第6話
「雪琳様!」
雪琳の耳に、いるはずのない人の声が聞こえた――と思った瞬間、身体を引き寄せられた。一瞬、何が起こったのかわからず、でもどうにか顔をそちらに向けると、そこには焦ったように雪琳を抱き寄せる秀峰の姿があった。
「雪琳様!? 何をしているのですか!?」
「梳……梳が……」
「梳?」
秀峰は雪琳の頭とそれから踏み入ろうとしていた夏液池とを見比べて、全てを悟ったように眉をひそめた。
「とにかく、あちらへ」
雪琳の身体をそっと起き上がらせると、秀峰は手を引き敷物のところまで連れて行った。「座ってください」そう促されるままに雪琳は腰を下ろす。けれど、視線は先程の水面へ向けられたままだった。
「梳を、落とされたのですか?」
「……どうしてわかったのです?」
「あなたのことなら、なんでもわかります」
「な……え……あ……」
秀峰の言葉に動揺して、思わず変な声を上げてしまう。それを取り繕うようにして、慌てて口を開く。
「そ、そうなのですね。秀峰は凄いです。そう、秀峰の言うとおり……。で、ですが、この格好で入るのもおかしな話ですものねっ」
動揺を悟られまいと聞かれてもいないことまで離してしまう。だが、口に出して言ってみると、なんとも滑稽な話だ。そしてあの梳の思い出を知らない人間からすると「たかが梳で」と思われるかもしれない。秀峰も、もしかすると。けれど、雪琳の不安は杞憂に終わった。
「大切なもの、なのですね」
「え?」
秀峰の言葉に思わず顔を上げる。秀峰はまっすぐに雪琳を見つめていた。その目に魅入られそうになるのを必死に堪える。
「そ、そうなのです。あれは――昔、母が父から贈られた大切な梳なのです。いつか私が大切な人と出会ったときにくださると、そう……」
「雪琳様?」
本当なら、嫁入りの際に渡されるはずだったそれを雪琳が手にしたのは十歳のときだった。母から遣いに出された雪琳が自宅に戻ると、父が母に重なるようにして倒れていた。まるで何かから母を守るかのように。動かなくなった、冷たくなった両親の姿を今でもはっきりと覚えている。
「あの梳は母の形見なのです」
「お亡くなりに?」
「ええ。……私が十歳の頃、両親揃って」
幼い雪琳にとって憧れだったあの梳を、まさか母の形見として受け取ることになるとは思ってもみなかった。だが、それは母も同じだろう。いつか直接手渡すことを夢見ていただろうが、残念ながらその願いが叶うことはなかった。けれど、あの梳が雪琳にとって大切なものであることには変わりない。父と母の思い出の品であり、母の形見だというのであればなおさらだ。
駆け落ちをして一緒になった両親の暮らしは楽なものではなかった。そんな中、唯一母が付けていたのが父から貰ったというあの梳だった。
そんな梳も今ではもう池の中だ。もう二度と、雪琳の手の中に戻ってくることはないだろう。死んだ母になんと謝ればいいのか。鼻の奥がツンとして視界がぼやけそうになる。
雪琳を見つめていた秀峰はおもむろに歩き出した。
「秀峰?」
「少々お待ちください」
「なっ、何を!」
雪琳が止める間もなく、秀峰は雪琳が先程までいた畔に跪くと袖を限界までたくし上げ、躊躇うことなくその手を池の中に入れた。いくら気候があたたかくなったとはいえ、水はまだ冷たい。
「や、やめてください。服が濡れてしまいます」
「濡れれば干せば乾きます」
「秀峰まで池の中に落ちてしまうかも……」
「そんな間抜けではございません。ああ、ですが」
駆け寄り止める雪琳の言葉は秀峰には届かない。けれど、ふと何かを思い出したかのように身体を起こした。止めることができた、と雪琳が安心するのもつかの間、秀峰は幞頭を取ると、雪琳の手の上に載せた。
「落ちると困るので、持っていてください」
そう言ったが早いか、再び池の中に手を入れる。身体が池に触れる寸前まで腕を伸ばすと二回、三回と池の中を掠った。けれど。
「――ありませんね」
数回掠った後、暗い声色で秀峰は言うと手を池の中から引き抜いた。肩の辺りまでまくし上げていたはずの袖は、濡れて水を吸ってしまっていた。
「大丈夫ですか?」
「いえ、お役に立てず申し訳ございません」
「そんな……! 私の方こそ、迷惑をかけて……」
自分の不注意で大切な梳を落とし、さらに秀峰にまで迷惑をかけてしまった。その事実に泣きたくなる。けれど今ここで雪琳が泣いてしまえば、秀峰はさらに困るだろう。もしかしたら中に入って探そうとすらするかもしれない。
雪琳は泣きたくなるのを歯を食いしばって耐えると、笑みを浮かべた。
「しょうがないです。私の不注意ですし、諦めます」
「よろしいのですか?」
「はい。大丈夫、です。母は残念がるかもしれません、が……きっと許してくれると、思います……」
言葉がだんだんと弱くなっていくのをごまかすようにもう一度笑う。何か言おうと口を開けようとした週報の言葉を塞ぐように、雪琳は言う。
「そろそろ房室に戻りますね」
「そう、ですか」
「はい。今日はありがとうございました」
送って行きます、とは秀峰は言わなかった。雪琳は桂花宮までの道のりを急ぎ足で歩く。涙がこぼれ落ちそうになるのを必死に堪えるかのように。
房室の扉を閉めると、雪琳は臥牀に顔を突っ伏した。必死に我慢した涙が溢れてくる。
「ごめんな、さい」
梳を渡してくれたときの母の顔を思い出す。大切なものだからこそ、雪琳に持っていて欲しいのだと笑っていた母の顔を。それをなくしてしまっただなんてどんな顔をして言えばいいのかわからない。
「ごめ、な……さい……」
泣きながら謝り続けるうちに、雪琳はいつの間にか眠ってしまっていた。
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