Ⅲ◆
その事実を明かした直後から、急に天気が崩れ始めた。
晴れていたはずの空にはあっという間に雲が広がり雨が降り出し、しかも
高級菓子専門店で買うものを選ぶ鈴音より一歩下がったところで、篤久は困っているような焦っているような、複雑な顔をしていた。店に入ってから一言も言葉を発していない。
「上限幾らですか?」
振り返って声をかけてみると、はっとした篤久は、少し目を泳がせながら言った。
「い、一番高いのでもいいぞっ、金ならある!」
「謠子ちゃんのお土産も買います?」
「あ、うん、そうだなっ」
挙動不審。
(そんなに気まずい……?)
第一、かの娘と篤久がどんな間柄かなんて、鈴音には何ら関係のないことではないか。それなのにこの有様。鈴音には知られたくなかったのか。
(ふふ)
本人には悪いが、その複雑な感情を抱かれているということが、鈴音には少し嬉しく、楽しく、面白かった。
「じゃあ、これにしようかな。期間限定。パッケージ可愛い」
「せっかくなんだからそっちのでっかいやつにしなよ、いっぱい食えるよチョコ好きだろ」
「お気遣いは嬉しいですけどこれ二万以上するじゃないですか、無駄に散財しないで下さい」
「じゃあ謠ちゃんにこれ買う……」
動揺のあまりに判断能力に影響が出ている。ちょっとまずかったかな、と思い直す。
「篤久さん、しっかりして下さい」
「俺の心を乱したの鈴音ちゃんじゃん⁉」
「その点については申し訳ないと思ってます」
「嘘だ!
元に戻った、ように見える。世利子の言うように、彼の性格上何があってもできるだけ平静を装おうとするのだろうから、もしかしたら内心まだ落ち着いていないのかもしれないが。
結局、篤久は鈴音の選んだチョコレートの詰め合わせと、謠子への土産にと同じものをもう一つ、そして焼き菓子の詰め合わせを一つ購入し、店を出ると焼き菓子の入った袋を鈴音に渡した。
「おうちに持ってって。小母さん好きでしょこれ」
「えっ」
「いつも優秀なお嬢さんにお世話になってっからね。ここじゃなくても店あるけど値段が値段だし、こういうのなかなか自分で買わねえだろ」
本当に、細かいところに気が付く。普段の言動に惑わされがちだが、育ちのよさはしっかり染みついている。こういうところがあるから、他の異性と比較させられてしまう。彼にとっては社会的行動なのだというのはわかっていても。
「わ、わざわざ、ありがとう、ございますっ」
「どいたま~。……しっかし雨すっげえな、昼間あんなに晴れてたのに」
バケツをひっくり返したような、とはよくいったもので、まだ日没間もない時間帯だというのに夜のように暗く、本当に滝のように雨が降っている。
「…………帰れるんかな、これ」
「ちょっと見てみます」
スマートフォンを取り出して、気象情報のアプリケーションを立ち上げる。謠子は通行止めが発生する可能性があると言っていたが――
「……あ」
「何、どしたの」
鈴音は、顔がにやけそうなのと、ちょっと怖くなったのを同時に何とか我慢しながら、その情報を読み上げた。
「大雨洪水警報……道路どうだろ……高速道路、事故と土砂崩れで通行止め……一般道路も冠水……だ、そうです」
優秀な秘書の報告に、専務は絶望した。
「嘘だろ⁉ 降り始めて一時間くらいしか経ってねえじゃん!」
「だって、この雨脚ですよ? ……明日の明け方までこんな感じ、みたいです」
「マっジかよ……」
ブラックスーツ一式の入った大きな紙袋が掛かった腕を組んで、ゆっくり目を閉じ、考え込む。どうするつもりなのか――ここまで条件が揃っていれば、結論は一つのはずなのだが。
「……ちょっと、地図見せて」
「あ、はい」
バッグからリーフレットを出して渡すと、顰めっ
「…………よっし、あるな。鈴音ちゃん」
「はい」
篤久は、リーフレットを折り曲げてジャケットのポケットに突っ込み、次に取り出した財布から一万円札を数枚取り出すと、鈴音に握らせた。
「今から別行動、これで下着と明日着る服買っといで。制限時間……あんま長いと飯遅くなっちゃうな、じゃあ一時間半。またここで待ち合わせ。オーケー?」
「え、えっ……えっ⁉」
