フットステップ

如月風斗

前編 暗礁の空言

 嘘つきの足音はそこに残り、辿ればその人にたどり着く。それはどこにでも響く、大抵の人には聞くことのできない音。物心がついたときからずっと、琴葉ことははその”騒音“に悩まされていた。

 どこに居ても、どんな時もその音は聞こえる。まだ小さな頃はいつも母と一緒で、足音が聞こえていても怖くなかった。だが、学校に通うようになってから、琴葉は自然と人から遠ざかって生活するようになった。

 流石に十七年も聞いていれば慣れるものだと思っていた琴葉だが、今でもしっかりと、むしろくっきりと聞こえるのだった。


 まとわりつくようなチャイムが鳴り、どっと人が教室から出ていく。静かになった教室に残る琴葉はじっと黒板の方を見つめる。決して、そこに何かがあるわけではない。


「今日は三人。教壇には三人の足音が残っている。全く困ったものだね」


 おもむろに立ち上がり、教壇の上に立った琴葉はゆっくりと教室のドアの方へ進んでいく。しばらく廊下を進むと職員室が見えてきた。職員室には大きな窓がついており、廊下からも中の様子が見えるようになっている。黙々とパソコン作業をする人や楽しそうに談話している先生の姿がそこには見られた。

 足音はまだまだ中へ続いているようだ。だが職員室には足を踏み入れない。少し離れたところから耳を澄ませ、じっと職員室を見つめた。


「大川先生は小さい。坂本先生はやっぱり早い。山岸先生は革靴の、堂々とした足音」


 速さや音の大きさで誰の物なのかも、どんな嘘なのかも大抵想像がついてしまうようになった。嫌な嘘はやっぱり嫌な音がするし、優しい嘘は優しい音がする。しかし音を聞き分けるのには中々の労力が必要となり、無数の音が飛び交う学校や街では特に体力を奪われる。


 少しその場でぼんやりとしてから、琴葉は部室へと足を運んだ。


「どうもどうも」

「よっ」


 電気のついていない、放課後の薄暗い部室。中には機材などが雑多に置かれており、機材の影にある人影が返事をする。琴葉の同級生だ。まだこの同級生一人しか来ていないようである。「まだ」と言っても、部員は全員で六人しかいないからこの時間では妥当な人数なのだろうが。


「今日はどうするの?」

「うーん、まあ暗くなったら火星でも観察しよっかなあと」

「火星か。いいね」


 琴葉が所属するのは天文部である。一代上の先輩がいない天文部では、この同級生の小柴が部長をしている。メガネをかけた、ゲームと動画視聴が生き甲斐の理系男子だ。


 琴葉はかばんから一冊の本を取り出した。静かな部室で読書をするこの時間がなければ、学校なんて、とうに辞めていたかもしれない。


「何読んでるん?」

「んっ、あぁ、これは宮沢賢治の短編集。夏休みに読書感想文書かなきゃいけないでしょ?」

「へぇ〜、俺はラノベでも読もうと思ってたけど、そんな難しそうなの読むんだ」

「なあに、ラノベも立派な読書だよ」


 一通りやりとりを終えてしまうと、小柴はワイヤレスのイヤホンを取り出し耳にかける。特にワイワイと騒ぐわけでもなく、それぞれが好きなことをする。これがうちの天文部の日常である。


 琴葉はしばらく本を読んだあと、散歩がてら校内を歩くことにした。どうしても座っているだけというのも退屈なものである。


 一階に降り、昇降口の前へ、ただなんとなく足を運んだ。出入り口ではこれから練習を始めるところであろうサッカー部員達がガヤガヤと騒いでいる。その集団を通り過ぎ、琴葉は事務室前へと向かった。そこには小さな水槽が置かれており、時間があるときに琴葉はよく見に来ているのだ。


「あれ……。足音がする……」


 人通りの少ないこの辺りで足音が響くことはあまり無い。水槽の方へと足音は続いているようだ。何か胸に刺さったような違和感。足音を追いかけると、そこにはいつもと変わらぬ様子で水槽がポツンと置かれていた。先の見えない真緑の水槽だ。


