Ⅳ◆



「そんで、」

 メニュー表を広げる篤久は、すで諦観ていかんの顔をしていた。

「るりから何聞いたの」

 鈴音もメニュー表を開く。

「大体察しはついてるんじゃないですか?」

「え、……えぇ~とォ……」

「るりちゃんと私が同じ昭徳しょうとく女子大だったことも知ってたはずですよね。学部違うから面識ないと思ってたんでしょうけど」

「ん、うん、それは、まぁ、ねェ……だってでかいじゃん昭徳女子…………『るりちゃん』⁉ 何でっ、いつの間にそんな親しげなことになってんの⁉」

「ふふ……何ででしょうねぇ……あ、お酒、飲みませんか。どうせ泊まりなんだし」

 普段飲酒をしているのを見たことがない。「謠子に何かあったときにすぐ動けるように」と以前聞いたことはあるものの、今日一日くらいは多少飲んでもよさそうなものだ。

 しかし、

「飲みたいなら飲んでいいよ。俺飲めねえから」

 返ってきたのはつれない返事だった。

「飲めない? 飲まないじゃなくて?」

「飲まねえうちに飲めなくなっちゃってさ。元々強い方でもなかったけど」

「そんな顔して?」

「鈴音ちゃん結構言うよね?」

 体質的に向いていないなら仕方がない。素面しらふで話すしかないか、と鈴音はあきらめることにした。この手の話題は酒が入っていた方がそのせいにできていいかと思ったのだが。

 店員を呼んで食事の注文をすると、篤久はテーブルに頬杖をついて、目を閉じた。

「…………ん、んん~」

 何をどこから説明しようか考えている、といったところか。鈴音も同じように、頬杖をついた。

「どうしてそんなに悩むんですか?」

「……だって、知られたくないじゃんそういうのって」

「私だって別に知りたくて知ったんじゃないですよ、るりちゃんがちゃんと話しておきたいって言うから」

「瑠里花ァ! 何故!」

 とうとう頭をかかえて伏せてしまった。鈴音はそれをちょっと面白いと思いながら、水の入ったグラスを傾ける。

「るりちゃんからしたいって言われて、それを承諾しょうだくしたんでしょう? どっちも成人してて、同意の上で。何の問題もないじゃないですか」

「……怒ってるんじゃ、ない?」

「私が? 付き合ってもいないのに?」

 そう言うと、篤久はわずかに目線を上げ、一瞬だけ鈴音を見てから目をらした。

「そう、だけど、さ」

「しかも縁談出る前のことだし」

「そう、なんだけど、さ」


 そう、そもそも付き合っているわけではない。


 鈴音自身が家同士のつながり云々をこじつけて父に提案して、鈴音の気持ちを知っている母と姉たちが後押ししてくれた縁談。それを彼は、断るようなことを言いつつも、拒絶はしないで避け続けている。そんな関係だ。


「るりちゃん、言ってたんです」

 グラスを置くと、中の氷がくるりと回りながら音を立てた。

「どうせそのうちバレるだろうし、本当に自分から頼んでしていたことだから、禍根かこんがないように話したんだって。縁談のこと聞いてからは一回もしてない、オーナーは全然悪くないからねって」

「あけすけだなァ佐鄕瑠里花!」

「安心しました?」

「……いや、でも、」

 身を起こして、嘆息。

「結局のところ、それに乗って手ェ出したのは俺だもんな、と思います。あまりよくないことをしました。嫁入り前の他所よその娘さんと正式に交際しているわけでもなく何度も…………うぅ、俺滅茶苦茶悪い大人だ……どうしよう……ダメな大人だ……」

 再度項垂うなだれる。鈴音は笑ってしまいそうなのをこらえた。

「案外真面目な人ですね」

「何言ってんだ、俺ァいつだって大変真面目よ」

「その割にちょろいですよね」

「全くもってぐうの音も出ませんわ」

「こんなの私はともかく謠子ちゃんに知られたら」

「やめてェ!」

 べしゃ、と潰れるように、またテーブルに突っ伏したのを見て、鈴音はとうとう吹き出してしまう。そのまま笑っていると、本日何度目かわからない溜め息をついた篤久は自嘲じちょうするような苦笑いを鈴音に向けた。

「幻滅してくんないの? 普通嫌でしょこんな話」

「さっきも言ったけど、父が私を貰ってくれって言う前の話じゃないですか。元カノさんたちとたいして変わりませんよ」

「ほんとは?」


 本当は?