「身動き取れねえんならしょーがねえ、今日は泊まり。あっちにホテルあるから今日これから部屋取れるか訊いてくるわ、平日だからイケると思うけど。あ、その金気にしないで、返さなくていいからね。……はい、行動開始!」
ぱん、と手を叩いて、足早に歩き始める。かと思うと、早々に振り返って戻ってきた。
「そうだ、忘れてた」
「あっ、はい」
「おうちにちゃんと連絡しときなね、『帰れない』って。あと、これ、ごめん、折っちゃったけど店の位置わかんないっしょ。鈴音ちゃん持ってな」
「え、でも」
「だいじょーぶ、叩き込んだ」
変な大人についてくんじゃないよ、と言い残し、篤久は去って行った。その後ろ姿と、握らされた数万円とリーフレットを順に見て、鈴音は呆然と立ち尽くす。
「…………うそ、こんな、ほんとに?」
まさか、これ程までにトントン拍子に事が運ぶとは。
もっと
先程出した名前に対する反応。きっと気まずかっただろうし、今でもそのダメージは残っているはずだ。
それでも、今日のこれは、きっとチャンスだから。逃すわけにはいかない。
彼のことだ、この後鈴音が何を話すのかもわかっているだろう。
「……悪魔の囁きに、乗っちゃったものね」
鈴音もまた、歩き出した。
◆ ◆ ◆
「武菱鈴音、さん、でしょ?」
佐鄕瑠里花と初めて会ったのは、大学の卒業式直後のことである。
鈴音の瑠里花への第一印象は「かっこいい人」だった。
鈴音を含め周囲は華やかな
まるでそこにだけ、
見とれつつ、はぁ、と気のない返事をすると、彼女は
「答辞おつかれー、すっげーねあんなのやるなんて。……っはーっ、やっぱ近くで見ると
見た目に反して明るい。というより、父親が
一体何者なのか。
「え、えっと、」
「ね、これから時間ない? ちょっと話したいことあるんだけどさ」
初対面で
戸惑い返事に
「あぁ、ごめんごめん流石に暇じゃないよね。友達と打ち上げとか、親御さんも待ってるよね。……んじゃ、また今度にしよ。別に急いでるこっちゃないしね! はーい、これ!」
差し出されたものをつい受け取ると、黒ずくめの彼女は
「裏に番号とかメッセのアカウント書いてあっから、好きな方法で連絡ちょ。大体昼間、三時くらいまでだったら空いてっから! んじゃね!」
手の中のものを見ると、白い紙にメタリックパープルの字で「Violette étoile るり」と書かれており、その周囲がシールで可愛らしくデコレーションしてある。名刺だ。
裏には彼女の言うように、電話番号とメッセージアプリのアカウント名、そして彼女のフルネームがきれいな手書きで記されている。
『ヴィヨレット・エトワル』。
覚えがある。確かこれは――
「篤久さんの持ってるお店……?」
ようやく瑠里花に会えたのは、秋に入ってからだった。鈴音が就職先である浄円寺データバンクでの業務に慣れるまでそれなりにかかったせいなのだが、反面そのお陰でメッセージアプリでなかなか時間が取れないことを何度も謝っていくうちに、ときどき通話で話すようになり、だんだん親しくなっていっていた。
元々人懐こく明るい性格なのか、職業柄そういう癖があるのかはわからないが、佐鄕瑠里花はよく喋る。大学では学生の人数が多い上に学部が違うため全く接点がなく、卒業式のあった日がようやく初対面、次に顔を合わせたのはそれから数ヶ月後であったのに、コーヒーショップで待ち合わせたその日はまるで付き合いの長い友人のようだった。
「ごめんねるりちゃん、待った⁉」
「えー? すずねん全然遅れてないじゃん何で謝んの?」
卒業式の直後に見た佐鄕瑠里花は漆黒と鮮やかな赤のよく似合う目立つ和風美人であったが、待ち合わせ場所にいた彼女は毛先に巻き癖を付けて散らしたダークブラウンの髪にナチュラルメイクを
「だってこんな早く来てると思わなかったから」
「あ、ごめんごめんクセでさ。何か飲み物買ってきなよ、喉乾いたっしょ水分補給大事よ~」
「るりちゃんは? もうそれ少ないんじゃない?」
「ん~、じゃ、すずねんと同じの買ってきて。お金お金」
「あ、後でいいよ」
メッセージや通話ではいろいろな話をしていたが、瑠里花は出会った当初に言っていた「話したいこと」は一切話題に出さなかった。直接顔を見て話したいのだという。しかも、篤久には自分と知り合ったことは隠しておくように、と妙なことまで言っていた。