 ”バタッ、バタッ“


 水槽に近づくと、魚が跳ねるような音が聞こえてきた。

 そこへ、近くの事務室から事務の鍋山さんが出てきた。よく水槽へ散歩にきていたため、いつの間にか顔見知りになり、時々世間話をするようになったのだ。

「こんにちは」

「こんにちはぁ。どう? 金魚は元気にしてるかしら?」

「うーん、真緑だから元気かはわからないけど、なんか金魚が跳ねているみたいな音がしませんか?」

「あら、そう。私には聞こえないわねぇ」


 年かしらぁ、等と言いながら鍋山さんは事務室へと戻っていった。やはりなにか違和感を感じる。この魚が跳ねる音は自分にしか聞こえていないのだろうか。

 気になった琴葉は耳をよーく澄ませる。やはり音はすれども水槽の中はしんとしている。耳と目からの情報があっていない。あっていない――。まさか⁉


 琴葉は急いで水槽台の下から小さな網を取り出し、水槽へ入れる。何度もじゃぶじゃぶと網を動かすが、何にも当たらない。

 金魚は、一匹も居なかった。


「まさかさっき足音は……。でも、その後の音が無い」


 普通なら嘘や隠し事をしている人まで足音は続くのだ。だが、今回はそれが"無い"。これでは金魚に辿り着く事は出来ないではないか。これまでまでこんなことなど無かったのだが。


 どうすることも出来ず、琴葉はトボトボと重い足取りで部室へ戻った。

 これくらいの時間になると流石に部員全員が揃っていた。琴葉に気がつくと、小柴は待ってましたと言うようにワイヤレスイヤホンをケースにしまう。


「そろそろ天体観測しに行きます?」

「おう。みんな準備してくれぇい」


 小柴の合図で部員は各々の作業をピタリとやめ、準備を始める。昼間は団結力は見られないが、天体観測となると話は違う。文化部では珍しい夜行性の部活動だ。

 屋上に出ると、薄暗くなった空にポツンポツンと星が輝いていた。遠くに広がる紫の空が胸にも広がってくるようである。


「そういえば、事務室前の水槽って見た?」

「うん?」


 小柴は少し考え込むようにしてから、ピンときたというような顔で答えた。


「あんな暗いとこ中々通らないから忘れてたわ。あそこって昇降口の近くっしょ? あと裏口も近かったっけ」

「そう。今日そこに行ってみたら水槽の金魚がいなくなってたんだよ」

「へぇ。どうしたんだろうな」


 大して興味のなさそうに返事をし、小柴は手元をライトで照らしながら天体望遠鏡の準備を続ける。たしかにあの水槽の存在すら知らない人も多いだろうから、興味が無いのも無理はないだろう。


 部員が次々と望遠鏡を覗く中、琴葉はその目でじっと空を見つめる。段々と深くなっていく空。見ていると吸い込まれそうな気すらしてくる。屋上からは人工芝のグラウンドが見え、練習をしているサッカー部や陸上部の姿が見えた。グラウンドのライトが眩しい。


「お前も見ないの?」

「あっ、見るよ」


 何度か呼ばれていたらしいが、景色に夢中で返事が遅れてしまった。何度来ても、ここから見る景色は特別だ。小柴はそんなに面白いものがあるのかと不思議そうな顔で空を見つめる。

 琴葉は大きな望遠鏡の小さな穴から空を覗いた。くっきり、とまでは行かないが、火星の模様もなんとなく見ることができる。砂嵐が起きているらしく、濁ったような部分も見られた。


「今日はなかなかよく見えるな」

「うん、まあまあ模様も見えるし、今日は当たりだね」


 少し観測記録を録ってから、部室へ戻ることにした。空はすっかり暗くなり、月が遠慮がちに輝いている。七時過ぎというかなり遅い時間のはずだが、グラウンドにはまだ人影があった。どうやらサッカー部らしい。やっぱり運動部は大変なのだなぁと思いながら、琴葉は部員達へと続いて階段を下っていった。


