断る権利などない。それが後宮の妃なのだから。
覚悟を決めると、臥牀から身体を起こす。窓から見える月に、なぜか秀峰の姿が重なった気がした。
女官から言われた通り、桂花宮の外へと向かう。外は月明かりに照らされ、思ったよりも明るい。その中でまるで影のように黒い存在があった。拱手の礼を取った太監だ。その姿に見覚えがあった。あれは――。
「秀峰?」
「夜分に申し訳ございません」
「い、いえ」
まさか申しつけに来たのが秀峰だなんて思わず、雪琳は笑みを浮かべながらも血の気が引いていくのを感じる。まさか秀峰に、伽を命じられることになると思わなかった。せめて別の太監だったらよかったのに。秀峰の目を見ることができず、視線を下に落とした。そんな雪琳の前に何かが差し出されたのがわかった。
「え……」
「これで、あってますか?」
「なん、で」
秀峰の手のひらの上には、雪琳が夏液池に落としたあの梳があった。顔を上げた雪琳は、ようやく秀峰が全身ずぶ濡れなことに気付く。まさか、そんな。
「池に、入ったの、ですか……?」
雪琳の問いかけに、秀峰は苦笑いを浮かべるだけで肯定も否定もすることはなかった。震える手で梳を受け取る。指先が秀峰の手のひらに触れた。冷たくなった手に。
「では、私はこれで……」
「待って!」
「雪琳様?」
「少しだけここで待っててください。絶対ですよ!?」
念押しをすると、秀峰の返事を待つことなく雪琳は桂花宮の中へと戻ると自分の房室に飛び込んだ。そして籠の中に入れてあった
走って戻ってきた雪琳に、秀峰は驚いたように目を見開く。
「雪琳様、何が……」
「黙って」
雪琳は持ってきた毛巾を広げると秀峰の頭を包み込む。一瞬、秀峰が肩を震わせたのがわかったけれど気付かないふりをする。抵抗されるかと思ったけれど、秀峰は黙ったまま雪琳にされるがままとなっていた。普段は幞頭の中に結って入れられている長い髪を丁寧に拭いていく。
胸の奥から湧き上がってくるこの感情は何なのだろう。切ないようなそれでいて甘いこの感情を、人はなんというのだろう。
それから暫くして秀峰は桂花宮をあとにした。雪琳も自分の房室へと戻る。手の中には秀峰が探し出してくれたあの梳が握りしめられていた。
両親の思い出の大切な梳。それが雪琳にとっても大切な、もう二度となくしたくないと強く思うほど愛おしいものとなった瞬間だった。
今日も雪琳は庭園へと小道を急ぐ。最近では桂花宮を出ようとすると女官に「また庭園ですか」と呆れたように言われるようになった。
秀峰と初めて会った頃はまだ肌寒さすら残っていたのに、ここ数日は夏を思わせるような暑さだった。
「秀峰!」
「またいらしたのですか」
「いいでしょう? 秀峰は今日はなにをしてたのです?」
「今日は――」
仕方がない、とでも言わんばかりにため息を吐くと秀峰は自分が今までしていたことを雪琳に教えてくれる。どうやら庭園の設備で損傷がないかどうか調べていたようだった。
「花の世話だけじゃなくてそのようなこともするのですね」
「そうですね、私の仕事は花の世話もですが、この庭園の管理を任されておりますので」
「私も何か手伝えますか?」
雪琳は少しでも秀峰の役に立ちたいと提案する。けれど秀峰は首を振った。
「雪琳様にそのようなことさせられません」
「でも……! 早く終わればその分、一緒にお話しできるじゃないですか」
「雪琳様」
咎めるような口調で秀峰は言う。
「そのようなことをおっしゃってはいけません。どこで誰が聞いているかわからないのですから。あなたの立場でそのようなことを言えば、どのような憶測を生むかわかってらっしゃるでしょう」
「それは、そうですけど」
わかっている。こんなふうに秀峰のところに通っていることが露呈すれば口さがない者からあらぬ噂を立てられるかもしれないということを。けれど、それでもついこの場所に来てしまうのだ。秀峰と話したい、顔が見たいと思ってしまうのだ。
俯いて黙り込んだ雪琳に秀峰はため息を吐く。呆れられただろうか。自分の立場も弁えず我が侭ばかり言う雪琳に愛想を尽かしてしまったのだろうか。
「仕方のない人ですね」
「え?」
秀峰の口調が柔らかくなったのに気付き、雪琳は顔を上げる。普段と変わらない仏頂面。けれど、ほんの少しだけ口角が上がり表情が優しくなったことに何人の人間が気付くだろうか。
「そこに座って待っていてください。なるべく早く終わらせますので」
「……たまに、話しかけてもいいですか?」
「……ええ」
言葉だけ聞くと愛想がないように聞こえる。迷惑がっているかのように感じる。けれど、秀峰の瞳は優しく雪琳を見つめていた。その目は言葉よりも雄弁に秀峰の気持ちを語っているように見えた。
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