(ってことは……)
篤久絡みの話か。
ヴィヨレット・エトワルは、篤久が情報収集を目的として買い取りオーナーとなっている都心の繁華街にある接待飲食店、いわゆるキャバクラである。瑠里花は以前からそこでキャストとして働いている。だから彼と接触することは別段不自然ではない。
そんなことを考えながら、期間限定のフラッペと焼き菓子を二つずつ買って瑠里花の座る席に戻ると、瑠里花は財布を片手に待っていた。
「あっはは、水分じゃねーしカロリーだし」
「あ、普通のコーヒーの方がよかったかな」
「んーん、さっきコーヒー飲んでたから寧ろそれがいい、クソ甘いのだーい好き。へへ、こんなときでもないとこういうの頼まないもんなー」
「その……同伴、とか?」
「ごはん前にこんなの飲んだら腹一杯になっちゃうしね。でも
それはそれでありがたいよ、と瑠里花は笑う。
「すずねんはいいね、大学、親御さんがお金出してくれたっしょ」
「えっ」
「あ、
鈴音は、思わず吹き出した。やはり篤久の話をするのだ。
「
「……やっぱすごいなー、そういうのわかっちゃうんだね。オーナーの嫁候補だけある」
「嫁……へへ、そんな、ふふふ」
嬉しいことを言われてつい頬を
「すずねんオーナーのこと好きなの?」
「好き。すごく好き。十八年間ずっと好き」
「じゅうはちねん。やべー、ガチじゃん。えっ、どゆとこ好きなの? 確かにあの人あたしらには優しいし金持ってるけど口も足癖もクッソわりーしもうほんとなんつーか…………ヤクザじゃん?」
瑠里花の言葉に生じた「間」を、鈴音は察した。店での彼はそんなに大暴れしているのか。苦笑してしまう。
「るりちゃん、篤久さんの本業知ってる?」
「知ってるよぉ。あの人浄円寺データバンクの坊ちゃんでしょ? だからあたしらが〝蜘蛛の巣の糸〟になってんじゃん。言うてあたし入れてキャスト五人くらいと店長だけだけど」
「お店の人全員が知ってるんじゃないんだね」
「あの人浄円寺の坊ちゃんって知られちゃダメなんしょ? だから信用できる人しか使わねーつってたよ」
「るりちゃんは、その中でも篤久さんに一番信用されてる、ってことね?」
双方、沈黙。
店内の音楽と周囲のざわめきが、何故か遠く聞こえる。
視線を外さないまま、鈴音は続けた。
「私と篤久さんの間に縁談があったこと、私が篤久さんを好きなこと。私、友達の誰にも言ってないの。知られたら絶対いろいろめんどくさいし、結婚するのかしないのか、どう転ぶかわからない状態だから。武菱と縁を結びたいって考える人は多くはないけど全くいないわけでもないから、父の周辺でこの話を知っている人はそうそう言い触らさないんだよね。相手は何しろ表に出てこない浄円寺のご子息、上手くいくかどうかもわからない。破談になったとわかったら他を出し抜いて
瑠里花は驚いた顔をした。しかし何も、返さない。
「あのひとが
きっとこんなふうに言ったのだろう。
「付き合いの長い知り合いの女の子との間に縁談がきた」。
「自分のことをずっと好きだったと言っている」。
「ちょっと困る」。
困っているから、漏らしたのだ。
困らせているのはわかっている。
それでもこの気持ちはどうしようもなくて、だから、自分でも少し困っている。
この人にはそういうことを言うのか。
「やだなー、そんなおっかない顔しないでよ」
少しだけ
「あたしとオーナー全然そんなんじゃねーから安心して。あたしが信用されてるのは、もらってる分きっちり働いてるからだよ。ほんとにそんだけ。ずっと見てきてるんなら、あの人が仕事に関してはめっちゃドライなの知ってるっしょ」
「……るりちゃんは、篤久さんのこと好きじゃないの?」
「いやー、確かに優しいし顔も可が不可かって言われりゃ可の方だしエッチうめーし金払いもいいけどさ、あたしにとっちゃ雇用主でしかねーよ、
「ん?」
今、さらっととんでもないことを言わなかったか?
フラッペの容器を支える指先に力が入り、べこっと凹む。
「ん⁉」
瑠里花は、苦笑いした。
「そう。だからね、話したかったことって、そこなのよ」
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