 これは過去のことだ。

 でも、それとはまた別の感情は。


「ま、正直、いい気分ではなかったですね」


 佐鄕瑠里花から聞いた瞬間、フラッペの容器を握り潰してしまいそうだった。


 表に出ていたのだろう。篤久は萎縮いしゅくしながら視線を逸らした。

「…………ごめんなさい」

「だから、貴方が謝る筋合いはないんですよ。貴方と私は付き合ってるわけでもないし、貴方は私とどうこうなるつもりもないんでしょう? それとも、」


 テーブルの上に置かれている手の甲を、指先で、つ、と、撫でる。


「私のこと、それなりに意識してもらえてる……ってことですか?」


 手が、素早く引っ込められた。

「……どこで覚えたこんなの」

 少し焦ったような顔に、

「私が武菱政孝まさたかたぶらかした女の娘ってこと忘れてます?」

 笑って応えると、

「何生意気なこと言ってんだ、男転がしたことなんかねえくせに」

 この上ない苦笑いを返された。



     ◇     ◇     ◇



 篤久の言っていた通り、平日しかもシーズンオフで、併設へいせつされているホテルは客が少ないかと思われていたのだが――


「ほら、雨すげえじゃん。だからみんな考えること一緒なわけ」

「そうですね」

「あと、このホテル、シングルの部屋がないらしくて。ツインの部屋はあるんだけど、埋まっちゃっててさ」

「でしょうね、そもそもアウトレットに一人で来る方が珍しいと考えてホテル側もこう作ったんでしょうし、これなら一人でも二人でも大丈夫ってことですからね」

「ギリッギリ滑り込みで取れたのがここなのよ」

「ですよね、でなきゃ貴方がこんな選択するわけないですもんね」

「理解してくれてありがとう」


 何とか確保できたのは、ダブルベッドの部屋だった。


「まぁ俺がソファーで寝ればいいしね車で寝るよりゃマシだ」

「ちゃんとベッドで寝て下さい今日長時間車運転してたじゃないですか私がソファーで」

「助手席だってずっと座りっぱでしんどいじゃんいいからベッド使いなよ体痛くなっちゃうよ」

「だったら尚更篤久さんがベッドで寝るべきじゃないですか背の高さからいってその方が合理的でしょう」


 気まずさから、つい互いに早口になる。


 積極的に攻めていきたい鈴音としても、これはちょっと上手くいき過ぎていて怖いと思った。あの謠子といえども天候を操れるわけではないし、まして二人の寄り道コースやアウトレットモールの客の多さなど流石に把握していないはず、つまりこれは偶然の産物だ。しかし、距離を詰めるチャンスにしたって出来過ぎている。後で反動がくるのではないか。


「……ま、いっか」

「え」

「一緒の布団に入ったからって何もしなきゃいいわけだし? 特に今日なんて疲れたからおやすみ三秒っしょ」


 彼の言っていることは、つまり同じベッドで寝てもいいという――


「何かしたっていいんですよ!」

「しません。……とりあえず風呂入ってこよっか、この天気じゃ露天は入れねえけど温泉引いてるってよ」

「温泉!」

 よほど嬉しそうに見えたか、篤久は笑った。

「多分俺のが早く出るから鍵持っとくわ。ゆっくりしといで」

「ありがとうございます!」


 鈴音は浮かれた。彼女は温泉やスーパー銭湯が大好きな女である。温泉という単語を聞いた途端、好意を向ける相手と同室の同じベッドで一泊とかそんなドキドキイベントが待っているということを忘れてしまった。