 ――次の日――


 朝だというのに鋭い日差しの照りつける中、学校まで長い時間をかけて自転車をこぐ。一体この苦行はいつまで続くのだろう。体中から汗が噴き出す。琴葉はやっとの思いで校門にたどり着き、自転車を降りて昇降口へと向かった。遠くから大勢の走る音が聞こえてくる。どうやら朝練をしている運動部員たちの音らしい。朝からご苦労だな、と思いつつ、琴葉は再び重い足を動かした。


 教室に入ると、数名の女子たちが勉強をしたり話をしたりしている。朝は部活のない女子が教室のほとんどを締めていた。

 隣の席の咲花さきかがニコニコとしながらおはよう、と言う。咲花は小学生のときからの唯一の親友だ。


「おはよう。なんか嬉しそうだね」

「バレましたか。実はですね、朝、久しぶりに瞳矢とうやに会って話が盛り上がってしまったんですよ」

「ほう、それはおめでたいですねぇ。瞳矢ってサッカー部だよね? 朝練じゃあ無かったんですかい?」

「そういえば朝練じゃなかったみたいだね。鬼のサッカー部ならいつも絶対朝練なのに」


 咲花と同じく小学生の頃からの友達である瞳矢のことを咲花は昔から気になっている。なんだか微笑ましい咲花の近況報告を聞くのがじれったいが面白い。

 その後も世間話をしていると、いつの間にか時間は過ぎ、始業のチャイムが鳴ってしまった。


 朝の咲花の話が少し引っ掛かり、ぼーっと考え込んでいると、担任が勢いよく扉を開けて入ってきた。


「おい! グラウンドが大変なことになってるぞ! あんなことしたのは一体どこのどいつなんだ⁉」

「えっ⁉」


 閉められていたカーテンと窓を開け、皆が一斉にベランダへ出ると、そこに広がっていたのは真っ黒なグラウンドだった。学校自慢の鮮やかな人工芝は消えている。きっと黒いのは人工芝の下に敷かれていた緩衝材のような物のせいであろう。この時間になるまで誰もこの事態に気づいておらず、一同驚きの声を上げる。


 一日中突然消えた人工芝について騒がれたが、目撃者は一人もおらず、もちろん名乗り上げるものもいなかった。ちょっと廊下へ出れば、あることもないこと様々な噂が飛び交っており、授業どころではないといった感じだ。

 ふと朝の会話がよぎる。そして登校時に聞いたランニングの音。グラウンドがあんな状態なら朝練をしている場合ではないし、朝練の後の短い時間で消えたとも考えづらい。だったらあの音は聞き間違いなのだろうか? いや――。


 放課後、どうしても気になった琴葉は瞳矢に話を聞いてみることにした。昨日遅くまで練習をしていたサッカー部であれば、なにか知っているかもしれない。


「朝練は今日はなかったよ。本田とも朝会ったし」

「そうなんだ。じゃあ、昨日の夜とかにグラウンドでなんか見なかった?」


 本田とは咲花のことである。未だに名字呼びとは……。というのは置いておき、瞳矢の証言は朝の咲花の話と同じであった。

 切りあげようとすると、瞳矢はうーん、と唸ってから何かをボソボソとつぶやいた。


「どうしたの?」

「いや、別に大したことじゃないんだけどさ、珍しく昨日は先輩たちが用具の片付けと倉庫の鍵締めしてくれたんだよ。ラッキーだとは思ったけど、急にそんなことされると気味悪いよな」


 ワハハと無邪気に笑ってから、「今日はもう帰るわ」と瞳矢は行ってしまった。一連の騒ぎで全部活が停止されたため、足早に高校生達が校門から出ていく様子が窓から見える。一人大きな学校に取り残されてしまったようだ。


