幽霊だった君へ

CD

プロローグ 回想の回想

 あれは半年前だったか。いや、もっと前だっただろうか。


さかき、人には大切な要素が三つある。わかるか? 知・徳・体だ』


 放課後に生徒指導室に呼び出されたとき、担任教諭からありがたいお言葉を授かった。とてもわかりやすい標語を用いた、素晴らしい説教だった。


『知識、人徳、体力。お前にはそのうち徳が欠けている』


 高校に入って友達を作らず(作れず)、部活に入らず、一人でぷらぷらと授業をサボったり遅刻したり、ろくでもない学園生活を送る俺を心配した担任が、深刻な様子でひどいことを言ったので、俺は思わず笑い出しそうになったものだ。


 思い出しついでに調べてみると、どうやらこの知・徳・体というのは文部科学省が学習指導要領で謳っている文言らしい。先生オリジナルだと思っていたので少しだけショックだ。


 あらためて、知・徳・体。とてもいい標語だと思う。


 この三要素の並び順が徳・知・体でも、体・知・徳でもないのには、思うにれっきとした理由がある。標語の響きだけで順番が決まっているわけではないはずだ。他に許されるのは、体・徳・知だけだと俺は思う。


 要は、徳が必ず真ん中に来るべきなのである。


 知にしても、体にしても、単独ではその効果が半減する。知識だけでは、体力だけでは、人は社会に評価されない。人徳と結びついて初めて、その人が正当に評価される。


 あるいは、人徳さえあれば、知識や体力など不要と言っても過言ではない。


 人徳のある人間は、知識や体力がなくとも、自然と誰かに助けられ、幸せに生きていける。学校が修練の場である以上、知識や体力を切り捨てることはできないが、この標語の並びには暗にそういった意味合いが含まれている気がしてならない。


 逆に、知識や体力が優秀でも、人徳がなければむしろその優秀さは社会から迫害を受ける理由になり得る。

 出る杭は打たれるのが世の常だ。打たれたくなければ人徳という盾を獲得するほかない。徳がないのは人として致命傷なのである。


 つまり、高一の時の担任がわざわざこんな標語を真剣に言い聞かせたのは、それなりの重要性ないし緊急性があったのだ。お前、徳ねえな。マジやべえぞ、と。


 実際、徳が致命的に欠けている俺の学園生活は、以降さらに廃れていった。


 学内上位を維持していた成績は落ちぶれ、かろうじて続けていたトレーニングもやる気がなくなり、徳どころか知も体も失ったのだ。学習指導要領的に最低の人間がみるみる出来上がってしまったのである。


 遅刻が無断欠席に変わり、休日が増えると学校に無断でバイトを始めた。親父の煙草をくすねては、原付で深夜徘徊し海岸で一服するという、しょうもない非行を繰り返した。


 劇的に不幸な出来事があったせいでもなく、ただ俺がくだらない人間だからそうなった。


 しょうもなく、くだらない生活。

 ろくでもないマイナスの人生。


 今でも思うのは、それに陥ってしまったのは、ひとえに俺に人徳が不足していたせいではないか。徳さえあれば、俺の学園生活はもっと華やかだったのではないか。


 おちぶれた俺に学校で人気者の美少女から救いの手が差し伸べられるとか、評判の美人教師から救いの手が差し伸べられるとか、実は存在した女幼馴染から救いの手が差し伸べられるとか、おいしい目があったかもしれないのだ。


 ……というように、人は孤独になると、死ぬほどどうでもよく稚気じみた思考に時間を費やすようになる。


 その思考を他者に打ち明ける機会はそうそうないし、ない方がよい。それは確かなのだが、先の生活を続けた挙げ句、幸か不幸か、俺はそういう相手と出会ってしまった。


「くく、馬鹿だね。というか気持ち悪いね。何もかもが間違ってる。君がろくでもないのは知っていたけど、ここまでだとは思わなかったよ」


 塞翁が馬とでも言うべきだろうか。

 それとも類は友を呼ぶがより正確か。


「僕が思うに、さかき君が落ちぶれたのは、君の知識と体力が単に無能だったからだ。仮に人徳がなければ社会に評価されないのだとすれば、そんな社会こそを否定してやるべきなんだよ。そこで折れた時点で君の負けだ。僕は敗者の理論は嫌いだね」


 ろくでもない生活には、ろくでもない奴がついてくるものだ。

 そいつと出会ったせいで、おおむねプラスマイナスゼロくらいにはなった気はする。

 気がするだけで、まだマイナスかもしれないけれど。

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