 大雨のため、露天風呂は楽しめなかったが、内湯でも充分すぎるほどに気分を味わえたし、何しろサウナも付いており、ロウリュウ――サウナ施設があるところでよく聞くようになったサービスで、熱々の石に水を掛け、発生した水蒸気をスタッフがうちわであおいで熱波を循環させ、発汗をうながすというものである――も実施していた。鈴音はそれらを大いに楽しんだ。二時間後には疲れも緊張もほんのちょっとの不安もすっかり吹き飛び、リフレッシュの完了したほかほかピカピカの武菱鈴音が完成したのであった。


 しかし、すぐに現実に引き戻された。


 部屋に戻ると、部屋に用意されていた館内用のウェアを着た篤久が、ミネラルウォーターのペットボトルを片手に電話を掛けていた。

「ん、わかったじゃあ明日……そうだな、まだ道路の状況わかんないから一応昼過ぎ……一時か二時くらいにしとこっか。はいはーい、んじゃおやすみ~」

 優しい穏やかな声。相手は謠子だろう。ちゃんと報告をしているとは律儀なものだ。


 普段の黒いスリーピーススーツや先程まで着ていた洋服ともまた違う、完全に「後はもう寝るだけ」のリラックス状態。

 無防備にも等しい後ろ姿を見た鈴音はどきどきした。そうだ、今夜は彼とここに泊まるのだ。


 また緊張感が戻ってきた――のだが、それはそれとして、こんな状況は滅多にない、二度とないともいえる。


 そう考えると、緊張よりも何よりもまず、自然とスマートフォンを構える形となった。


 撮りたい。

 撮るしかない。


「盗撮はやめなさい」

 通話を終了し勘付いた篤久が呆れた顔で振り返った。驚いた勢いでボタンを押してしまい、シャッター音が部屋に響く。

「あっ」

「こら、消せ消せ全く油断もすきもない」

 立ち上がってスマートフォンを取り上げようとしてきたのをひらりとかわす。

「嫌です~」

「ちょっ」

「絶対消さなーい……あっ」


 足がほんの僅かに絡まり、姿勢が崩れた。

 二人分の体重を受けたスプリングが、ぐん、と反発する。



 これは夢か、と鈴音は思った。


 これはまずい、と篤久は思った。



 転倒し、かばい、庇われた。それだけのこと。

 それ以上の何ものでもないのだが、この状態はあまりにも。



「……だいじょーぶ、ですか、鈴音さん」


 ベッドの上、鈴音の体をしっかりと抱き留めた篤久の小さな声で、鈴音ははっと我に返った。

 上に乗ってしまっている。


「わ、わっ、ごめんなさいすみませんっ!」

「痛いとこない? ぶつけてない?」

「あ、あ、はいっ、篤久さんはっ」

「だいじょぶ俺受け身は関節技の次に得意なの。……大丈夫ならどいて下さいな、鈴音ちゃんが太ってないったって、人一人乗ってるのは流石に重いんだわ」

「ああぁあぁぁすみません」

 申し訳ない、早くどかなければと理解してはいたのだが、


(何かいい匂いする! あったかい! っていうか、)