「辿ってみるか」


 このままでは帰ってはいけない様な気がして、朝のランニングのような音がまだ聞こえるかを確かめることにした。


 やはり大勢の走るような足音が聞こえる。耳が痛くなるような気すらするが、一つ一つ辿ってみることにした。

 すると、どの足音も校舎の中へ向かっていく。足音は裏口から入り、事務室前を通って階段へと続く。どうやら屋上へ向かっているようだ。とうとう屋上の物置前まで来てしまった。


「この中か。でも、流石に鍵掛かってるよね」


 ガチャガチャと扉をいじってみるも開かない。やはり鍵がなければ開かないようになっているらしい。だが、職員室へ鍵を取りに行くほどの勇気も気力もない。


 オレンジがかった空を一度見上げてから、琴葉は昇降口を出た。


 ――次の日の放課後――


 今日は別の方向に辿ろう。普段は人の嘘にはそこまで執着しないようにしているが、何か気になってしまう。さっそく辿ろうと思った琴葉だが、咲花に一緒に帰ろうと誘われてしまった。


「じゃあさ、ちょっと散歩してからでいい?」

「え? 全然いいけど、どしたの?」

「まあ、ちょっとした探検ですよ」


 昨日と同様にグラウンドから辿っていく。今度は昇降口、それから階段を登って三階へ着いた。更に廊下を進んでいく。


「三年生に何か用事があるの?」

「まあそんなとこ?」

「でも、もう誰もいないんじゃない?」

「まあね」


 しばらく足音を辿っていくと、三年四組の教室で足音がピタッと止まっていた。また途中で終わってしまっているのだ。


「そういえばさ、三年四組ってサッカー部員とかいるの?」

「うーん、たしか瞳矢がサッカー部部長がいるって言ってたような」

「なるほどねぇ。流石の鬼のサッカー部も我慢ならなかった訳か」


 なんとなく今回の足音の原因がわかってきた。あまりにも厳しい部活動体制。鬼のサッカー部と言われているが、とうとう部員による反乱が起こったらしい。


「さっきから独り言なんか言っちゃってどうしたの?」

「いや、一昨日人工芝が全部なくなっちゃったでしょ。あれの犯人と人工芝の在り処の想像がついたの」

「え? どういうこと?」


 不思議そうな顔をする咲花にこれまでのことを話す。もちろん足音のことは抜きで、だ。


「なるほど。じゃあやっぱり先生に言ったほうがいいんじゃないの?」

「そこまでするのは面倒というか、なんというか」

「えぇ〜。まあ琴葉らしいか」


 あれから三日ほどが経っただろうか。とうとう捜索していた先生たちによって屋上の物置が開けられ、物置いっぱいに積まれた人工芝が見つかった。犯人はやはりサッカー部の三年生たち。理由は厳しい部活動への反抗ということだった。


 確かに、夜遅くまで活動させなければ物置や裏口の鍵を生徒が管理することはなく、人工芝を移動する時間もなかっただろう。まともに指導もせず、ただただ長時間の活動を押し付けたサッカー部顧問はその座から降ろされることとなった。これでサッカー部員達が少しでも救われてくれると良いのだが。


「やっぱり琴葉はすごいですな」

「全然。だってもう一つの事件には気づけなかったのですから」

「もう一つ?」


 その事件の日の夜、人工芝を抱えて走るサッカー部員達は前をよく見ずに、夢中になって屋上へと向かった。そのときに人工芝が当たってしまい、事務室前の水槽を倒してしまったのだという。倒された金魚はバケツに移された状態で、人工芝とともに発見されたらしい。少しでも証拠になるようなものを作りたくなかったらしく、再び水槽には水と絵の具を入れて真緑の状態にしたのだ。


「水槽か……。そういえば全然見に行ったことなかったかも」

「私は暇だからよく見てたんだけどね。まあ無事だったから良かったのだよ」

「確かに、無事が一番だもんね」


 ずっとモヤモヤとしていたものがスッキリと晴れ、ようやく落ち着くことができた。

 このまま静かでいてほしいのだけれど、無音の場所はどうやら存在しないらしい。

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