「…………このまま死にたいぃ」

 理由はどうあれ抱き締められているという事実が鈴音の思考力を低下させた。思わず呟くと、篤久は困惑する。

「やめてよ生きてよ俺第一発見者つーか容疑者とかなりたくねえよ、いいから早くどいてちょうだい、離すよ?」

「やだぁ」

 ぎゅう、としがみつきながら、横に転がる。

「ぅわっ、ちょ、っとっ、鈴音ちゃ」

「今日はサービスしてくれるんじゃないんですか」

「言いましたっけそんなこと」

「とぼけても無駄です昼間言ってました」

 背に回す腕に力を入れると、ぎゃっと悲鳴が上がった。

「やめて! 適用外適用外! 何する気俺の貞操狙ってんの⁉」

「るりちゃんがよくて私がダメとかそんなことはないでしょう、成人してるんですよ私」


 胸元に顔を埋める。

 そう厚くない布地の館内用ウェア越しに感じる、大浴場にあった同じボディソープのほのかな香り。素肌のぬくもりとやわらかさ。



 どきどきする、が、ずっとこうしていたい。



「一回くらい、いいじゃないですか。最初で最後になっても、私は構わないです」


 はぁ、と大きな溜め息が聞こえた。

 そっと添えられた手が、あやすように、ぽん、ぽん、と軽く背を叩く。


「鈴音ちゃん」

「はい」

「愛が重い」

「重くもなりますよ十八年分なんだから」

「まぁ、そういうの嫌いじゃねえけどさ」

「だったら、」


 手の動きが止まった。


「一回したら、絶対一生引きるよ」


 その一言は、静かで、重たいものだった。


 断言、ということは。


「世利子さんと、そうだったんですか?」

「や、してませんけど?」

 意外な返答に、顔を上げる。

「え、何で?」

「何でって、逆に何でしてると思ったの」

「そんな雰囲気ありそうだったので」

 雰囲気、と繰り返すと、篤久は仰向けになって笑った。

「あっははっ。そこまで劇的ドラマチックな関係じゃねえよ世利子と俺は。んなことしてたら気まずすぎて今みたいな関係なってねえっつーの。塾帰りのガキどものお迎え待機場所になってんだぞ、うち」

 確かにそうだ。週に二度学習塾に通っているという双子の姉弟は、鈴音の終業時間の頃合いにときどき浄円寺邸にやってきて、仕事を終えた世利子と待ち合わせて帰宅する。そのまま浄円寺邸で夕食を共にすることもあり、その際は鈴音も誘われて同席する。複雑な間柄になってしまっていたら、いくら幼い頃からの知己とはいえ、こんな家族ぐるみの付き合いにまで発展しないだろう。

「……言われたけどね、『一回くらいヤっとく?』って。断ったんだよ。絶対引き摺っちゃうもん。そんな呪詛のろいかかったみたいな状態で一生いるなんて、俺ァまっぴら御免だね」

 天井を仰ぐその横顔を、鈴音は見つめた。感情が読み取れない。

「鈴音ちゃんもさ、そんなことしたらずっと残ると思うよ。十八年、好きでいてくれてるわけでしょ。一生、残る」

「そんなの今更ですよ」


 気持ちが消えないのが、呪いなのだというのなら。


「私は、一生、貴方のことが好き」


 開いた分の距離を詰めて、また抱き付く。酒は全く入っていないが、この状況が、話の内容が、言動を少し大胆にさせていた。


「貴方のことしか想ってない。他の誰かなんて全然目に入らない。何をしても、しなくても、ずぅっと、このままです」


 かといって、ふざけているわけではない。真っ直ぐ、真面目に、気持ちを伝えるその姿勢を、聞いている篤久も決してないがしろにはしない。それがわかっていた。


 謠子にするように、指の腹を使ってかき回すように、鈴音の頭をでる。

「はぁ、参っちゃうねェ。こんなろくでもねえのじゃなくて、もっとまともなにすりゃいいのにさ」

「貴方がろくでもない人だっていうのは承知の上です」

「鈴音ちゃん結構言うよね? …………っていうかさァ、ほんと、何で俺なの? 十八年くらい前って、初めて会った頃じゃんな? 俺鈴音ちゃんにしょぱなから好感度爆上げになるようなこと何かした?」

「やっぱり覚えてないか」

 小さく独白どくはくすると、篤久は鈴音の肩を掴んだ。

「記憶力は関節技以上に自信あんだよ覚えてないんじゃねえのまず心当たりがねえんだよ、俺は一体何したんだよ教えてもらえるかお嬢ちゃん」

 真剣な表情、肩を掴む手の力は痛くならない程度ではあるが強い。どうやらプライドに関わる何かのスイッチに触れてしまったらしい。想定外の反応に鈴音はびくりとした。

「え、えぇと……」

「ねえ、何で?」

 顔が近いが、緊張や照れよりも迫力に固まってしまう。

「は、話すと、長くなりますが……」

「オーケーオーケー、時間ならたっぷりある。夜はこれからだ、この際だし、じっくり話してもらおうか」


 ついさっきまで、ちょっといい雰囲気だったはずが、何故こんなことに。

 鈴音は、ごくり、と唾を飲んだ。




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